「大震動波信士」「吸波禅定門」…。元禄十六(一七〇三)年の年号とともに、風変わりな戒名を刻んだ墓が伊東市にある。三百十一年前の十一月二十三日の夜中、伊豆半島東海岸を元禄地震の津波が襲った。この年の墓石は江戸時代を通して最も多く、伊東の村人に最大の惨禍だったことを物語る。市生涯学習課の金子浩之主幹(54)は「戒名を読むと犠牲の多くは女性や子どもだ。生き残った者への戒めの意味もあっただろう」と話す。 「伊東を襲った津波は江戸時代より前にもある。しかし、被害実態を読み解けるのは元禄地震が最古」と金子さん。それ以前の文書や碑文は残っておらず、庶民に墓が広がりだしたのは江戸時代以降だからだ。 市は二〇〇〇~〇五年、市内九十一カ所の墓をくまなく調べた。元禄十六年十一月二十二日か二十三日の墓が群を抜いて多い。当時は夜明けを一日の始まりとすることもあったため、二十二日も津波の犠牲と考えると二百三基、二百五
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