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日本兵は「消耗品」のように散っていった…無慈悲に「玉砕」を命じるエリート将校を育てた"過激な教育内容" 定員50人の陸軍大学校で使われていた「非公開の教科書」
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日本兵は「消耗品」のように散っていった…無慈悲に「玉砕」を命じるエリート将校を育てた"過激な教育内容" 定員50人の陸軍大学校で使われていた「非公開の教科書」
優等生だが、実戦経験は乏しかった 太平洋戦争時に陸軍の指導部に列した軍人は、だいたいが明治10年代中... 優等生だが、実戦経験は乏しかった 太平洋戦争時に陸軍の指導部に列した軍人は、だいたいが明治10年代中期から20年代後期にかけての生まれである。 彼らにはいくつかの共通点があった。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校(陸大)と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。つまり成績至上主義のこのような機関で相応の成績をあげていた。さらに彼らには、実戦体験が希薄であった。 この世代は、明治37年、38年(1904、05年)の日露戦争時には陸軍士官学校の生徒であったり、あるいはまだ陸軍幼年学校の生徒にすぎなかった。中隊長として参戦した者はあったが、それは実戦を指揮するという立場ではなかった。 長州閥による支配体制が終焉 さらにこの世代は、日本陸軍の建軍以来の軍人養成システム、精神的規範、戦略・戦術指導が生みだした軍人という側面をもっていた。つまり近代日本の富国強兵策の忠実な申し子といえた。

