『週刊文春』2012年5月3・10日号の読書特集「過去から今が見える『必読歴史本47冊』」、および2014年5月8・15日号の「あの大ベストセラー著者が教える『ヒットを生む読書術』」への寄稿文を合わせたものです。 …実際のところ、そこまでベストセラーでもない拙著『中国化する日本』の増補版は、本日(2014.5.30)電子書籍も発売になりました。こちらからどうぞ。 世界は中国化するのか?グローバル化時代の「中国の台頭」を、むしろ世界の方が中国に似てきた=「中国化」してきたがゆえの必然として捉える拙著『中国化する日本』の見方は、必ずしも特異なものではない。中国史の専門家では足立啓二『専制国家史論』が、財政規模としては「小さな政府」でありながら専制皇帝が権力を独占し、安定した地域・企業・家族などの中間集団はむしろ解体されて裸の個人だけが残った帝政中国を、現代世界の先駆けと位置づけている。 より入
「大きな物語」がいつ終わったのか、と問うとき、国際的には五月革命やプラハの春の1968年、わが国では連合赤軍事件の72年を目処とする見方が強いようだ。教条的なマルクス主義が失墜し、一方でそれへの対抗を軸に正統性を獲得してきた反共自由主義の意義も不明瞭になって、世界の全体を意味づけてくれるストーリーが見出せなくなる時代。日本では70年に三島由紀夫が割腹自殺を遂げ、「皇国史観」の物語もまたこのときに終焉を迎えている。 66年に第一作『中世荘園の様相』、74年に初の一般書『蒙古襲来』を世に問うて出立した網野善彦の歴史学を、かような時代における新たな物語の模索として読むことはできないか。その際に意外な補助線となるのが70年、ユダヤ人を装って著した『日本人とユダヤ人』で論壇に登場した山本七平である。当人はおそらく意識すらしなかったろうが、この七つ違いの二人の軌跡には、不思議と好一対になっているところ
私がいま一番注目している日本の知識人は與那覇潤氏だ。同氏の博士論文を改稿して上梓した『翻訳の政治学 近代東アジア世界の形成と日琉関係の変容』(岩波書店、2009年)は、沖縄県の成立過程(琉球処分)に関する歴史に残る研究だ。100年後に琉球処分に関する研究論文をまとめる学者も参考文献表にこの本を必ず入れることになる。博士論文の結論部で、與那覇氏は、「中国化する世界」という作業仮説を提示している。優れた知識人は、学術論文で難解な術語を駆使し、緻密に展開した議論を、レベルを落とさずにわかりやすく言い換えることができる。『中国化する日本』は、最先端の歴史研究の成果を踏まえた上で、グローバリゼーションとどう対峙すべきかというきわめて実践的な問題を扱っている。與那覇氏は、グローバリゼーションの起源は中国の宋朝のときに成立したと考える。 〈宋朝時代の中国では、世界で最初に(皇帝以外の)身分制や世襲制が撤
著書『日本人はなぜ存在するか』で示した再帰性の観点が、ナショナリズムが台頭しつつある今の日本になぜ必要なのか。與那覇氏に話を聞いた。 ――著書『日本人はなぜ存在するか』のテーマである「再帰性」の考え方はなぜ必要なのでしょうか。 再帰性とは、「われわれは単に現実に存在するものを認識しているというより、逆に認識を通じて現実を作り出している」という視点のことです。わかりやすいように、まずは個人と世界の関係で例を出せば、夕焼けが赤く見えるのは太陽自体が赤いからなのか、私の網膜にそれを「赤く見る」性質があるからなのか。後者の観点を取るのが再帰性の立場です。 そして私たちは日々、個人ごとにバラバラに世界を認識するだけでなく、複数名の認識が相互にかかわりあう共同現象として、社会的なものごとを作り上げています。たとえば、お互いに「僕と君は恋人どうしだ」「私たちは家族だ」と思いあうことで、カップルなり家庭な
インテリ派とヤンキー派の戦後政治史 斎藤:自民党は、もともとヌエ的な政党だったと思うんですが、完全にインテリ部分は消滅しましたね。 與那覇:総理大臣でまんじゅうを出すとか、インテリには耐えられないセンスですよね。 斎藤:小泉内閣時代が大きいということなんでしょうね。 與那覇:斎藤さんは村上隆さんとの対談で、ヤンキーがプロデューサーで、おたくがクリエイターだと一番ヒットするという話をされていましたが、その政治版が小泉改革だったのかもしれません。気っ風のいいヤンキーの親分みたいに見える小泉純一郎さんがパフォーマーで、理詰めで計算するタイプの竹中平蔵さんが政策を作りましたから。 斎藤:小泉さんというのは不思議な人で、ヤンキーテイストの発言があったかと思えば、まったくヤンキー的ではない行動を取ったりもする。腹芸文化を駆逐したのも小泉さんです。大勲位・中曽根康弘氏に「もうアンタ定年だから」と引導を渡
