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ブックマーク / sbiaco.hatenadiary.org (7)

  • ボオドレールという表記 - 両世界日誌

    私のもっている岩波文庫の「悪の華」の作者は「ボオドレール」であって、ボードレールでもボオドレエルでもない。なんともふしぎな表記というしかないが、鈴木信太郎がこういう奇異な表記をあえて選んだのには訣がありそうだ*1。 まずボオドレエル。戦前はずっとこうだった。これはいわゆる(?)鴎外式。鴎外は外国語の表記にあたって、「ー」の使用を認めなかった。彼にいわせれば、「ー」なんて文字は日語にはない、こんなものを使うやつはバカだ、だいいち字づらがよくないじゃないか、とさんざんだ。いずれにせよ鴎外の影響力は絶大で、そのため戦前の文学者はだいたい「ー」を使わず、ボオドレエルと書いていた*2。 ところが戦後のある時期を境に、「ー」が勢いをのばしてきた。ボオドレエルもボードレールになった。よほどの頑固者でないかぎり、この趨勢に逆らうのはむつかしくなってきた。鈴木信太郎もかなりの頑固者だが、岩波の編集部から「

    ボオドレールという表記 - 両世界日誌
    ushiwatat
    ushiwatat 2008/01/07
    「ー」の表記など。
  • 格闘技ほか - 両世界日誌 - 2007-10-12

    きのう久しぶりにボクシングを見た。まあNが勝つのは当然として、そんならさっさと早いラウンドでKOしてほしかったな。世界チャンピオンがあの程度ではちょっと情けない。圧倒的な力の差を見せつけてほしかった。 しかし世界チャンピオン相手にともかくも12R戦い抜いたというのは、やはりKもかなりの逸材なのかもしれない。Kのいいところ。ビッグマウスはご愛嬌としても、なんというか格闘家として華がある。これはアマチュアではなくプロでやる以上、たいせつなことではないだろうか。いっぽうのNは、そういう点ではダメだね。 だいたいボクシングに礼節とかなんとか、そういうものを求めるのはいつごろから始まったことだろうか。観客が求めているのは、リングの上で輝く闘士の姿であって、その条件さえ満たされれば、他の一切は不問に付される(はずなのだ)。観客は礼儀正しいボクサーなんて求めていない。野獣であればあるほど観客はコーフンす

    格闘技ほか - 両世界日誌 - 2007-10-12
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/10/13
    |格闘技のファンは自分たちがある種の「変質者」であることを自覚すべきだ。他人が死にもの狂いで殴り合っているのを高みから見物する。これはじゅうぶんに変態的行為だ。|
  • フィヒテ「全知識学の基礎」(下) - 両世界日誌

    このはあとになればなるほどむつかしくなる。第一部「全知識学の根諸命題」がわりあい明快だったので安心していたが、とんだ誤算だった。おかげで読むのにひどく暇がかかってしまった。しかし、これは読んでいいことをしたと思う。 フィヒテは哲学史的にはカントからヘーゲルへの橋渡しの役割を果したということになっている。しかしヘーゲルをほとんど知らない自分にとってはこの説明はあまりぴんとこない。むしろシュティルナーの自我主義に強固な地盤を与えるものとみるほうが自分にとっては納得がゆく。第二部における「構想力」の称揚、第三部における「絶対的能動性」の感情への適用などをみていると、これははるかにフロイトを予告するものではないか、とさえ思われるほどだ。 ところで、知識学の基礎とはなにか。これを乱暴にひとことでいってしまうと、「事行としての自我」になるだろう。「事行」とはTathandlungの訳語だが、あまり

    フィヒテ「全知識学の基礎」(下) - 両世界日誌
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/10/08
    『全知識学の基礎』。
  • 関口存男「独作文教程」 - 両世界日誌

    大枚はたいて購入(三修社、POD版)*1。まだざっと一瞥しただけだけれども、なにしろ古いなので、レイアウトその他、およそスマートとはいいがたい。ただその分、なんともいえないごつごつした手作り感があって、読めば読むほど味わいがましそうな、と同時にドイツ語の力もつきそうな感じがする。 任意のページを開いてみると、たとえばこんな作例がある。 「人間の指という奴は恐らくありとあらゆる道具中最も玄妙不可思議なものであるが、これ在るが為めに吾人はどんなに多くの道具を発明せずに済んで来たか知れないのである」 こんなものをいきなり訳せといわれても無理。で、横にある訳例をみると、 Die menschlichen Finger, wohl das wunderbarste aller Werkzeuge, machen eine Unmenge von Instrumenten ueberfluessig

