武家の信仰を集めた京都府八幡(やわた)市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で、豊臣秀吉の子・秀頼(1593~1615)が改修した回廊(重文)の屋根瓦に金箔(きんぱく)が施されていたことが、市教委の調査でわかった。 権威の象徴とされる金箔瓦が寺社で使われるのは珍しい。改修は、関ヶ原の戦いの6年後で、市教委は「捲土重来(けんどちょうらい)を期す秀頼の意図が読み取れる」としている。 市教委によると、八幡宮に残る古い瓦を調べたところ、かつて回廊周辺などで見つかった3点の破片に金箔が付着しているのを確認。焼成具合などから、1606年に秀頼が回廊を改修した時のものとみられる。金箔瓦は城郭で多用され、織田信長が安土城(滋賀県近江八幡市)で使ったのが最初とされる。秀吉や各大名も居城に使用。権勢を示す狙いという。秀頼が改修したのは豊臣家が力を失いつつあった時期で、9年後の1615年に徳川家康に滅ぼされ
印刷 石と粘土を交互に積み重ねた地盤改良の跡=京都市東山区地図 源平合戦時に権勢を振るった後白河法皇が院政を敷いた御所、法住寺殿(ほうじゅうじどの)跡(京都市東山区)で、平清盛の義妹で法皇の妻となった建春門院(けんしゅんもんいん)(平滋子〈しげこ〉)ゆかりの寺院「最勝光院(さいしょうこういん)」の土台とみられる遺構が見つかった。京都市埋蔵文化財研究所が8日発表した。最勝光院と推測できる建物跡が出土したのは初めて。 法住寺殿は東西600メートル、南北1.1キロの広大な敷地を有し、貴族の日記から、南端に最勝光院があったとされる。今回の調査で、整地した土地の上にこぶし大の石と粘土を交互に積み重ねて地盤を固めた跡が、計4カ所見つかった。 最勝光院は滋子の願いで1173年に建てられ、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)のような荘厳な建物が築かれたとみられる。同研究所は「強大な権力を背景にし、清盛が訪れ
平塚市博物館(同市浅間町)は28日、保管していた馬具で人が足を乗せる鉄製の鐙(あぶみ)が、鎌倉時代(12世紀末~1333年)のものだったと発表した。同時代の鐙は奉納されたものなど未使用の数点しか現存していない。「実際に使用されていた鐙の発見は国内で初めて」と同館は説明している。 この鐙は1940年ごろ、同市久領堤の相模川に架かる馬入鉄橋下流付近で、砂利採取船が川底から見つけ、近隣の住民が保管し、04年に寄贈されていた。同館は来月に開催する城をテーマにした特別展のために鑑定を行ったところ、足を乗せる部分の形状から位の高い武士が使っていた「武蔵鐙」と断定。横浜市中区の「馬の博物館」の関係者からもお墨付きを得たという。 鐙は長さ344ミリ、高さ250ミリで重さは1・6キロ。周辺がさび付き、一部は腐食して穴が開いたり、壊れたりしている。平塚市博物館の栗山雄揮学芸員(50)は「鎌倉時代からずっと川に
鎌倉幕府の根本法典「御成敗式目」の制定で知られる3代執権・北条泰時(1183~1242年)が創建した、神奈川県鎌倉市の常楽寺の本尊、阿弥陀(あみだ)三尊像から、制作時期とみられる「仁治三年(1242年)六月十二日」の墨書が確認された。 泰時の出家の33日後、死の3日前にあたり、専門家は「死期を予感した泰時が、極楽往生を願って急いで造らせたのでは」としている。 三尊像は木造で、中央の阿弥陀如来像は像高70センチ、左右の観音・勢至菩薩像は同85センチ前後。作風に中国・宋の影響があり、鎌倉時代の仏師・定慶(じょうけい)の作とみられるという。 これまで室町時代の作とされていたが、昨秋、山本勉・清泉女子大教授(日本彫刻史)が調査。阿弥陀像の台座内部に、僧侶の名や日付が書かれているのを確認した。17日、市の文化財に指定された。
県立考古博物館は16日、猪名川町広根の「広根遺跡」で鎌倉時代(13世紀ごろ)の掘っ立て柱建物跡5棟や水田跡が見つかったと発表した。建物跡は最大で約70平方メートルあり、荘園の経営を任された名主(みょうしゅ)クラスの武士の屋敷とみられる。同博物館は「現在の川西市や猪名川町などで荘園を開発した多田源氏の勢力範囲を知ることができる」と話している。 鎌倉時代の遺跡からは火葬の跡も見つかり、武士たちが土地に住み着いた様子がうかがえる。他にも室町時代の石組みの井戸や、宋銭が出土した柱穴が見つかった。釉(ゆう)薬を塗って焼いた青緑色の陶器片もあり、中国製のつぼの一部とみられる。 広根遺跡は新名神高速道路の建設に伴い、今年度から本格的に発掘が始まった。 現地説明会は18日午前10時~正午。現場は町立つつじが丘小学校の北にある。問い合わせは現場事務所(072・767・2530)。【高瀬浩平】 〔阪神版〕
2012年02月15日08:00 なぜ平清盛は「王家の犬」ではいけないのか カテゴリNHK zarutoro さてNHK大河ドラマ「平清盛」で皇室のことを「王家」と呼称していることについて、天皇家の権威を貶めるものだと批判が巻き起こっています。 皇室を「王家」 適切なの? NHK大河「平清盛」に疑問の声 MSN産経 http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/index.html 結論から言えば、「王家」と呼称することは不適切であり、ドラマのテーマからしても避けるべきでしょう。 まず、平清盛と父の忠盛は時の最高権力者であった上皇(院、法王)の軍隊である「北面の武士」になることで力をつけていきます。 ドラマでは清盛と忠盛の会話に「王家の犬」と言う表現が頻繁に出てきますが、「王家」では誰に仕えているのかわからない上、初見の視聴者には皇室を指すことも理解しづらい。 親
