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『鎌倉殿の13人』で描かれなかった北条泰時の「その後の苦難」と陰謀の顛末 泰時が邪魔だった人物と手を貸した御家人、その不穏な動きを封じたのは? | JBpress (ジェイビープレス)
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『鎌倉殿の13人』で描かれなかった北条泰時の「その後の苦難」と陰謀の顛末 泰時が邪魔だった人物と手を貸した御家人、その不穏な動きを封じたのは? | JBpress (ジェイビープレス)
回を増すごとにSNSでも話題に上ることが増えていったNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。最終回ではタイト... 回を増すごとにSNSでも話題に上ることが増えていったNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。最終回ではタイトルに込められた意味も明らかになり、大反響のなか放送を終えた。しかし、当然のことながら、実際の歴史はその後も続く。とりわけ、北条義時の跡を継いだ北条泰時からすれば、ここからがむしろ人生の正念場だった。幕府の最高権力者として辣腕を振るった父、北条義時の死後、鎌倉幕府は一体どうなったのだろうか──。偉人研究家の真山知幸氏に解説してもらった。(JBpress編集部) “極悪人”のごとく扱われた北条義時 源氏将軍から実権を握り、鎌倉幕府で権勢をふるった北条義時。「承久の乱」においては皇室をも討って、3上皇(後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇)を配流している。そのうえ、かつては鎌倉幕府の第4代将軍として迎えようとした2皇子(雅成親王・頼仁親王)も容赦なく流刑に処したことで、義時の後世でのイメージは決定