    関口存男「独作文教程」 - 両世界日誌
  • 両世界日誌 - 2007-09-29 - [雑]翻訳者のあるべき姿とは

    だいぶ前に「池内紀氏が嫌い」と日記に書いたことがあるけれども、頃日こちらの記事を読んでその理由が自分なりに明確になった。なるほど彼はそういう態度で翻訳にあたっていたのか、と目からうろこが落ちた。 池内氏の翻訳態度を自分なりに総括すると、原文を尊重しないこと、これに尽きる。もちろんそれが端的にいけないというわけではないし、場合によっては相当な効果を生むこともあるだろう。しかし、である。こういう態度は、原著者よりも翻訳者のほうがえらい、という見識のあらわれでもあるのではないか。あるいはそこまでいわなくても、翻訳者はテキストを自由に編集する権利がある、と気で信じているのではないか。 編集、それはふたつのもののあいだをとって調整する、ということだろう。同じく中間的存在であるという点で、それは翻訳という作業と馴れあいやすいのかもしれない。しかし、両者はあくまでも別物だ。編集ということをいろんなもの

    両世界日誌 - 2007-09-29 - [雑]翻訳者のあるべき姿とは
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/09/29
    池内紀氏をめぐって。|編集ということをいろんなものに適用すると||フィールドは拡大する。すべてはリンクする。ただし、そこには屹立するものがなにひとつなくなる。こういうものが「知」と呼べるだろうか|
  • 両世界日誌 - 2007-09-22 - 無断転載のこと

    無断リンクのことはよくわからないが、私がときどきふしぎに思うのが「無断転載禁止」というやつ。ウェブ上にいったん公開したものを他人がどう使おうがかまわない気がするのだが、作者はよほどそのコンテンツに愛着があるのだろうか。それとも自分が心血をそそいでつくったものを勝手にひとに使われるのは我慢がならない、ということか。 いや、たぶんそんなけちくさい話ではなくて、むしろ著作権が問題なのだろう。しかし、それにしても、と思う。ウェブ上のものは基的にただで読める。ということは、いくらがんばって書いてアップしても一文にもならないということだ。金のからまないところで発生する著作権というのもあいまいなものだという気がする。 それにもうひとつ、ウェブ上の著作はたいてい実名を出して書かれていない。つまりそれだけだれが書いたかということは問題にされにくいわけだ。どこのだれが書いたかわからないものに著作権もへったく

    両世界日誌 - 2007-09-22 - 無断転載のこと
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/09/25
    戦前の日本での翻訳権の状態のひどさについて|しかし翻って考えてみれば、盗まれるということはたしかにそれだけの価値があるということでもある。価値なきものなどだれも盗もうとはしないだろう。|
  • 両世界日誌

    いったんこの日記を離れようと思います。 削除はしません、はてなダイアリーが存続するかぎりは放置するつもりです。 いままで見てくださった方々には感謝いたします。またどこかでお会いしましょう。 かつて熱中したことどもがもはや何の感興も喚ばなくなっている。あんなに好きだったあれやこれやがひどくつまらない無価値なものにみえてくる。それが老化というものなのかもしれない。 それならそれでいい、かつて私の愛したものたちよ、さらば。私は私の道をゆく。 若いころの愛の対象にしがみついて、その落穂拾いをやることには飽き飽きしてしまった。人生の秋(収穫の時期!)を落穂拾いに費やすなんて、あまりにも情けないではないか。 既知のうちに未知を見出し、未知のなかに既知を探ること、そしてそれを大いなる感興のうちに行うこと、それ以外に自分の生きる道はない。 私は変る、変らないために*1。 *1:cf.「私は死ぬ、死なないた

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    ushiwatat 2007/09/18
    「つらつら」「つらつらと」の意味変化についてと、団塊の世代のブログ執筆の黎明への期待。
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