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批評に関するweissbierのブックマーク (8)

  • 栗原裕一郎×大谷能生×南波一海が語る、音楽批評の現在地 「内容を薦めるのと、好きだから拡散するというのは違う」

    栗原裕一郎と大谷能生による共著『ニッポンの音楽批評150年100冊』(立東舎)は、明治初年前後から令和初頭までのおよそ150年のあいだに、日において「音楽」がどのように記述され、語られてきたのか、音楽批評の歴史的変遷を辿った一冊だ。 1876年から2025年までを30年ずつに区切り、その「通史」を描きだすとともに、その時代に出版された代表的な「音楽」について解説した書は、インターネットの興隆によって音楽を巡る状況が著しく変化し、批評そのものの是非が問われている昨今にこそ参照したいである。リアルサウンド ブックでは、著者の栗原裕一郎と大谷能生に加え、書で音楽批評の最前線にいると紹介される南波一海を招いた鼎談を行った。(編集部) 『ニッポンの音楽批評150年100冊』(立東舎) 南波:改めて栗原さんと大谷さんが著を著した経緯を教えてください。 栗原:2013年にイベント『ニッポン

    栗原裕一郎×大谷能生×南波一海が語る、音楽批評の現在地 「内容を薦めるのと、好きだから拡散するというのは違う」
    weissbier
    weissbier 2022/05/29
    “モーニング娘。の「LOVEマシーン」…はまだネタというか、ほぼギャグ” “「恋するフォーチュンクッキー」…はギャグじゃないディスコ”
  • 菊地成孔が語る、映画批評の倫理「1番やっちゃいけないのは、フェティッシュを持ち込むこと」

    菊地成孔の欧米休憩タイム』(blueprint) 菊地成孔の新刊『菊地成孔の欧米休憩タイム』が、現在発売中だ。 Amazonで発売中 英語圏(欧米国)以外、特にアジア圏の映画を対象としたリアルサウンド映画部の連載レビュー「菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜」の中から記事を厳選し、新たに加筆・修正の上で収録した同書。同連載の番外編として掲載され、Yahoo!ニュースなどのネットメディアやSNSで大きな議論を巻き起こした『ラ・ラ・ランド』評のほか、有料ブログマガジンの連載批評「TSUTAYAをやっつけろ」や、長らく書籍化されなかった伝説の連載コラム「都市の同一性障害」などを収録している。 リアルサウンド映画部では今回、発売後の反響を受けて、改めて菊地成孔人にインタビュー。映画批評をはじめたきっかけから、その方法論について、さらには韓国映画の現在についてまで

    菊地成孔が語る、映画批評の倫理「1番やっちゃいけないのは、フェティッシュを持ち込むこと」
  • 北村先生の応答を受けて - ゆなの視点

    今朝方に通知が来まして、北村先生が先日の記事に言及しながらブログ上で応答してくださったそうです。 https://saebou.hatenablog.com/entry/2019/07/16/075455 まず、私がほんの少し前に書いたたったひとつのブログ記事に気づき、それを読み、さらにはそれに応えてくださった北村先生の誠実さに、感謝と尊敬の念を捧げさせてください。ありがとうございます。 また私の誤読や誤解については、拝読した状況が状況なので、その通りなのだろうと思いますし、これらについては私の責任です。 ただ少しだけ気になるのが、幾人かのトランスのひとの評をあげて「トランスでもこのように批判している」という趣旨のことをおっしゃっておられますが、もちろんそういうことはあるだろうと思います。ただ私の記事のなかでもそのように書いているかと思いますが、トランスのなかでの多様性はかなり大きく(国内

    北村先生の応答を受けて - ゆなの視点
  • 「あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』」に応える - Commentarius Saevus

    新刊『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』第4章の「女性映画としてのトランスジェンダー女子映画」について、トランス女性の方から以下のような批判を頂きました。この批評は『タンジェリン』と『ナチュラルウーマン』を扱ったものですが、これについてこちらのブログでは「『タンジェリン』や『ナチュラル・ウーマン』がトランス女性の出演するトランス映画であることに一定の評価はしつつも、そのなかで出てくるステレオタイプ的な女性像などを論難し、全体としては「古くさい」ものと評価するという内容」で、「ありがちなシス(トランスでないひと)がトランスに向ける、差別的と言ってもいいようなもの」だと評しています。 snartasa.hatenablog.com 私はシス女性であり、トランス女性に対してマジョリティとしての特権性を有する立場にあります。その特権性からトランス女性を傷つけた事態を重く受けとめています。こちらの記事

    「あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』」に応える - Commentarius Saevus
  • ②『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、「ロキノンの末席」からの変容

