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ブックマーク / azumy.hatenablog.com (16)

  • 自分が頑張ってもしょうがないとき - 深く考えないで捨てるように書く、また

    気持ちが々するというか、抑方向に気持ちが向かうのは、自分が頑張っても事態が動かないことが見えているときに起こりやすい、かもしれないと思う。 自分が頑張ったらなにかの成果が出る、状況がよい方向に動く可能性がある(動かない可能性もあるし、悪い方向に動く可能性もあるのだけど)、という場合は、なんのかんの言っても頑張れるし、それほど気持ちは落ち込まない。 しかし、自分以外の要素が多すぎて、自分がどう頑張っても事態が動かない、そしてその事態は自分にとってとても嫌な状況だったりすると、気持ちが落ち込み、捨て鉢な気分になる。他人に自分が動かされている感が強くなるにつれて、抑気分が強くなる。自分がしたくないことを、どうしてもせざるを得ない。その状況から抜け出すことも当面できない。そう感じると、どんどんと深みにはまってゆく。 自分に主導権がない、自分が考え動くことがなんの足しにもならない、自分の嫌な状

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  • 「空気読めない」のもう一つのパターン - 深く考えないで捨てるように書く、また

    「空気読めない」?と端からみて思われる状況には、「空気読めない」と「(あえて)空気読まない」の他に、もう一つパターンがあるかも。 一応「空気は読めてる」のだけれど、どのように行動したらよいのか分からない、というタイプだ。 この場で要求されている役割は分かっている、しかし、その役割を担うためにどういう言動をすればその役割になれるのか、そこが分からない。だから、結局、何もしないか、とんちんかんなことをしてしまうか、という結果になる。時にはうまくできることもあるけど、うまくいかないときもよくある、という。 例としては、パーティの主賓を引き立てなくてはいけなくて、そのことは重々承知しているけれど、どうやったら引き立てることができるのか具体的によくわからなくて、頑張ってはみるんだが、自分がなぜか周囲の目を奪ってしまう、というようなケース。周りから見ると「なんであんたが目立ってんだよ! 空気読めよ!」

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  • 子どもに頭を占拠される - 深く考えないで捨てるように書く、また

    中学・高校時代の友人と仲間うちのMLを作っており、そこで互いに近況の話だの、お祝いごとの話だのをしている。MLに移行する前は掲示板を使っていた。 初期の話だが、当時私は結婚したばかりでまだ子どもがなかった。30歳すぎくらいだ。そのころ掲示板に出入りしていたメンバーは、半分くらいが結婚して子どもがあり、あとの半分は独身だった。ちなみに全員女性。結婚したけど子どもがいない、という者がいないのは、全くの偶々だ。 近況報告といっても、普段の暮らしでそんなに報告するような話もなく、掲示板の進行は良く言えば極めてまったり、どっちかというとほとんど過疎であった。しかし、時に誰かが書き込むと、それに呼応するようにレスがついたり、私は今こうだよ、と別の方面から近況報告がある、といった感じ。もともと、みんなどうしてるかな、書きたい時に適当に書けばいいよ、というゆるい使い方なので、それでなんの問題もない。 ただ

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  • 公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    公平・公正の判断の基準なんて、考えたこともなかったな。 なぜなら、公平・公正を一人の個人が判断できると思わないから。 一人の個人が基準を決める、あるいは判断することは不可能だと思っていたから。 公平とか公正とかいうのは、多角形の重心みたいなものじゃないかと思っている。どの頂点にも、決してそれは存在しない。多数の頂点間のバランスをとるためには、それらの頂点ではない場所を支えるしかない。 ということは、どの頂点から見ても、そこは遠い。 公平らしきもの、公正らしきもの、それっぽい擬似的なものは、人間にも作れるのだろうと思う。 しかし、真の公平・公正の基準は、人間には作れないと思う。すべての人間が感情や人生や経験や異なる属性・環境をもっている限り。 作れるとしたら、人間ではない、外部の存在にだけ。 だから、よく「神様は不公平だ」って言うんだよ。 真の公平・公正は、どの頂点からも遠くて、誰もが必ず多

