エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
ウクライナをヨーロッパはなぜ「静観」するのか
19世紀になると、しかしこの状態はまったく逆になってしまった。拡大する西欧、イギリス、フランスのも... 19世紀になると、しかしこの状態はまったく逆になってしまった。拡大する西欧、イギリス、フランスのもとで、ヨーロッパは衰退するオスマン帝国の領土をつぎつぎと奪ってゆく。その始まりがギリシャ独立運動だ。ここで、19世紀のヨーロッパから見た視点、すなわちオリエンタリズムが完成する。主客は転倒し、ビザンツ=オスマンから見る視点ではなく、西欧から見る視点が世界史の視点となる。 「進歩的な西欧、反動的なアジア」というイメージは、そこから生まれるのだ。それ以後、オスマン支配下にあったセルビアやボスニアは、後れたアジア地域のヨーロッパになる。オスマントルコといえば、その領域はペルシャとともにウクライナの南の黒海地域、そしてグルジア、アゼルバイジャン地域へ広がっていた。 だから、すでに紹介した小説の主人公アリは、教師からアゼルバイジャンは反動的アジアに入るのか、それとも進んだ西欧に入るのかと問われたのである