![](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/d3f00142a755c378380ca49100f0fc750b9648b1/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Ftk.ismcdn.jp%2Fmwimgs%2Fe%2F6%2F1200w%2Fimg_e6a73de30a622226e4449fce59b7e3e9555469.jpg)
エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント1件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
ロヒンギャ問題、スーチー氏批判は筋違いだ
一方、ロヒンギャという民族名称は、文書史料の上では1950年までしか遡ることができない。その意味では... 一方、ロヒンギャという民族名称は、文書史料の上では1950年までしか遡ることができない。その意味では戦後生まれた新しい民族集団とみなすことも可能である。ただ、この地で15世紀前半から18世紀後半まで栄えたアラカン王国の時代に、多数派の仏教徒と共に、ムスリムも一定数居住していたことが史実として知られ、そこに起源を求めることも十分できる。 アラカン王国に住むムスリムは、捕虜として連れてこられた人たちの子孫や傭兵たちで、王宮で役職に就く者もいた。アラカン王国は1785年、ビルマ王国(コンバウン朝)の侵略によって滅亡する。その後、1826年に第一次イギリス―ビルマ(英緬)戦争での敗北を経て、ラカインが英国の植民地と化すと、以後ベンガル側から大量のムスリムがこの地に入り、数世代を経て定住するに至った。 いつ、なぜ「ロヒンギャ」と名乗るようになったのか アジア・太平洋戦争期(1941-45)には、イギ
2017/09/19 リンク