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歴史に関するannoncitaのブックマーク (131)

  • 洪思翊 - Wikipedia

    洪思翊と家族 洪 思翊(日語読み;こう しよく[1]、朝鮮語読み;ホン・サイク[1]、1889年3月4日[1] - 1946年(昭和21年)9月26日[1])は、陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 日統治下の朝鮮出身の日陸軍軍人としては、王公族として皇族と同等の優遇を受けた李垠中将と並び、最も高い階級に昇った。太平洋戦争後、戦犯としてフィリピンで処刑された。 出自[編集] 1889年、朝鮮京畿道安城の両班の家に生まれた。貫は南陽洪氏である。 1905年(明治38年)の第二次日韓協約締結後、大韓帝国の陸軍武官学校へ入学した。 1909年(明治42年)、陸軍武官学校廃止に伴い、日の中央幼年学校へ国費留学した。 中央幼年学校を首席で卒業し、陸軍士官学校へ進学した。 当時、陸軍士官学校には韓国からの派遣留学生が何人も在籍しており、1910年(明治43年)の韓国併合に衝撃を受けて抗日・独立運

    洪思翊 - Wikipedia
  • こういう歴史もあるんですけどね - finalventの日記

    と、ウィキペディア⇒済州島四・三事件 - Wikipedia 済州島四・三事件(チェジュド(さいしゅうとう)よんさんじけん)は、1948年4月3日に現在の大韓民国南部、済州島で起こった人民遊撃隊の武装蜂起にともなうとされる虐殺事件。南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。またこの事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。 ちなみに日の独立は1951年。このあたり、どうも若い人と話していて、れれれ感があるけど、敗戦の45年から6年間日ってなかったんですよ。 流刑地だったことなどから朝鮮土から差別され、また貧しかった済州島民は、新天地を求めて日へ出稼ぎに行き、定住する者もいた。韓国併合後、日統治時代の初期に朝鮮から日に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日の敗戦による朝鮮半島解放によってその3分の2程は帰国したが

    こういう歴史もあるんですけどね - finalventの日記
  • 『もう一つのシベリア抑留 〜韓国・朝鮮人捕虜の60年〜』 - Apeman’s diary

    NHK教育 4月5日放送 ETV特集 『もう一つのシベリア抑留 〜韓国・朝鮮人捕虜の60年〜』 厳寒の地シベリアに抑留された60余万の日軍将兵の中に数千人の韓国・朝鮮人がいたことはこれまで語られることはなかった。去年、韓国政府国家記録院がロシアから入手した資料の中から、朝鮮半島出身者3千人の捕虜名簿を発見、それらを取り寄せ急ピッチで捕虜たちの実態調査を進めている。これまでベールに包まれていた彼らの足取りが明らかになり始めた。 現在、元シベリア抑留者は韓国に10数名健在である。彼らは戦後「対日協力者」・「共産ソ連にオルグされたアカ」として差別を受け続けてきた。また中国には文革の粛清の嵐を生き延びた数名の朝鮮族の抑留捕虜が暮らしていることが判明した。2006年にようやく名誉が回復した彼らはいま、重い口を開き始めた。 1949年2月から3月にかけて抑留生活を終え、韓国の地にたどり着いた韓国人捕

    『もう一つのシベリア抑留 〜韓国・朝鮮人捕虜の60年〜』 - Apeman’s diary
  • 朝鮮人差別について。 - hituziのブログじゃがー

    三浦耕吉郎(みうら・こうきちろう)編『構造的差別のソシオグラフィ』世界思想社 「私たちがある種の関係性のなかにおかれると、個々人のなかの偏見や差別意識の有無とは無関係に、差別に荷担させられたり、差別を引き起こしてしまうことがある」(みうら「序章 〈構造的差別〉のソシオグラフィにむけて」3ページ) マイノリティについて - hituziのブログじゃがー マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ。 日国籍を 一方的に おしつけ、うばいとる。 さて、かんたんに歴史的事実から。在日コリアン弁護士協会 LAZAK編著『裁判の中の在日コリアン』現代人文社より。 1910年のいわゆる日韓併合によって、朝鮮は日の領土とされ、朝鮮人は一律に日国籍を取得しました。その後、日による朝鮮半島の植民地支配が行われていた間、日国籍を有し、日

