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ブックマーク / yonezawakoji.com (246)

  • 東北本線 白河駅-大正ロマンな近代建築(福島県白河市)

    白河と言えば白河の関。平安時代にこの地に下野国と陸奥国の関所が設けられたのが始まりで、「白河の関」は歌の枕詞になっています。短歌が好きな人は、「白河の関」は何か特別な響きがするはずです。また、人によっては江戸時代の白河藩主の老中、「寛政の改革」の松平定信公をイメージする人もいるでしょう。 日は島国なので、物理的な陸の国境というものは存在しません。が、関西人視点から見ると白河は「ここから東北」と肌感覚で確認できる地域、つまり国内にある国境のような空気を覚えます。陸奥国との「国境」は、潜在的にはまだあるんだと。 写真は新白河駅ですが、ここはその「国境感」を満喫できる場所でもあります。 在来線ホームへ降りると、北行の東北仕様と南行の関東仕様の電車が同じホームでにらめっこしています。 現在の東北線は、新白河駅で電車の運転系統が完全に分割されており、定期の旅客列車はすべて新白河でいったん乗り換え

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    yaneshin 2022/03/08
    「白河以北」という言葉を思い出しました。
  • 二・二六事件秘話 渡辺錠太郎

    渡辺錠太郎とは渡辺は明治7年(1874)愛知県出身。商店主の長男として生まれ、19歳で渡辺家の養子となります。向学心があったものの、実家の経済的状況がそれを許されず、小学校も中退でした。 戦前の日は貧富の差が激しい社会であったことは事実ですが、国はもちろんそれをわきまえていました。進学したい…でも経済的に不可能な場合、国は彼らのための受け皿を用意していました。 一つは「師範学校」。 師範学校は衣住学費完全無料の学校で、卒業後は一定期間教師に就くという条件付きですが、ハイレベルな教育を受けることができました。さらに上級の「高等師範学校」(もちろん学費は無料)を卒業すれば、世間の見る目は東大卒、いや教育界ではそれ以上。昭和50年頃まで、家庭教師の世界では、 というほど、その箔はすごかったといいます。実際、当時の家庭教師や学校教員の募集広告を見ても、「ただし、教育大学生に限る」「東高師(東京

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    yaneshin 2022/02/27
    視野の広い人物がかえって疎んじられるのは、今も昔も変わらないのかなと思ったりします。
  • 八王子田町遊郭(東京都八王子市)|おいらんだ国酔夢譚|

    一抹どころか五抹くらいの不安を抱えつつ、八王子駅から徒歩15分ほどの場所にあるという、ある遊里へ。 今日は、東京の西の端、八王子にあった遊郭のお話。 八王子田町遊廓の歴史八王子は江戸時代に整備された甲州街道の宿場町として栄えました。横山宿・八日市宿・八幡宿など15の宿場に分かれており、その中でも横山宿と八日市宿が宿場の中心でした。 大名とかの身分が高い人が使う「陣」と、庶民が使う「旅籠」と宿が分かれていましたが、旅籠には「飯盛女」、事実上の娼婦がワンセットでついてくるのが相場。「飯盛女」は数十人~百人以上はいただろうと推定できます。 ちなみに、江戸時代の法によると、「『飯盛女』は旅籠一軒につき二人まで」「衣類は木綿に限る(派手に着飾るなということ)」となっており、その条件からはみ出たら「隠売女」つまりモグリ売春婦として捕まり、吉原行きになることもありました。 時は明治に入り、宿場町の旅籠

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    yaneshin 2022/02/12
  • 近代建築これくしょんー 一畑電車出雲大社前駅舎(島根県出雲市)