2011年3月11日の東日本大震災から、2年の時が経った。いまなお、震災前の生活を取り戻すことができない方々がいる以上、「復興」は終わっていない。 最も深刻なのは住居を追われ、避難先での暮らしを続ける人々だろう。 地震や津波によって文字どおり家屋を奪われる苦痛も察するに余りあるが、福島第一原子力発電所の事故により、放射性物質に対する懸念から故郷を離れた場合には、独自の困難が立ち塞がる。 それは放射線という脅威が肉眼では見えず、また「どこまでを安全と見なすか」に関して価値観が分裂しがちなために、「避難するのか、しないのか」自体が、個々人の選択に委ねられるケースが多いという問題だ。 そして、そのことが安易な「自己責任論」と結びつくとき、私たちの絆は失われる。 山下祐介・開沼博編 『「原発避難」論 避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで』によれば、震災からちょうど1年後(つまり、現在から1年
佐々木俊尚 @sasakitoshinao 保守が右翼に変容しつつある状況。「昔は潔癖症的に正義を要求する左派に対し、国家たるもの汚れを引き受けざるを得ないと説く役割だったはずの保守派が今は日本だけは完全無欠だと叫んでいる」/與那覇潤さんに聞く歴史認識問題 http://t.co/XyLyH9UPOi 2014-02-23 08:17:08 佐々木俊尚 @sasakitoshinao 保守が右翼化している問題では、河野太郎さんのこの指摘も。「外国人を批判してうっ憤を晴らしている排外主義者には保守を名乗っている者もいるが、保守主義とは国際協調を旨とする。排外主義を唱える者は、決して保守主義者ではない」/排外主義者 http://t.co/3ZqcYdE02Q 2014-02-23 08:21:06
ナゴヤカルチャー與那覇潤さんに聞く「歴史認識問題」 與那覇潤さん 第2次安倍政権の発足後、よく目にするのが「歴史認識問題」。中国・韓国は右傾化と批判、首相の靖国参拝では米国まで「失望した」とする一方、国内では支持する声も。この動きについて、愛知県立大准教授で日本近現代史が専門の與那覇潤さんに聞いた。●もはや歴史ではない? ――「歴史認識問題」をめぐる動きをどう見ていますか。 歴史認識問題と呼ばれていたものが、実はもはや歴史問題ではなくなっているように感じます。1990年代に「新しい歴史教科書をつくる会」や、小林よしのりさんの『ゴーマニズム宣言』が論争を呼んだころは、かろうじて歴史観という物語どうしがぶつかっていた。でも、いまは単なるエピソード対決。従軍慰安婦問題などで「ひどいことをした」という主張に対して、「いいことをして感謝された日本人もいますよ」と返すだけなら、個々の挿話をつなぐ歴
新刊『日本の起源』(東島誠氏との共著)の序文公開にあわせて、昨秋、『こころ』9号(2012年10月)に寄せたエッセイ「近代への郷愁?」を再掲します。当時はまだ民主党政権(野田佳彦内閣)で、夏にピークを迎えた原発再稼働反対デモの記憶も、新しい時期でした。 1年ほど前、『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)という本を書いた。おかげで直面したもろもろの毀誉褒貶を振り返るにつけ、考えさせられるのは、拙著を「中国化を礼賛している」と受けとった読者の多さである。 同書は、日本社会は「近代化」も「西洋化」も本質的な意味ではしてこなかったという理解のもとに、それらの概念に替えて「中国化」ということばで日本史を書き直したもので、そのようなプロセスを特に高く価値づけているわけではないし、むしろ将来への懸念を提示する内容となっている。それでもかような誤読がおきるゆえんについて頭をめぐらすうち
『COURRiER Japon』(クーリエ・ジャポン)2013年6月号(4月25日発売)の特集「世界に通用する「教養」を身につけよう」に掲載された、インタビュー記事の再掲です。「グローバル人材」の育成が強調され、大学の授業にただ外国語/外国人教員を取り入れさえすればよいかのような風潮に対して、一石を投じようとしたものでした。 「自国の歴史」を語れなければ、グローバルな教養人とはいえない最近、「教育のグローバル化」、「グローバル人材の育成」といったかけ声を、いたるところで耳にするようになりました。京都大学などは一般教養の授業の半分を、英語で行う方針を決めたそうです。 しかし、そのような“グローバル化一直線”の時代に、本当に必要な教養とはなんでしょうか。 文化人類学に、「ハイコンテクスト/ローコンテクスト」という社会の二分法があります。ハイコンテクストな社会とは、多くのコンテクスト(文脈)を共
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