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「後継ぎは優秀な人間がいい」とは限らない…徳川家康が「凡庸な三男・秀忠」を二代将軍に選んだ深い理由 凡庸だったからこそ、家康の統治を真似できた
江戸幕府の第2代征夷大将軍である徳川秀忠は、家康の三男であり、能力も「凡庸」と言われていた。なぜ家... 江戸幕府の第2代征夷大将軍である徳川秀忠は、家康の三男であり、能力も「凡庸」と言われていた。なぜ家康は長男や次男ではなく、三男を後継者に選んだのか。歴史作家の河合敦さんの著書『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)より、一部を紹介する――。 跡継ぎ育成に失敗していた家康 人質から天下人に成り上がった徳川家康。日本で最も出世した偉人といえるだろう。 慶長8年(1603)、朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた家康だが、そのわずか二年後、息子の秀忠に将軍職を譲り、徳川が政治権力を世襲することを内外に誇示した。さらに武家諸法度、一国一城令、禁中並公家諸法度、寺院法度などで、政権を危うくする大名、朝廷、寺社と徹底的におさえたのである。 けれど、将軍を隠退して大御所になってからも秀忠には政治を任せず、家康は死ぬまで権力を手放さなかった。このため、死に臨んで家康は、秀忠のもとで徳川政
2023/11/07 リンク