    出雲とくれば出雲大社。これは1+1=2であるというほど普遍的な定理です。 行こう行こうと思ってはやン十年、ここを初めて訪れたのは2020年元旦のこと。元旦のみ有効のJR乗りたい放題チケットの途中下車で訪れたのですが、そのときの出雲大社は初詣の人・ひと・ヒトの山。全く身動きが取れず、写真の鳥居にすらたどり着けなかったほどでした。 それが数ヶ月後、コロナ禍になってしまうとは誰が考えていたでしょうか…。当然、大社の鳥居を見ながらくぐることができなかった、元旦の私はつゆほど感じていませんでした。 ところで、JR出雲市や出雲市中心部から出雲大社へはバスもありますが、一畑電鉄の電車ものんびり走っています。現在は道路状態も良くなってバスや自家用車での参拝も多いなか、観光用に車両を改造したり健闘しており、ついつい応援したくなります。地方のローカル鉄道ですが、コロナ騒ぎ前の元旦には駅から人が溢れていたほどの

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    yaneshin 2022/02/08
    出雲大社とともに訪ねてみたい場所ですね。
  • 吉田茂の海外遊郭報告|おいらんだ国酔夢譚 番外編|

    「近代史」を調べるのに必ずお世話になるサイトはいくつもあるのですが、国立公文書館のアジア歴史資料センター もその一つ。近代史にまつわる史料をPDF化したものを検索・閲覧できるようになっており、あいまいなキーワードで検索しようものなら、途方にくれるくらいの件数がヒットし、調べる方が途方に暮れてしまうほどです。 しかし、逆に言えばここは宝の山。暇な時間ができれば、何かないかなーと適当に検索して資料をあさるのですが、そんな宝の山を丹念に探索していると、少し興味深いものが見つかりました。 第一次世界大戦後に出来た国際連盟が、大正13年(1924)に世界中に調査をお願いしたことがあります。それが、世界中の売春婦の実態。 それをベースとして、外務省が全世界の領事に と命令し、世界中の領事からの回答が当時の外務大臣幣原喜重郎宛に届きました。それが100年近く経った21世紀の今、ネットで公開されています。

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    yaneshin 2022/01/29
    オチに笑わせてもらいました。天津の総領事と言ったらあの人かなと思ったらまんまでしたね。
  • 南海二色浜駅の怪【南海電鉄歴史紀行】

    南海電鉄線の二色浜駅。 大阪人にはおなじみですが、大阪府でも数少な…いや、唯一ではなかろうかという天然の海水浴場、二色浜海水浴場の玄関口であり、都心部から近いこともあり、夏になればたくさんの海水浴客で賑わいます。 別に「怪」も謎もなかろうに…と思えるこの駅にも、ちょっとしたミステリーがあるのです。 この駅の開設時期について、Wikipediaにはこのように書かれています。 昭和11年(1936)に海水浴シーズンのみ営業の臨時駅として開設され、翌々年の13年に常設駅として昇格ということですねわかります。 南海の公式HPにも、Wikipediaと同様のことが。ではなく、Wikipedia先生の記述のおソースが南海のこの掲載ということです。 駅の飼い主がそう言ってるんだから間違いない、間違えるわけがなかろう…そんな考えが、ある場所で見つけた一通の文書で崩壊することになります。 その場所とは、東

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    yaneshin 2022/01/06
    事後申請かもしれませんね。当時の南海に適用されていた地方鉄道法にも罰則規定はありましたが、臨時停車場の届出過怠程度では軽微の違反でしょうし。後日、鉄道省に指摘されて慌てて申請したのかもしれません。
  • 新庄万場町遊郭(山形県新庄市)|おいらんだ国酔夢譚|

    山形の新庄といえば、山形新幹線の終点として覚えている人も多いかと思います。 実際に駅はJRにしては珍しい終端駅となっており、実際に駅に来てみるとここは「終点」なのだなという感を思わせます。 当然のことながら、秋田方面へは線路幅がそもそも違うので、新庄駅で必ず乗り換える必要があります。ここから秋田へは、JR東海静岡地区を上回るロングシート地獄がお待ちしております(笑 鉄道以外の方なら、「庄内おばこ」や「新庄節」、毎年8月に行われる「新庄まつり」でも知られています。新庄まつりの山車はユネスコ無形文化遺産にも登録されています。 新庄は、羽州街道の宿場町や最上川の水運の町として、江戸時代を通して戸沢家が治める6万石の城下町が置かれていました。戊辰戦争では幕府側に加わり、城下町が焼失してしまうなど手痛い目に遭います。 それから約10年後の明治11年(1878)、英国の旅行家イザベラ・バードが奥州街道

