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宮沢賢治に関するdeadwoodmanのブックマーク (5)

  • 『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心

    2018/12/24 13:24 公開から2年以上経ってシン・ゴジラを見て、今になって熱中して色々な感想、記事を読み漁っています。折鶴に込められた意味はなんとなく受け取れる気がしましたが、『春と修羅』については知識がなかったので、大変勉強になりました。主人公(ヒーロー)不在の物語だなと感じていましたが、作は現象と現象の対峙だという解説に非常に感銘を受けました。作り手がゴジラと人間たちを、それぞれ現象として扱っているというだけではなく、教養があれば、劇中のヒントからそのように読み解ける作りだったということですね。まだ他にも読解はできそうですし、要素がてんこ盛りなので、まだまだ鑑賞はやめられそうにありません。 2016/09/18 13:43 宮沢賢治(冒頭の「春と修羅」)と石原莞爾(泉修一の「他国に犠牲を強いるのは覇道です」というセリフ)が劇中チラチラしているが,この二人は法華経繋がり。国

    『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心
  • 『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心

    なぜ理解されなかったのか。その答えは、この詩集の「序」を読むだけでも明らかだ(なお、詩の全文は「青空文庫」に公開されている)。 わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です (ひかりはたもち その電燈は失はれ) これらは二十二箇月の 過去とかんずる方角から 紙と鉱質インクをつらね (すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの) ここまでたもちつゞけられた かげとひかりのひとくさりづつ そのとほりの心象スケツチです 東京大学言語情報科学専攻教授の小森陽一氏は、その講義録『いま、宮沢賢治を読みなおす』(かわさき市民アカデミー講座ブックレット)の中で、この一文目の、時代に対してあまりに先鋭的だった先進性について

    『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心
  • 『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心

    妹を失った賢治、を失った牧元教授 ただ、『春と修羅』の「序」以降を読み進めると、「シン・ゴジラ」の物語との間に、「ゴジラを止めるヒント」とだけ回収してしまうには惜しい世界の広がりや重なりを感じる。物語の中でほとんど触れられず、1枚の顔写真だけで描かれる牧元教授という人間を知るために、賢治が残した詩集をさらに読み込んでいきたい。 『春と修羅』には、結核に罹って伏す妹・トシとの別れを予感するある朝を描いた「永訣の朝」という作品が収められている。「国語」の教科書に採用されることも多い作品なのでお読みになったことのある読者も少なくないはずだ。 けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ (*あめゆじゆとてちてけんじや) うすあかくいつそう陰惨な雲から みぞれはびちよびちよふつてくる (あめゆじゆとてちてけんじや) 青い蓴菜のもやうのついた こ

    『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心
  • 『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心

    これらについて人や銀河や修羅や海胆は 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な体論もかんがへませうが それらも畢竟こゝろのひとつの風物です たゞたしかに記録されたこれらのけしきは 記録されたそのとほりのこのけしきで それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで ある程度まではみんなに共通いたします (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから) 「人」を「銀河」「修羅」「海胆」と併置する感覚。「空気や塩水を呼吸」するという反応回路。そしてそれらの「体論」を考えること自体も「畢竟こゝろのひとつの風物」であるという断言。この賢治の世界観で捉えるならば、自己も他者も、神羅万象すべての存在と現象は化学式の連鎖に過ぎず、「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに、みんなのおのおののなかのすべてですから」という、他者に対する恐れも愛もない世界にた

    『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心
  • 『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心

    草地の黄金をすぎてくるもの ことなくひとのかたちのもの けらをまとひおれを見るその農夫 ほんたうにおれが見えるのか まばゆい気圏の海のそこに (かなしみは青々ふかく) ZYPRESSEN しづかにゆすれ 鳥はまた青ぞらを截る (まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる) あたらしくそらに息つけば ほの白く肺はちぢまり (このからだそらのみぢんにちらばれ) いてふのこずゑまたひかり ZYPRESSEN いよいよ黒く 雲の火ばなは降りそそぐ 「シン・ゴジラ」の最後のシーンで、尻尾が拡大して映し出されて人間の姿らしきものが見える。これについて作中で十分な説明はなく、インターネット上で様々な解釈が試みられている。ここでは、何らかの理由でゴジラと一体化した、もしくはゴジラに変異した牧元教授であるという解釈に一票を投じたい。 「私は好きにした。君らも好きにしろ」――。揃えて置かれたは、彼

    『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心
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