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  • 私ではわからない - 深く考えないで捨てるように書く、また

    自分は自分の目でしかものを見ることはできない。 自分は自分の頭でしかものを考えることはできない。 公平に、公正に自分自身の偏りをできるだけ離れてものを考えようとするとき、できることは、さまざまな異なった立場にたつ自分を想像してみることだ。 しかし、それを想像することができたとしても、同じ立場にたつ別の人と同じように感じ考えるとは限らない。別の人間であり、別の心をもつ以上、全く同じにはならない。まるっきり別のことを感じ考える場合もある。 だから、どんなに他の人を理解しようとしても、理解できないこともある。私がその立場なら、きっとそうは考えない、と。 お前にはわからないんだ、と言われれば、そういうことだ。わからない。私にはわからない。私ではわからない。 そのこと自体は、いけないことでもなんでもない。ただ、わからないだけだ。 大事なことは、わかろうとしてもわからないことが存在する、ということを認

    私ではわからない - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 早くおばさんになりたかった - 深く考えないで捨てるように書く、また

    http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071029/1193662554(主にコメント欄) http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071030/1193745937 こちらを読んで、つらつらと。主に自分語り。 以前、ここでこんな記事を書いたことがある。 「女らしくしたくない」女のとる、もう一つの道 - 深く考えないで捨てるように書く 私は10代の頃から、早く「おばさん」になりたいと思っていた。 「おばさん」になれば、女として競わなくてすむから、と思っていた。 10代女子は、ただ10代女子というだけで、自分の望むと望まざるとに関わらず、女として評価を受ける場に置かれる。容姿のことだけでなく、性格の傾向やいわゆる「女らしさ」、見合いの釣書に書かれるようなこと(家庭的だのなんだの)に対して。これから生殖適齢期に向かう生物としては当然のことで

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    TZK
    TZK 2007/11/02
  • 中くらいの声でしゃべる - 深く考えないで捨てるように書く、また

    ちょっと前に書いたこの記事。 ネガティブコメントってこんな感じ? - 深く考えないで捨てるように書く たくさんの反応をいただいた。どこにそんなに反応があるんだよ、と思われる方はこちらをご覧ください。 はてなブックマーク - ネガティブコメントってこんな感じ? - 深く考えないで捨てるように書く ご意見の中によく見られたのは、記事の前半に書いたような立場、つまりネガティブコメントをもらっていきなり驚いてしまう立場の人に対して、「でも誰にでも聞こえるような大声でしゃべってるわけで」という内容だった。拡声器で叫んでる、パブリッシュしている、などの表現を使われた方もいる。 これについては私も同意見だ。ネットに書いた時点で、例え独り言のつもりであっても、ネットの果てまで明瞭に聞こえるような大声となる。 そこで思ったのだが、中くらいの声でしゃべりたい、というニーズに対して、ネットは何を提供できるだろう

    中くらいの声でしゃべる - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 違う人間≠敵対する人間 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    私とあなたは違う人間。あなたと私は違う人間。私と他人は違う人間。 これは当たり前といえば当たり前なのだけど、これを安定して受け入れるためには、それなりの基盤が必要なんだろうと思う。 言うなれば、違う人間=敵対する人間、ではない、という認識。 この認識は双方向ある。一方向は、自分と異なる考え方、感じ方をする人に対して、それは違ってる、よくない、だめだ、と攻撃する必要は必ずしもない、ということ。*1 もう一方向はその反対。自分と異なる考えや感じ方をもつ人はすべて、常に、自分を攻撃してくるというわけではない、ということ。 自分が何か意見を述べたとき、「自分はそうは思わない。かくかくしかじかと思う」と言われたとする。「ああ、そうか、あなたはそう思うんですね。私と違いますね」と返す。 なんらかの結論を出さねばならない議論のように意見のすり合わせを行う必要がない場合は、これで済んでしまうはずなのだが、