    書物というものは何度も読み直されなければならない。そうした視点の下、音楽ジャーナリスト柴那典が書き下ろした『ヒットの崩壊』という書物を、著者自身の言葉を借りながらまた別な角度から見てみよう、そんな目的意識から出発した企画、パート2である。 パート1の内容をごく簡単にレジュメするなら、それは主に彼の著作『ヒットの崩壊』がそのタイトルとは裏腹に、「ヒットの崩壊、その後」に起った、さまざまな変化に対する希望的観測を軸に書かれたことを示そうとするもの。パート1を未読の方はまず以下のリンクから読み進めてほしい。 ①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか? つまり、パート1における対話は、「『ヒットの崩壊』の読み方」を巡るものだ。そして、このパート2から語られているのは、主に「柴那典の読み方」だと思っていただきたい。 まず確認しておこう。誰もが「柴那典」という書き手に対して認める

    ②『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、「ロキノンの末席」からの変容
  • 音楽ジャンルとは何か?──サウンド・概念・権力のトポロジー | 増田聡

    音楽ジャンルとは何か?──サウンド・概念・権力のトポロジー | 増田聡 What is Musical Genre?: The Topology of Sounds, Concepts, and Power | Satoshi Masuda ポップ・ミュージックの領域で「ジャンルを越える」という宣言はすでにクリシェとしてしか機能しない。「オレたちの音楽にジャンルは関係ないぜ」と主張することは、その実践の卓越化を彼らが志向している証──誰もがそのように主張するが故に、卓越化の「資格」のようなものとしてしか機能しないのだが──として受け取られる。「ジャンルを越える」というクリシェの存在が当のジャンル自体を特徴づけるという再帰性ゆえに、ロックやポップの諸ジャンルはモダニズムと無縁なままモダニズムを演じることが出来るのだが、それはまた別の話である(要するに彼らは、資主義の揺籃の中で無自覚なポスト

    音楽ジャンルとは何か?──サウンド・概念・権力のトポロジー | 増田聡
    weissbier
    weissbier 2014/03/25
    “「ジャンルを越える」というクリシェの存在が当のジャンル自体を特徴づけるという再帰性” “ジャンルの恣意性と構造こそが音楽の意味を産み出している。ジャンルに属さない音楽は存在しない”
  • 歌の意味とはなにか?──声・歌・歌詞の意味論に向けて | 増田聡

    歌の意味とはなにか?──声・歌・歌詞の意味論に向けて | 増田聡 What is A Meaning of Song? : Toward Semantics of Voices, Songs, and the Lyrics | Satoshi Masuda 『AERA』誌の記者(当時)である鳥賀陽弘道と、日人ロック・ミュージシャンのボニーピンクのあいだに起こった「論争」(というにはあまりにも一方的な、烏賀陽の「言い負かし」に終わったが)から話を始めよう。二〇〇〇年六月、『別冊宝島・音楽誌が書かないJポップ批評』誌(第七号)にて、烏賀陽は「Jポップ英検ランキング」と題し、Jポップに散見される英語詞表現の語法の誤りについて挑発的な論評を行なった。これに対し、当該記事のなかで批判を受けたボニーピンクが『Jポップ批評』第八号に反論を寄稿、さらに烏賀陽も追加論考を同号に掲載(ただし、烏賀陽はボニー

    歌の意味とはなにか?──声・歌・歌詞の意味論に向けて | 増田聡
    weissbier
    weissbier 2014/03/25
    “英米のポピュラー音楽には個人―演者―登場人物の主体レヴェルでの一致が要請される傾向が強く” “歌詞のリテラルな意味を「歌の意味=単一の主体による言述」と同一視する観点は根強い”
  • 誰が何を盗むのか?──「パクリ」と類似とアイデンティティの倫理学 | 増田聡

    誰が何を盗むのか?──「パクリ」と類似とアイデンティティの倫理学 | 増田聡 Who Steals What?: Ethics of "Pakuri", Resemblance, and Identity | Satoshi Masuda 例えば、日名子暁『パクリの戦後史』(ワニのNEW新書、一九九九)という書名に惹かれ読んでみるならば、こんにちのわれわれは肩すかしをくらった感を拭いきれないだろう。「暗躍する裏経済師たち」と副題が付された書は、M資金詐欺やネズミ講など戦後の経済犯罪の数々を通史的に描いたものである。「パクリ」とはそもそも、法に抵触するすれすれのところで経済的詐欺を行なうその手口を指す用語であった。それが音楽をはじめとする文化的テクストにおける剽窃や盗作を指すものとして転用された経緯についてはつまびらかにしない(一九六〇年代にはすでに業界用語として流通していたという説もある

    誰が何を盗むのか?──「パクリ」と類似とアイデンティティの倫理学 | 増田聡
    weissbier
    weissbier 2014/03/25
    “倉木麻衣がしばしば人工的なイメージの元で語られるのは、宇多田のクローンとして彼女を見たいとする聴衆の欲望を反映している” “音楽が彼ら自身のアイデンティティを成す「所有物」と見なされている”
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