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    yaneshin 2021/12/31
  • 盛岡八幡宮の米内光政像と昭和史

    盛岡八幡宮の米内光政像盛岡には、町の鎮守のために建てられた盛岡八幡宮があります。南部藩が盛岡に移った16世紀末に作られて以降300年間、盛岡の総鎮守として今日も町を見守っています。 隣には明治時代に護国神社も建てられ、明治天皇の像が盛岡の安寧を見守っています。 八幡宮にはもう一人、ある人の銅像が建っています。 そ八幡宮の南端、崇敬殿の前には、岩手が生んだ海軍軍人、米内光政の銅像が立っています。 昭和35年(1960)に建立された像は、軍服ではなくスーツ姿となっています。大将にまでなった海軍軍人なので、来銅像は軍服姿であるべきでしょう。 しかし、まだ戦争の傷が癒えない頃で軍隊アレルギーが強い頃だったのと、生前の米内さんを知る友人や家族が話し合った結果、この姿になりました。 建立の言い出しっぺは、兵学校同期だった高橋三吉大将。 派閥抗争に明け暮れる陸軍に対し、帝国海軍は明治大正を通して比較的

    盛岡八幡宮の米内光政像と昭和史
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    yaneshin 2021/12/26
  • 『鬼滅の刃 遊郭編』の歴史知識 第二章ー吉原大門

    吉原大門の歴史一般的に吉原吉原と呼ばれている吉原ですが、遊廓としての吉原の正式名称は「新吉原」です。 勘の鋭い人は、ここでピンときます。 ご名答、「新吉原」があれば「旧吉原」があったのです。 場所は東京日人形町。400年前、ここに「旧吉原」が存在していました。 ここにも「大門」があり、400年経った現在でも「大門通り」と呼ばれています。日歴史が、まるで講談の続き話のように脈々と受け継がれていることが、この一件でもわかります。 なお、旧吉原から新吉原へ移転されたのは明暦3年(1657)。4代将軍家綱のころです。 「新吉原」の大門の現在は、こうなっています。ここにかつて、吉原の大門が建てられていました。ちなみに、別の遊郭は「だいもん」と読むところもありますが、吉原は「だいもん」ではなく「おおもん」です。 写真で確認できる、もっとも古い吉原大門は明治初期のもの。その姿はけっこうショボい木

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    yaneshin 2021/12/19
  • 大和郡山西岡町の謎の建物と、幻の歌劇団『日本少女歌劇座』

    大和郡山市ー西岡町にある謎の建物大和郡山には、東岡町があれば西岡町もあります。 東岡町からすぐ西の方向、近鉄橿原線を跨いだ向かい側に西岡町はあります。 郡山の郷土史をめくると、江戸時代は同じ「岡町」だったのが次第に「西」と「東」に分かれたようです。おそらく鉄道で町を真っ二つに分けられたからか!? 西岡町は色街となんの関係もありませんが、江戸~明治時代の面影を残す静かな住宅街となっています。 そこに、ある特徴的な家があります。 和風の家の横の洋風建築。和ばかりの西岡町の建物にあって、唯一の「超」洋風建築なので、非常に目立ちます。近鉄電車からも見えるので、車窓で目に入り気になっている人もいると思います。 水捌け用の配管が青銅製、外観はコンクリ製だと思われるので、大正中期~昭和初期の築かと推定しています。 この建物のいちばんの特徴は、丸窓に装飾された孔雀が羽を広げた姿のステンドグラス。これも、今

