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ブックマーク / chnpk.hatenablog.com (4)

  • 脱魔術化の無限後退を体感してみました - よそ行きの妄想

    私が書いた『ソーシャルキャピタルを構築する経済的営みとしての擬似科学批判 - よそ行きの妄想』にトラックバックされた『批判の批判に批判する - M59の記録』という記事が見事に私の盲点を照らしたので紹介しておく。 科学に無知なままに行われる科学的区別に基づく疑似科学批判と、科学的信仰を普遍化するようなニセ科学批判を批判しているという。つまり、科学を知らないで、科学を盲信・妄信する輩を批判している。 科学を知らないで、科学を盲信・妄信する人は、結局「擬似科学も信じてしまう(信じるおそれのある)人」ってことだ。結局、これはただの擬似科学(妄信・妄信)批判だった。 擬似科学批判批判論を、盲信する人に言い聞かせたって意味はない。その論自体を盲信するだろうから。この問題の解決策は、科学(=物事を盲信・妄信しない姿勢を保つこと)をさせることなんじゃないか。 批判の批判に批判する - M59の記録 私は

    脱魔術化の無限後退を体感してみました - よそ行きの妄想
    ublftbo
    ublftbo 2008/11/19
    「自らが科学的に振舞ってしまっていたようだ。」←さすがにこういうのは勘弁して欲しいです。空疎としか言いようがないですよ。
  • 宗教と科学と疑似科学とニセ科学について - よそ行きの妄想

    科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想(以下、単に「前回(エントリー)」という)について補足。 なお、並み居るコメント・トラバ等々への個別応答はまた別に行う方針(なのでオレの質問に応えろボケはまだやめてね)。 前回大分いい加減なことを書き散らかしてしまったので、なかなか説明も大変だが順を追って。 宗教と科学 前回Wikipediaを引用したのは、その『科学に属する諸学問は科学であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。』という記述が目に留まったからであり、Wikipediaに書いてあるくらいだから科学を思想の一種と捉えることにそれほど大きな抵抗はないのだろうと思ったのだが、寄せられた反応を見ているとどうもそうでもないようなので、まずはここから話をはじめねばなるまい。 ちなみに、予め断っておきたいのは、私は科学と分類される諸学問の有用性に疑問

    宗教と科学と疑似科学とニセ科学について - よそ行きの妄想
    ublftbo
    ublftbo 2008/11/17
    判明したこと→・調べてない ・調べる気がない ・調べてない人の論を援用する ・話をメタメタに持っていく ・はてなの反応を典型とする ・はてな以外の反応や議論をあまり考慮しない ・発端の私が置いてけぼり
  • 科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想

    いつもどおりはてなブックマークで放言を楽しんでいたらなんか絡まれた。 私が、 あんま関係ないけど、ニセ科学のなにがいけないのかさっぱりわからん。人が信じてればいいんじゃないのか。 はてなブックマーク - 似非科学対策としての「なんちゃって理解」を実現できないか - 狐の王国 とコメントしたところ、id:ublftboさんという人から、 [ニセ科学][科学]>id:chnpkさん ちゃんと考えた上で、分からんと仰っているんですか? 当然、これだけ問題視している人が沢山いる対象についてそう仰るのだから、なぜ「さっぱりわからん」のか、ちゃんと説明出来ますよね。 はてなブックマーク - はてなブックマーク - ブックマークで妄想をよそ行きに。 / 2008年11月14日 という指摘を受けたのだ。 問題視している人が沢山いることと私の説明責任の関係はいまいち不明だが、とりあえずそれはおいといて上の

    科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想
    ublftbo
    ublftbo 2008/11/15
    説明責任の話はしておりません。 / ブログで言及しました⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-bd02.html
  • 日本語が亡びるとかなんかそういうどうでもいい話ばっかりで、言語自体が亡びる可能性が論じられてない件について - よそ行きの妄想

    あの有名な梅田望夫さんが、なんか日語が亡びるとき―英語の世紀の中でとかいうを祭り上げて全員読むべきと啓蒙したり、読みもしないでコメントするやつはバカだと嘲ってみたりと、巷はなにかと騒々しいわけであるが、当然私は読まない。読まないで適当なことを言う。 言語なんて、そもそもただのツールである。手段であって目的ではない。目的はコミュニケーションである。そういう意味で、言語も貨幣も一緒。コミュニケーションのインタフェース部分だ。そんなものにアイデンティティを感じたり、絶対化したがる人の神経がよくわからん。 確かに、言語に基づいた文化があることは知っている。文学とでも括ればよいのだろうか。しかしそれはそれ、これはこれ、である。来の用途とはまた違う用途で取り上げられ、それが文化的な価値をおびるのはよくあることだ。CDの方が便利でもレコードの趣は廃れないし、写真のほうが正確であっても絵の情緒は失わ

    日本語が亡びるとかなんかそういうどうでもいい話ばっかりで、言語自体が亡びる可能性が論じられてない件について - よそ行きの妄想
    ublftbo
    ublftbo 2008/11/13
    本文を読んでも、「言語自体が亡びる」のがどういうことなのか、全く理解出来ませんでした。
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