朝のねじを巻く(2024年5月19日) 朝ルーティンが完成しつつある。 ここ数年ブラッシュアップを続けてきた結果、かなり偏執的と言える域に達してきたと思う。 【朝ルーティン】 朝5:30 前日の就寝時間にもよるが、平日は6:00まで、土日も7:00までには起きる。 スマホのアラームで起きてすぐにカーテンを…
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からなあ。 私達は、自らの人生をゲームになぞらえる程にメタ化視点に慣れすぎている 語られる人生や体験というものは必然的に抽象化できる範囲に留まっています。逆に、その範囲に留まる人生はメタ化もゲーム化も容易となる。 そして、その人がどういうインターフェイス、メディア上で人生や生活を送るかによって、その体験がメタ化しやすいかどうかも決まってくるわけです。 言葉で描かれる人生は言葉で描くことのできる範囲を超えることはない。 システムで描かれる体験はシステムで描くことのできる範囲を超えることはない。 抽象化というのは切り捨てるということ。 つまり情報というものは常に何かを切り捨てて成立しているということであり、それを踏まえておけばその取り扱い方もなんとなく分かってくるような気がします。 思うに、人生を面白くする一つの方法は、「抽象化できない体験」をすることです。 科学には再現性が必要だけど、人生は
子どもは万能感というか全能感というようなものをもっている、ということはしばしば耳にする。もうちょっと平たくいうと、子どもは「自分はなんでもできるはずだ」と思っている、という感じだろうか。 それが、大人になると、「自分にはできないこともある」と解ってくる。 この間の時間経過のどこかに「あ、自分はなんでもできるってわけじゃないんだ」という気づき、言い換えれば最初の挫折があるはずなのだが、それはどのへんなのだろう。 5歳の娘を見ていると、まだまだ彼女のもとにはその気づきは訪れていないようだ。 気づくもなにも、まだ身体的にも精神的にも右肩上がりの成長の途中にあり、今できないことでも将来できるようになるという期待(というか、むしろ、おそらくこれからできるようになることが非常に多い)があるから、絶望的な挫折を経験するにはまだ早すぎる。 何歳でそのことに気づくのだろうか。もちろん、単純な年齢では測れない
それなりに長いあいだ、活字ばかり見ることが続いたあとに、 ペンで字を書くと、書いた字が異様に下手な字に見える。 でもすぐに慣れる。 ほんの少しだけ、無思慮な書き方を抑えて、活字に近くするように心がければいいだけ。 それなりに長いあいだ、アナウンサーとか俳優の声ばかり聞くことが続いたあとに、 自分の声を出すと、出た声が異様に下手に聞こえる。 でもすぐに慣れる。 ほんの少しだけ、無思慮な発声を抑えて、明瞭な声になるように心がければいいだけ。 それなりに長いあいだ、本を読んだりしてよく整理された他人の思考ばかりをなぞることが続いたあとに、 自分の頭で考えると、その考えが異様に陳腐に感じる。 でもすぐに慣れる。 ほんの少しだけ、無意識の思考の動きを抑えて、賢い人が使っている論理を真似ればいいだけ。
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