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    yaneshin 2021/12/18
  • 『鬼滅の刃 遊郭編』の歴史知識 第一章ー張見世

    鬼滅の刃に描かれた吉原の風景①ー仲之町通り『鬼滅の刃 遊郭編』第二話には、吉原の象徴として大通りが登場します。 台詞にも「吉原」と言っているので、ここは吉原の大通り「仲之町通り」です。 夜の帳がおりた頃に人がどことなく集まり、通りの真ん中に植えられた季節ごとの木々は、吉原の表の面を派手に演出していました。吉原ってこんなんやったんやろなーと想像力を豊富にさせるきれいな描写です。 人は夜の明かりのもとに、夏虫のように集まり、それは盆も正月もなかったといいます。 『鬼滅の刃』の時代設定である大正時代を例にとると、大正5年(1916)の吉原の遊客数は1,256,813人1。1日あたり約3,443人が遊んだという計算で、「冷やかし」など実際に遊んでいない人は数に入れていません。推定ですが、純粋な人出はこの3〜5倍はいたのではないかと。 なお、明治後期〜大正期、つまり『鬼滅の刃』の時代設定の「仲之町通

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    yaneshin 2021/12/18
    鬼滅の刃遊郭編の時代考証。アニメと合わせて見ると色々と興味深いです。
  • 新吉原遊郭の歴史(東京都台東区)|おいらんだ国酔夢譚|

    「吉原」という名前は、遊郭や赤線に興味がない人でも一回くらいはどこかで名前を聞いたことあるくらい有名です。遊郭とくれば吉原、吉原と言えば遊郭と言ってもいい遊郭の代名詞でもある吉原。「遊郭・赤線跡をゆく」を書き続けてン年、ついに総山の吉原に突入です。 しかし、吉原に関してはそれこそ詳細に書かれた書物だけでも星の数ほど存在している上に、それを踏まえて書き出すと1万文字どころか10万文字でも説明がつかない。すべて書き尽くすのに1年くらい、仮に書いたとしても読む方も1週間くらいかかりそうなので(笑)、誰でもわかるようサラッと説明していきたいと思います。 吉原の遊郭史吉原の歴史は、はるか17世紀の江戸時代はじめにさかのぼります。 今の東京に「江戸」の町が出来てまだ間もない頃、庄司甚右衛門という人物がいました。元々は小田原の北条氏に仕えていたと伝えられ、元々は北条の乱波、つまり北条氏に仕えた風魔一族

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    yaneshin 2021/12/09
  • 米内光政提督が残した言葉

    米内光政という名前は、どこかで聞いたことがあるかもしれません。しかし、岩手県民や近代史好き、海軍好きでない限り、 となる人の方が多いかと。「こめうち」ではありません、「よない」です。 日歴史に深く関わり、総理大臣にまでなったにも関わらず、その名前は歴史の授業でもよっぽどのことがない限り出てくることはありません。 昔からの歴史好きの私も、確かに名前は知ってるけれども、よく考えたら一体何した人なんやろ?とよく知ることはありませんでした。 しかし、を読むにつれ、知れば知るほど米内光政という人間が面白く感じ始め、現在では尊敬する人の一人になっています。「米澤光司」という名前も名ではなく、名に米内さんの姓名の一文字ずつをいただいたもの。現在はペンネームとして使用中であります。 なお、編は敬意をこめて「米内さん」という呼び名に統一します。 米内さんはどんな人か。 それを語りだすと、当にキ

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    yaneshin 2021/12/05
  • 武蔵新田の赤線(東京都大田区)|おいらんだ国酔夢譚|