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  • 心の秘孔 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    なんというか、人の思考、心の中には、いわゆるツボというか秘孔というか、そこを突かれると精神的に瀕死になる、という部分があるみたいで。 こういうのは普通に生活しているだけだとあまり見えない(そりゃ自分の最も弱いポイントや死にそうに弱くなってしまった自分をそうそうそのへんの人に見せる人はいないので)が、ネットで見ているとけっこういろいろとあるんだな、ということに気がつく。そういう意味でネットは勉強になる。 重要なのは、そのポイントは人によってさまざまで、こういうところはみんな秘孔なものですよ、とか、ここはまず大丈夫ですよ、という共通点があまり見られないことだ。 秘孔を突かれると、突いた側は大したことしてない(言ってない)つもりなのに、突かれた側はとんでもないことになる。心理的もにぐちゃぐちゃ、感情は沸騰し、しかもなかなか収まらなくて、いつまでもいつまでもぐちゃぐちゃの心理を引きずるはめになる。

    心の秘孔 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    TZK
    TZK 2007/09/27
  • 「裏表のない人」 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    「裏表のない人」というと、褒め言葉というか、良い評価をあらわす表現と一般的にはとれる。 しかし、悪意や悪感情をまったく感じない、もたないという人間はいないと思うから、裏表がないということは、ふと感じてしまった悪い感情(嫌いだとか気にわないだとか)や悪意をその場にいる相手に大して隠すことなくぶつける、ということにならないだろうか。 そういう態度自体は良い面もある一方で、もしそう思っても一応は隠しなさいよ、という場合もあるだろうから、手放しに褒められることでもないような気がする。 誰に対しても態度が変わらない、という意味で、「裏表がない」と言われることもある。 誰に対しても変わらない、というのは、見方を変えれば、言動の決定要因が自己のみ、ということである。自分と相手の関係性はその要因にならない。 ということは、その人にとって、他者が何者であるか、どんな人であるか、ということはコミュニケーショ

    「裏表のない人」 - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 異論とストレス - 深く考えないで捨てるように書く、また

    ネットに限らずの話ではあるが、ネットだとどうしてもよく見かけることになるので。 人間にとって、自分の意見と異なる意見を見聞きすることは、実はけっこうなストレスなんじゃないだろうか。直接自分に向けられた意見でなくて、どこかで全く無関係にふっと書かれていたりするのをたまたま読んだというだけでも。 自己承認云々とはまた別のからくりのような気がする。多様性の存在とはそうあるべきで、従って自分と異なる意見が世の中にはたくさんあって、中には真反対の、互いに完全に相容れない意見も存在する、ということは理解かつ承認している。 ただ、なにか、不安なのだ。均質なものだとなんとなく安心できて、雑多であるとそれだけでなんとなく不安になる、というような。怒りやむかつきまでもいかない、なんとなくざわざわと落ち着かないような、決して気持ちよくはない、妙な胸の感覚。 議論の有意義さ、異論の重要さは承知している。それに、す

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  • 吹奏楽男子や合唱男子は本当にモテるか - 深く考えないで捨てるように書く、また

    面白い記事が匿名ダイアリーにあった。 非モテ男子予備軍の君へ 要約すると、吹奏楽やると意外と彼女ができるもんだよ! ポイントは「女子と男子の比率とその土壌」(リンク先記事より)だよ! という話。思わず「あるある、かも!」と手を叩いてしまった。 私は大学時代、大学の合唱団サークルに所属していた。ここで見た様子が、まさにそんな感じ。非モテが云々、というのはよくわからないが、団内カップルというのは比率的に多かった。団内同士ではないけれど、交流のある他団の人と交際している、という人もいて、交際している相手がいるが合唱とは全く関係ない、という人は正直言って少なかった*1。 吹奏楽に限らず、合唱や他の楽器(室内楽など)の音楽アンサンブル系の部活・サークルでは、男子がもてやすいかどうかはともかく、男子と女子の間の障壁は低くなるな、というのは実感として思う。その理由を考えると、おそらくこんなふう。 音楽

    吹奏楽男子や合唱男子は本当にモテるか - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 恐怖と共生するには - 深く考えないで捨てるように書く、また

