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今回の人物 石原莞爾 vol.3(福田 和也) @gendai_biz
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vol.2 「西山農場に賭けた石原最後の夢。鳥海山の麓にその墓を訪ねて」はこちらをご覧ください。 はじめ... vol.2 「西山農場に賭けた石原最後の夢。鳥海山の麓にその墓を訪ねて」はこちらをご覧ください。 はじめて中国に行ったのは、一九九七年の二月だった。 小平による「南巡講話」、まず豊かになれる者から豊かになればよい、という改革開放の呼び声がかけられてから五年近くたっていたが、未だに大連の市街はくすんでいて、荒廃の色合いが濃かった。 たしかに高層ビルは建ちはじめていたけれど、それはまだ、街の表情を一変させるというほどではなかった。人民服の人がまだ多かった。 ガイドによると、再開発中だというのだけれど、普請中というよりは塵芥が街角に放り出されているだけに見えた。 戦前、日本人が四十万人、中国人も四十万人住んでいた大連は、九七年当時、人口五百三十万人となっていた。数字だけ観れば激しい膨張なのだけれど、港湾以外はそれほどの繁華という印象をうけなかった。 大連の中心、中山広場はアメリカ領事館以外はすべ