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先日、40歳になった。いわゆる不惑だ。 ”不惑”という言葉は、言わずと知れた、論語の「四十にして惑わず... 先日、40歳になった。いわゆる不惑だ。 ”不惑”という言葉は、言わずと知れた、論語の「四十にして惑わず」から来ているが、ずっとこの言葉、おかしいのでは?と思っていた。 だって、論語のその続きは、「五十にして天命を知る」だよ。天命を知る10年前に惑わない?それって無理じゃない?それに孔子自身、50代になって、国政に失望して旅に出ている。当人だって、惑っているじゃないか。 「不惑」ではなく、正しくは「不或」 そこで調べてみたところ、なんと「惑わず」と訳すのは間違いのようだ。 孔子の時代には、惑の字はまだ普及してなかったので、正しくは「不或」らしい。 或の字は、土をつけると域、□で囲むと國となる。つまりは、「ボーダーライン」を意味する文字だ。だから、「不或」は、「40歳になったら、あらゆるボーダーをとっぱらって、もっとチャレンジしなさい」というのが本当の意味。 これなら納得できる。40歳よ、まだ
2014/09/29 リンク