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哲学とは、奴隷の境遇に甘んじないための道具である|ニー仏
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哲学とは、奴隷の境遇に甘んじないための道具である|ニー仏
昨日のエントリでは、哲学的・抽象的な思考を訓練する意義について述べたけれども、それでもやはり、「... 昨日のエントリでは、哲学的・抽象的な思考を訓練する意義について述べたけれども、それでもやはり、「そんなことがなぜ必要なのかわからない」と感じられた方々もいるであろう。そこで、今回はこの点について、もう少し説明を補ってみたい。実際のところ、哲学的・抽象的な思考の欠如というのは、私がいつも述べている「現実教」(≠事実に立脚した理性的な態度)の問題点そのものでもある。 ちなみに私がいつも「現実教」と言っているのは、このように「自分が認識している現状」を、その内容がいかなるものであれ、なぜかそのまま規範としても受容し維持しようとするという、我が国においては実に一般的な観念の動き方(信憑)のことですね🐧 — ニー仏 (@neetbuddhist) April 4, 2023