    今回の主役である東京都大田区武蔵新田は、東急多摩川線が良い意味で都会のローカル線のようにのんびりした路線のせいもあってか、武蔵新田は東京都、それも23区内のはずなのに都会の喧騒から離れた下町です。下町だけに、庶民的で人間のにおいがムンムンと立ちこめ、人気(ひとけ)ゼロの大自然より人間臭い町中が好きな私はホッとする場所でもあります。 昭和20年代、そんな下町に赤線が存在していました。こんなとこに赤線があったのかと、この地域の現在を知っている人ほどいぶかしんでしまいそうですが、当にあったのです。 武蔵新田の前身は、羽田空港近くにあった穴守の遊里でした。 その穴守も、ルーツをたどってみると深川にあった洲崎遊郭。洲崎は昭和18年(1943)、海軍の命令で妓楼が軍需工場の工員の寮に転用され解散、一部の業者が穴守に移転し新遊里を形成しました。が、そこも羽田飛行場の拡張で立ち退き命令をらい、その代わ

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    yaneshin 2021/12/02
  • 洲崎遊郭(東京都江東区)|おいらんだ国酔夢譚|

    東京都江東区東陽。この地名にピンと来なくても、「洲崎」と聞いたらピンとくる人もいることでしょう。現在、その地名は消えてしまったのですが、その洲崎には、規模はかの吉原に負けず劣らずな遊廓があったことは、今や昔。 編は、そんな「永遠のナンバー2」の宿命を背負わされた遊郭、洲崎のお話。 洲崎遊郭の母ー根津遊郭洲崎の遊郭としての歴史は、江戸時代までさかのぼることができます。 近世の江戸において、「遊郭」というのは吉原の代名詞でした。他にも江戸のあちこちに遊里は存在していたのですが、他は近代以降の概念で言えば私娼窟にあたる「岡場所」と呼ばれ、吉原や他の公許の遊里とは明確に区別されていました。 その岡場所の一つに、根津がありました。現在の東京大学農学部の隣にある根津神社周辺にあった遊里で、明治以降は貸座敷指定地に定められ、吉原に次ぐ規模でした。 根津神社には、お参りすると女子力がアップするという「乙

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    yaneshin 2021/11/27
  • 盛岡八幡町遊郭(岩手県盛岡市)|おいらんだ国酔夢譚|

    自他共に認める北東北の中心都市、盛岡。盛岡に近づくにつれ姿が大きくなる岩手山がどんとお出迎えしてくれます。 幼少期、盛岡を舞台にした漫画『六三四の剣』を全巻読んだほど好きだったため、盛岡とくればと真っ先に思い浮かぶのが岩手山。一度はこの目で見ておきたかった山の一つですが、実際に現物を見ると予想以上に大きく見えます。 盛岡には他にも用事があって参じたのですが、それはまた後で書くとして、編はその盛岡にあった遊郭のお話です。 近世の盛岡の遊郭盛岡は南部藩20万石の城下町であります。平安時代に坂上田村麻呂がここ盛岡に砦を築いたとされていますが、盛岡の歴史は南部藩が開いたと言っても過言ではありません。 その南部氏は、城下町盛岡の鎮守として17世紀後半の延宝9年(1681)、八幡宮を完成させました。八幡宮の参道沿いには、参拝客目当てに茶屋などが集まり歓楽街が形成されていきましたが、その中で自然発生的

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    yaneshin 2021/11/21
  • 浜口雄幸首相遭難事件と東京駅|昭和史その日その時|

    東京の鉄道の玄関口、いや日の鉄道駅の象徴といっても過言ではない東京駅。近年、創建当初の姿に復元されてよりいっそう威厳を増した感があります。 大正3年(1914)に設置された東京駅は100年以上の歴史を刻んできましたが、その中でも「歴史的な瞬間」を刻んだ舞台でもあります。特に、忘れがちですが日の首相が二人も、ここ東京駅で襲撃されています。 第19代の原敬と、第28代の浜口雄幸です。今回は、昭和史の「その時歴史が動いた」ということで、浜口の襲撃事件を取り上げようと思います。 浜口雄幸という人第28代総理大臣、浜口雄幸。 高知県に生まれ、東京帝大法学部1を好成績で卒業します。同窓生に、のちに外相として浜口を支える幣原喜重郎、内務官僚の伊沢多喜男2などがいます。 卒業後は大蔵省に入省するものの、左遷同然の地方どさ回りを続けましたが、のちに実力を認められ中央に復帰。後藤新平の勧めで大蔵省を辞め逓