    朝鮮人差別について。 - hituziのブログじゃがー
  • 秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き | 筆不精者の雑彙

    『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」の続きです。この度休刊が決まった文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』の2009年4月号の、秦郁彦先生と西尾幹二氏の対談記事「重鎮・直接対決! 捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか 「田母神俊雄=真贋論争」を決着する」について、文を引用しつつ、西尾氏の歴史を見る方法(それは西尾氏にとどまらず、それなりの人数の人が同様に思っているようですが)の問題点を指摘するというものです。 前記事でかなりの量を引用をして、一つの記事の許容量に達しそうでしたので、記事を分割しました。で、記事でも以下に比較的長めの引用を行い、しかる後に全体のまとめをしたいと思います。是非とも前記事から通してお読み下さい。 それでは、引用部分に入ります。これは前記事の最後の引用部分の続きです。以下の引用は少し長いですが、重要な箇所なので敢えて引用します。 前記事

    秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き | 筆不精者の雑彙
    annoncita
    annoncita 2009/03/09
    本論と関係ないけど、アナール派の本が読みたくなったよう。古書店行きか…
  • 『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」 | 筆不精者の雑彙

    ※註(2009.3.24.補足):この記事に続く関係記事は以下の通り。 ・秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き」 ・『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ ・『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談評への西尾氏のコメントについて ※註(2010.12.31.補足):この一連の記事が西尾氏の著書に引用されました。 ・『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩 先日新聞の社会面を見ていて、文藝春秋社の雑誌『諸君!』が休刊するということを知り、驚きました。創刊40年になる保守系のオピニオン誌で、かなり有名な雑誌ですから。更に、昨今の世相からすれば、『諸君!』の論調は世間に対する受けはむしろ良い(少なくとも逆風はない)はずなのでは、という疑問が浮かびました。 時事ドットコム「雑誌「諸君!」休刊へ=文芸春秋」によると、「最高部数は2006年の8万5000部、

    『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」 | 筆不精者の雑彙
  • 白洲次郎の「周辺」 - 雪斎の随想録

    ■ 雑誌『諸君j』に下の論稿を乗せた。 □ 保守再生は〈柔軟なリベラリズム〉から -徒に威信を求め、「戦後」を憎悪するのは虚しい。保守にはもうひとつの道があるはずだ 雑誌『諸君』に原稿を寄せたのは、今世紀に入って初めてのような気がする。中身は、雪斎が折に触れて拙ブログで書いてきたような「保守論壇」批判である。 この論稿では、牧野伸顕の言葉を引用した、牧野は、戦前期の自由主義者の一典型として知られた人物である。だが、牧野は、何よりも、昭和天皇の信頼も厚かった「股肱の重臣」であった。「自由主義者」と「皇室への敬意」が重なり合った戦前期の肖像である。こうした牧野に類する人物が、雪斎にとっては、正真正銘の「保守主義者」である。現在、帝国・日の敗北を招き、国民生活に甚大な被害を与え、なおかつ皇室の安寧を危うくせしめた歳月のことを擁護している人々は、自らを「真正保守」などと呼び習わしているらしいけれ

    白洲次郎の「周辺」 - 雪斎の随想録
  • 「親指の聖母」=鎖国の白石との出会い

    Ⅱ 「親指のマリア」=鎖国下の白石との出会い 1952年、北海道から上京した父は、私たち家族を率いて、建築さなかの碑文谷教会に通っていた。 スターたちの結婚式で今はすっかり観光名所になった華麗な聖堂だが、当時は野っ原に建つ、装飾もまだ少ないただ大きいばかりの教会だった。 創設した修道会の名をとって通称サレジオ教会、正式には「江戸のサンタマリア聖堂」。その名前は、1715年鎖国下来日したイタリア人宣教師シドッチが所持した「悲しみの聖母」に由来するという。 そういえば、右脇祭壇に、その複製画がひっそりと飾られてあった気がするし、教会の記念行事の際など、その「御絵」が配られ、「江戸のサンタマリア」の歌を歌った想い出がある。 父はこの聖母像が好きで、晩年にはこの絵を題材にしたステンドグラスの下絵を何枚も色紙に描いては親しい人に贈り、そして色紙の裏には「江戸のサンタマリア」の歌詞を記していた。 父の

    annoncita
    annoncita 2009/02/28
    親指の聖母(江戸のサンタマリア)をめぐる逸話。そういや、西洋美術館に見に行こうと思ってのびのび…だった。/いや違った国立博物館蔵だったorz
  • 昭和天皇の政治関与 - Apeman’s diary

