改憲勢力で衆参3分の2超を得た安倍首相は悲願の憲法改正に向け、虎視眈々と機会をうかがっている。この臨時国会で憲法審査会を再び動かそうとしているが、安倍が改憲のよりどころとする「押し付け憲法論」をひっくり返す新史料が見つかった。平和憲法の根幹をなす9条を発案したのはGHQではなく… この記事は有料会員限定です。 日刊ゲンダイDIGITALに有料会員登録すると続きをお読みいただけます。 (残り3,209文字/全文3,349文字) ログインして読む 初回登録は初月110円でお試し頂けます。
![堀尾輝久氏 マッカーサー書簡で“押し付け憲法論”は覆った|注目の人 直撃インタビュー](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/51a51cf839e6d1850529b988fc25db8f20c44b7b/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fc799eb2b0cad47596bf7b1e050e83426.cdnext.stream.ne.jp%2Fimg%2Farticle%2F000%2F191%2F251%2F7ef7d110049ce142e3af334f4231b76320161006133603585.jpg)
改憲勢力で衆参3分の2超を得た安倍首相は悲願の憲法改正に向け、虎視眈々と機会をうかがっている。この臨時国会で憲法審査会を再び動かそうとしているが、安倍が改憲のよりどころとする「押し付け憲法論」をひっくり返す新史料が見つかった。平和憲法の根幹をなす9条を発案したのはGHQではなく… この記事は有料会員限定です。 日刊ゲンダイDIGITALに有料会員登録すると続きをお読みいただけます。 (残り3,209文字/全文3,349文字) ログインして読む 初回登録は初月110円でお試し頂けます。
日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相(当時、以下同じ)が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。史料が事実なら、一部の改憲勢力が主張する「今の憲法は戦勝国の押しつけ」との根拠は弱まる。今秋から各党による憲法論議が始まった場合、制定過程が議論される可能性がある。 (安藤美由紀、北條香子) 九条は、一九四六年一月二十四日に幣原首相とマッカーサーGHQ最高司令官が会談した結果生まれたとされるが、どちらが提案したかは両説がある。マッカーサーは米上院などで幣原首相の発案と証言しているが、「信用できない」とする識者もいる。 堀尾氏は五七年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため五八年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。高柳は
大東亜戦争終結後の昭和26年(AD1951)5月3日、上院軍事外交共同委員会でマッカーサーが日本の戦争を自衛戦争だと証言したと保守論壇で主張される。 これは保守言論人がマレー上陸・真珠湾攻撃を正当化する際に必ずと言っていいほど引用するもので、ネット上の議論でも非常によく見られる。 これは昭和37年(AD1962)に菅原裕氏が「日本国憲法失効論」で紹介し、その後田中正明氏、渡部昇一氏、小堀圭一郎氏らによって広められた。 最も影響力があったのは渡部昇一氏で同氏はこのマッカーサー証言を教科書に掲載しようと呼びかけている。 しかしまず常識で考えてみてほしい。この時、マッカーサーはトルーマンに連合国軍最高司令官を解任されたとは言えまだ大統領の座を狙っていた男である。 そんなときにマッカーサーが「太平洋戦争は日本の自衛戦争だった」などと言えるだろうか。またそんな発言があれば只で済むだろうか。 結論から
”太平洋戦争は、日本にとって自衛戦争であった、とマッカーサーが公式に述べた”というのは、産経や渡部昇一、小堀圭一郎、ネトウヨの間で人気の言説である(言うまでもないが、渡部も小堀も産経のお気に入りで産経の「正論」の常連)。 「マッカーサー」「自衛」でgoogle検索すると、うじゃうじゃひっかかる。 http://members.at.infoseek.co.jp/tou46/re_03_06.htm http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/jiei_sensou.html http://www.senyu-ren.jp/MAGO/09.HTM http://blog.livedoor.jp/manfor/archives/50846670.html http://toron.pepper.jp/
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