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柴田勝家を見限り、秀吉に降って大出世…一度は敵対した前田利家が、なぜ「加賀百万石」の礎を築けたのか
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柴田勝家を見限り、秀吉に降って大出世…一度は敵対した前田利家が、なぜ「加賀百万石」の礎を築けたのか
勝家の敗北につながった“利家の離反” 天正11(1583)年4月22日、秀吉は越前国府中(福井県越前市)に至... 勝家の敗北につながった“利家の離反” 天正11(1583)年4月22日、秀吉は越前国府中(福井県越前市)に至り、前田利家、徳山秀現とくのやまひであき、不破直光ふわなおみつらが降参した。一つひとつ攻め殺すべきだったが、勝家を討つことを先決としたので赦免した。 羽柴秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いの軍記物『柴田合戦記』の一節だ。前田利家、徳山秀現、不破直光(または勝光ともいう)ら柴田勝家軍の諸将が、相次いで秀吉に降伏した様子を伝えている。上記は書き下し文で、原文は下記である。 前田利家の戦線離脱は、柴田勝家の敗北につながる大きな要因のひとつになったといわれている。 もっとも『柴田合戦記』は秀吉の文官だった大村由己おおむらゆうこが著しているため、秀吉に都合の良い内容を書き連ねる傾向が強い。それでも似た内容を書き残した文献が、他にもある。例えば前田家の家臣・村井重頼の覚書などだ。 堀秀政が利家に