    今日は二・二六事件から3373年目となる日だが、五社英夫監督の『226』がDVD化された(25日発売)のにちなんで『映画秘宝』4月号が二・二六事件をとりあげている。執筆者は「少年犯罪データベースドア』の管賀江留郎氏。二・二六事件については通り一遍のことしか知らないので筋とは外れたポイントへの突っ込みになるが、「政治や軍事に決して口出ししなかった昭和天皇が初めて自ら討伐命令を出し」(55ページ)とされているのにはかなり驚いた。昭和天皇の政治や軍事への関与は「御下問」というかたちで行われることが少なくないからそれを「口出し」と解するかどうかは議論の余地はあろう。「大元帥」としての昭和天皇が積極的に軍の作戦に「口出し」していたとする『昭和天皇の軍事思想と戦略』(山田朗、校倉書房)や先日当ブログでも言及した『昭和天皇・マッカーサー会見』(豊下楢彦、岩波現代文庫)に対しても専門家の間で異論はあるに

    昭和天皇の政治関与 - Apeman’s diary
  • アイヌ差別についてのブクマを全力でまとめてみた

    来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…

    アイヌ差別についてのブクマを全力でまとめてみた
    annoncita
    annoncita 2009/02/09
    アイヌのことをもっと知ろうと思った。台湾の原住民への思いも新たにした
  • アジア太平洋戦争とフィリピン史料集

    1.南方占領地行政実施要領(1941.11.20.大営政府連絡会議決定) 第一 方針 占領地ニ対シテハ差シ当タリ軍政ヲ実施シ治安ノ快復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス 占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス 第二 要領 一 軍政実施ニ当タリテハ極力残存統治機構ヲ利用スルモノトシ従来ノ組織及民族的慣行ヲ尊重ス 二 作戦ニ支障ナキ限リ占領軍ハ重要国防資源ノ獲得及開発ヲ促進スヘキ措置ヲ講スルモノトス 占領地ニ於テ開発又ハ取得シタル重要国防資源ハ之ヲ中央ノ物動計画ニ織リ込ムモノトシ作戦軍ノ現地自活ニ必要ナルモノハ右配分計画ニ基キ之ヲ現地ニ充当スルヲ原則トス 七 国防資源取得ト占領軍ノ現地自活ノ為民政ニ及ボササルヲ得サル重圧ハ之ヲ忍ハシメ宣撫上ノ要求ハ右目的ニ反セサル限度ニ止ムルモノトス 八 米、英、蘭国人ニ対スル取扱ハ軍政実施ニ協力セシムル如ク

  • 麻生鉱業捕虜労役問題 (2009-01-12) - ホドロフスキの記録帳

    今国会で取り上げられた場面を画像でピックアップしときます。 衆議院会議 2009年1月6日 質問者:鳩山由紀夫 議事録 衆議院予算委員会 2009年1月8日 質問者:仙石由人 衆議院予算委員会 2009年1月9日 質問者:枝野幸男 あと、もし他にも同様の答弁があることをご存じの方がおりましたら教えてください。 [追記] 09/01/13 *1 枝野議員の動画中、麻生総理は「資料が厚生労働省にあるとは知らなかった」と発言しておりますが、 麻生太郎オフィシャルサイト内「きょうたろう」コーナー2006年5月24日分*2において、 韓国ロシア中国との外相会談の概要がアップされており、その中に次の記述があります。 ・・・・・・ (5)「強制動員」被害判定のための資料提供について、潘長官より、厚生年金名簿および供託金名簿の提供の要請があり、麻生大臣より、いかなる協力が可能か検討させたい旨述べた。

    麻生鉱業捕虜労役問題 (2009-01-12) - ホドロフスキの記録帳
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…

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    annoncita
    annoncita 2008/12/18
    ありゃ、台湾は調査対象なのに、意見が言及されてないわorz
  • 【正論】筑波大学大学院教授・古田博司 増殖する韓国の「自尊史観」 - MSN産経ニュース

