これまで歴史本や評伝にて部分的に語られるものの、日本の石油外交や資源開発の歴史について網羅的にまとめた書籍は、ほとんど存在しない。日本軍が石油を求めて東南アジアに武力進出していったことは歴史年表に記されてはいるが、誰がどういう経緯で進軍を決めたかや当時の資源開発現場を紹介する本はあまりない。太平洋戦争は石油の戦争といわれるわりに、私たちは事の顛末をきちんと理解していないのかもしれない。 そんな中、明治から現在までの日本の油田開発と資源外交に焦点をあてる本書は希有な一冊といえよう。これまで歴史に埋もれてきた数多くの物語を紡ぎだす良書である。しかも、歴史の表舞台に登場するプレイヤーの動向を紹介するだけでなく、そんな彼らを支えた人、場合によっては彼らにすら認知されていない現場の人たちにまでスポットライトをあて、日本のこれまでの資源外交と油田開発の歴史を振り返っている。 本書を読むと日本の石油政策
モンテヴェルディが生まれた時代は、フランドル派の音楽理念がヨーロッパ中に相変わらず広く行渡り、厳格な対位法に基づく、パレストリーナ風の合唱様式が主流であった。事実モンテヴェルディの初期の作品はこの様式に沿ったもので、《サクレ・カンティウンクレ》などはその好例である。 一方で、この時代には新しい音楽的な芽吹きとして、フィレンツェのカメラータを中心とした、歌詞の鋭い表現を目指した音楽の試みが現れ始めていた。 モンテヴェルディも徐々にこの新しい流れにのった作品を作り始め、1605年出版の《マドリガーレ集第5巻》などでは、それまでも古い様式から脱却を試みている。 この新しい音楽の思想は、”言葉は音楽之召使ではなく、音楽の主人である”という考えに基づいて、簡素な通奏低音に支えられた朗唱風の旋律が特徴であった。 モンテヴェルディはこの2つの潮流を前者の古い様式を「第一の手法」と呼び、後者の新し
曲目、作曲家などの紹介ページ 第13回公演、第17回公演(参考解説) C.モンテヴェルディ 「聖母マリアの夕べの祈り」 【解説:ラ・ヴォーチェ・オルフィカ 杉村 泉】 1 モンテヴェルディと聖母マリアの夕べの祈り 1567年に北イタリアのクレモナに生まれたクラウディオ・モンテヴェルディは,同地でマルカントニオ・インジェニエーリに作曲を学んだ後,1590年からマントヴァのヴィンチェンツォ・ゴンザーガに仕えるようになる。マントヴァ時代には,《マドリガーレ集》第3巻〜第5巻を発表するなど,活発な作曲活動を行っていたが,彼が確固たる名声を得たのは意外に遅く,マントヴァ時代末期,1607年の《オルフェオ》初演後のことであった。《聖母マリアの夕べの祈り》が作曲されたのは,おそらくその翌年の1608年から1610年の間であると推測される。 1610年9月,《聖母マリアの夕べの祈り》は,《“イン・イッ
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