第1回「歴史から現在(いま)を考える集い」 日 時 2月11日(土)午後1時30分~5時(1時開場) 会 場 登録会館2階大ホール(京都市中京区烏丸通御池上ル地下鉄烏丸御池から北へ徒歩1分) 講 演 井上 寛司氏(島根大学・大阪工業大学名誉教授) 「歴史から見た日本の神道」 本会は歴史に名を借りた祝日の国家主義的な政治利用を認めず、科学的な歴史認識を守り発展させてゆくため、「建国記念の日」不承認京都集会の実行委員会に参加してきました。その精神を継承し、歴史学の研究団体としての特性を生かした新しい集会を開催します。現代社会に対する新たな見方や問題意識を培うためには、それを規定する歴史的諸問題への考察が欠かせません。歴史研究の立場から問題を提起し考える場としていきたいと思います。 井上寛司氏を講師に迎え、柳田国男の「神道」論をどのように評価するか、「国家神道」は克服されたのかなど、歴史学の立場
今年のNHK大河ドラマ「平清盛」では、法皇・上皇らによる院政体制を「王家」と呼んでおり、ネットでは「『皇室』『天皇家』ではないのか」といった議論が起きている。同作品の時代考証にあたった気鋭の中世史家、本郷和人 東京大学史料編纂所准教授と「肉食と草食の日本史」(中央アート出版社)の共著もある作家の堀田純司氏に、「王家」問題について寄稿してもらった。(編集部) このような話題にうかつに首をつっこまずに過ぎ去るのを待つのが大人の態度だと思うのですが、この話題は実は「表現における用語の規制」に関わるものです。ですので非力かつ超末席ながら、言葉を使う商売のはしくれとして、あえて大河ドラマ「平清盛」における言葉の使い方について解説してみようと思います。いたらぬ人間の解説ですが、なにかの足しになれば幸いです。 今、一部で話題のNHK大河ドラマ「平清盛」で使われる「王家」という皇室の呼称ですが、まずこれは
「円福寺」建立場所 瑞巌寺本堂で確定 宮城・松島 出土した四半敷きの床=14日、松島町の瑞巌寺 国宝の瑞巌寺本堂で発掘調査をしている宮城県教委と松島町教委は14日、出土した遺構から判断して瑞巌寺と同じ場所に中世寺院の「円福寺」が建っていたことが確定したと発表した。担当者は「国指定史跡級の遺跡」と話している。 円福寺は鎌倉時代中期(13世紀中頃)の創建とされるが、建立場所については諸説あり、専門家の見解も分かれていた。 調査で本堂南側から東西18メートル、南北7.3メートルにわたって約45センチ四方の石を敷き詰めた四半敷きの床が出土。東日本の中世寺院では鎌倉の建長寺に次ぐ2例目の発見で、僧侶が寝起きする僧堂だったとみられる。 本堂中央部では18メートル四方の建物跡が見つかった。教典について講義する法堂(はっとう)と推定され、遺構の周辺からは瓦片も出土した。 県教委の村田晃一技術補助は
印刷 関連トピックスオリンピック国内最古の木造五輪塔=12日、京都市北区の大谷大学博物館、筋野健太撮影 京都市最北部の山あいにある志古淵(しこぶち)神社(左京区)で、平安時代後期の「平治元(1159)年」と記された木造の五輪塔が見つかったと、大谷大学が12日発表した。年号がある現存のものでは国内最古。供養のために建てる五輪塔の初期の姿を伝える貴重な作としている。 大谷大によると、同神社に保管されていた仏典の調査に関連し、蔵に眠っていたのが昨年3月にわかった。土台の基壇は8センチ四方で高さ29センチ。基壇の側面に「平治元年十二月九日」とあり、裏面には神社から南西4キロの峰定寺(ぶじょうじ)を1154(久寿〈きゅうじゅ〉元)年に開いた僧、西念(さいねん)の名が書かれていた。 記載の年月日は、平清盛(1118〜1181)が台頭する契機となった「平治の乱」が起きた日。清盛と手を結びながら乱で
来年のNHK大河ドラマ「平清盛」の時代考証に史学者の本郷和人氏が入ると聞いて、その趣向の書籍だろうと、とりあえず買ってみた。当たりだった。書籍としての構成、特に章構成はやや緩くも思えたが、随所にエキサイティングな話題がある。歴史愛好家にはたまらない一冊と言えるだろう。 本書を読み始めて何より「あっ」っと不意を突かれたのは、「平清盛」というのは天皇制の物語なのだということだ。言われてみれば当たり前でもある。親皇として表面的に対立した平将門などのほうが天皇制を外的に意識しやすいが、天皇制の内実を捉えるという点では「平清盛」はその特徴をよく表すことになる。 おそらくだが、お茶の間的にはさほど違和感なく受け入れられてしまうだろうが、天皇家を「王家」として扱うのはNHK大河ドラマでは初めてのことになる。天皇家は王家で当たり前。皇室でも「天皇」でもないのである。そういう感覚がようやく日本国市民の常識に
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