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    yaneshin 2021/11/14
    "今でもネットにいっぱいいますよね、社会や世間、政府に怒っているけれど、「じゃあ説明してみい」と言われるとできない人が。" 記事の本筋からは逸れてますが、この文章が印象に残りました。
  • 建部大社(滋賀県大津市)と幻の千円札

    以前住んでいた滋賀県某所の近くに、建部大社という神社がありました。 「ありました」といっても現存しており私の方が既にいないのですが、この神社、境内がかなり広く、神社素人の私でもこれはタダの神社ではないなと思わせるような、不思議な威厳を発していました。 この神社は、近江国の一之宮としての由緒がある古い神社で、日武尊をご祭神としています。天武天皇の御世である白鳳4年(675)、近江国府があった勢多の地に御霊を移し、この地に神社が建てられたとされています。 また、平治の乱で源頼朝が京から伊豆へ流された際の途中でこの神社に立ち寄り、源氏再興を誓ったことが『平治物語』に記されています。 こんな由緒正しき神社と昭和史、そんなの何の関係もなさそうなミスマッチっぷりです。が、実は終戦後の混乱に絡んだある関わりがあったのです。 幻の千円札「戦前」とはいつまでなのか?はけっこう議論があるのですが、私なりの定

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    yaneshin 2021/11/13
  • 俳優松田優作と赤線の足跡| おいらんだ国酔夢譚 番外編|

    東西南北の人が集まり通っていた下関には、その数だけ人間ドラマがあると言っても過言ではありません。 遊郭に通う人たちも、何も現地の人だけとは限りません。下関を通過(トランジット)するだけながら、次の移動待ちの間にフラリと赤いランプに導かれて女の園に吸い込まれる…。そんな男達は星の数ほどいたはずです。 今回は、そんな男と女の色情を見て育った、ある男の生涯を追ってみます。 下関には、以前紹介した新地や稲荷町・裏町、豊前田の他にも遊郭が存在していました。 その名は今浦町。今でもそのまま地名が残っているのですが、編の主人公は終戦直後の男と女の性が渦巻く、丘の上にあるこの町で生まれました。 父親は長崎からやってきた子持ちの男、女は今浦町で質屋を営む戦争未亡人。普通に暮らしていればまず交わることがない二人は不倫の関係になって結ばれ、やがて女は男の子どもを身ごもり、出産します。 時は昭和24年(19

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    yaneshin 2021/11/07
  • みんなで学ぼう!神戸の空襲

    昭和の時代に行われた対米戦争で、日の主要都市のほとんどが空襲を受けたことは、もはや解説する必要もありません。爆弾一つ落ちなかった都市の方が数えるほどしかないほど、日中が爆弾で焼け野原になりましたが、その中でも最初に空襲を受けた都市の一つが神戸でした。 神戸市は米軍の攻撃リストの中でも「真っ先に焼き払うべし都市」とマークされ、大規模なものだけでも3度空襲を受けています。 (神戸の街と焼夷弾の雨。米軍撮影)大小合わせて神戸が空襲を受けた回数は、なんと128回。これは東京の130回に次ぐ日2位の記録であり、大阪の33回と比べてもいかに多いかがわかります1。神戸はそれほど重要な都市、つまり攻撃目標とされていたのです。 今回はその神戸の空襲のお話を。

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    yaneshin 2021/11/06
    私の祖母と父も神戸大空襲で焼け出された口です。幸い、和歌山に疎開していたので命は無事でしたが、家など全財産をほとんど失ったと聞きました。まあ、母子で生き残っただけ良かったとは思います。