    人間は、未知の事柄に対して、恐怖を感じるようにできている。 一方、人間は未知の事柄に対して、好奇心を持つようにもできている。 好奇心とは、すなわちそれを知りたいという欲求の表れでもある。知ろうとすれば、知識や情報を集める。 そうして集めた知識や情報が、その物事についてネガティブなものであれば、今度は恐怖だけではなく嫌悪を感じるようになるだろう。ポジティブなものであれば、期待や好感を感じるようになるだろう。 通常は、ポジティブな情報もネガティブなものも両方あるわけで、質・量的に圧倒的にどちらかの情報に偏っているのでない限り、判断は、どちらの情報により強く惹かれるか、というところで分かれることになるのかな、と思う。 このあたりの話は、以前どこかのブログで既に読んだ話のような記憶がある。 恐怖は、生物としてのヒトに必要な防御反応だ。危険を回避し、自分を守るための。 同時に、恐怖は大変な不快である

    恐怖と共生するには - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 「喋りたい女と聞きたくない男」に関するメモ(未完) - 深く考えないで捨てるように書く、また

    痛いニュース(ノ∀`) : 「オンナの話はオチがない」…なぜ男性は“しゃべらない女性”が好きなのか? - ライブドアブログあたりから始まっている、「喋りたい女と聞きたくない男」の話。いろいろとふらふら考えたことはあるが、まとまらないので、箇条書きにしてメモしておく。 自分のこれまでの印象として、「すべての女がお喋り好き」はもちろん×。「お喋り好きに女が多い」も×な感じ、意外と口数の多い男性もいる(実際に知人で何人もいるし)。しかし「特に内容のない、あるいはなにかを伝えるという目的のないお喋りが好きな人は男性より女性が多い」というのはなんとなく○。男性でよく喋る人は喋るというより"語る"または"教える"という印象。言い換えると、お喋りすることそれ自体を目的として喋ることが好きな人は、男性にはあまり見かけず、女性に多いと個人的には感じる。 リンク先の記事でとりあげられているのは主にパートナー間

    「喋りたい女と聞きたくない男」に関するメモ(未完) - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • ネット知人は友人にならない - 深く考えないで捨てるように書く、また

    それなりにネット歴も長いので、ネットで知り合った知人はまあまあたくさんいる。中には15年以上のおつきあいになる人もいる。 しかし、その中で友人といえる間柄になった人は一人もいない。もうすこし正確に言うと、私から見て友人友達といえると思う人は一人もいない。 私にとって、迷いなく友人といえるのは、学生時代に知り合った人々のうちの何人かだけだ。今では遠方に行ってめったに会うこともなく、電話やネットを含めても言葉をかわすことも少ない人もいるが、しかし今でも友人だと感じている。 だからといって、ネットで知り合った人たちとの精神的距離が遠いかというと、そうでもない。ネットにいる限り、いろいろと話をする機会は多く、むしろ友人には話さないような腹を割った話をすることもある。罵倒コミュニケーションを気軽にとれるくらい親しく話しあう人もいる。 しかし、それでも、彼らを友人と呼ぶことにためらいがある。 このよ

    ネット知人は友人にならない - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 万能感から挫折への気づき - 深く考えないで捨てるように書く、また

    子どもは万能感というか全能感というようなものをもっている、ということはしばしば耳にする。もうちょっと平たくいうと、子どもは「自分はなんでもできるはずだ」と思っている、という感じだろうか。 それが、大人になると、「自分にはできないこともある」と解ってくる。 この間の時間経過のどこかに「あ、自分はなんでもできるってわけじゃないんだ」という気づき、言い換えれば最初の挫折があるはずなのだが、それはどのへんなのだろう。 5歳の娘を見ていると、まだまだ彼女のもとにはその気づきは訪れていないようだ。 気づくもなにも、まだ身体的にも精神的にも右肩上がりの成長の途中にあり、今できないことでも将来できるようになるという期待(というか、むしろ、おそらくこれからできるようになることが非常に多い)があるから、絶望的な挫折を経験するにはまだ早すぎる。 何歳でそのことに気づくのだろうか。もちろん、単純な年齢では測れない

    万能感から挫折への気づき - 深く考えないで捨てるように書く、また
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