    ≪「チャングム」のまやかし≫ 近頃、会合で話をすると10人に1人位は韓国時代劇チャングムのファンがいて、物語をそのまま史実だと思いこんでいることが多いので、正しておきたい。まず朝鮮の李朝では、女子が宮中に出仕すると王様と疑似婚姻関係に入るので一生外に出られない。チャングム女史のように出たり入ったりはできない。 ドラマでは李朝時代は色彩にあふれているが、ほんとうは顔料がないので民間に色はない。中国の清朝でも日の江戸時代でも陶磁器に赤絵があるが、朝鮮には白磁しかないのはそのためで、民衆の衣服が白なのも顔料が自給できないからである。民芸研究家による「朝鮮の白は悲哀の色」というのも、今では真っ赤なウソである。上流階級だけは中国で交易する御用商人から色のある布を買っていた。 李朝は清朝や江戸時代と異なり、技術革新を嫌い、低レベルの実物経済で500年もの統治を可能にしたのであり、どこに似ているかとい

    annoncita
    annoncita 2008/12/18
    いきなりチャングム批判。日本の時代劇だって史実じゃないこといっぱいあるだろうよ。
  • 田母神論文 ノムさんの時事短評 081203

    08/12/03 皆さん、こんにちは。 私は2チャンネルと言われるものに書き込みができません。やり方を知りません。 ただ二三のスレッドについては、興味を持って読んでいます。テレビ評論家のいうことよりも格段に面白いです。 最近、前後の流れから明らかに私を指すと思える発言がありました。 222 神も仏も名無しさん 2008/11/08(土) 02:01:43 某N氏が日は侵略国家だってさ。 保守のふりして実は石破なみのリベラルだったんだな。 291 神も仏も名無しさん New! 2008/11/25(火) 19:25:10 某N氏が村山談話に違和感無いってさ。 リベラルどころか実は向こう側の人だったんだね。 私は先月3日に「村山談話」について、“これは立派な「談話」と思います。私は違和感を持ちません”と書きました。同じ頃、友人のブログにも、同主旨の投稿をしたと思います。そのどちら

  • 田母神論文 ノムさんの時事短評 081205

  • 田母神論文 ノムさんの時事短評 081204

  • 田母神論文 ノムさんの時事短評 081210

    08/12/10 皆さん、こんにちは。 田母神論文から『村山談話』へ移る前に、もう一度「田母神論文」関連を書きます。 文章というものは、骨組・起承転結がすべて出来ていて書く場合があり、何となく方向だけ決まって、書き始める場合があります。私の場合はほとんど後者なので、書きながら気付くことも多いわけです。今回の私の場合は、日が「侵略国家であったか無かったか」は、愛国心に関係しないと気付いたことです。 (もっとも、日を「侵略国家」だったと誰が言っているのか、私は知りません。このことは「村山談話」に関連して、追って検討します)。 田母神氏は、「国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である」と立腹されますが、誰に対して怒っておられるのでしょうか。「東京裁判」でそのように定義されているのかも知れません。(私には知識がありません)。村山談話でも、日は侵略国家だった、とは言っておりません

  • おじろく、おばさ

    長野県の南部、飯田のあたりは、高山の多い信州の中でも特に山深いところである。平地といえるような土地はほとんどなく、ろくな道すらないのだけれど、そんなところにも古くから人は住んでいるもので、天竜川に沿ってぽつぽつと小さな集落がいくつか点在している。 そうした集落をひとつひとつ数珠繋ぎするようにして、豊橋と辰野を結ぶ飯田線が全通したのが昭和12年。なにせ平らな土地のほとんどない深い山地のこと、さぞかし難工事だっただろうことは想像に難くない。さてその飯田線に、中井侍(なかいさむらい)という、ちょっと変わった名前の無人駅がある。長野、静岡、愛知の三県の県境あたりに位置する駅である。 と、なんだか紀行文のように始まったのだけれど、別に私はこの中井侍に行ったことがあるわけではない。飯田線にも乗ったことはない。ただ、ある精神医学誌の論文にこの地域のことが載っていたので、ちょっと興味を惹かれただけである。

    annoncita
    annoncita 2008/12/09
    知られざる歴史
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    annoncita
    annoncita 2008/11/27
    江川さん、かっこいいなあ