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【敗者烈伝】 徳川慶喜(下)策におぼれた「小才子」の限界 作家・伊東潤(1/4ページ)
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【敗者烈伝】 徳川慶喜(下)策におぼれた「小才子」の限界 作家・伊東潤(1/4ページ)
参預会議は崩壊したものの、元治元(1864)年3月、徳川慶喜は朝廷に擦り寄り、新設の禁裏御守衛総... 参預会議は崩壊したものの、元治元(1864)年3月、徳川慶喜は朝廷に擦り寄り、新設の禁裏御守衛総督に任命された。幕府と距離を取った慶喜は、京都守護職の会津藩と同所司代の桑名藩の軍事力を背景に、京都政界を支配する(一会桑勢力)。 こうした流れを挽回すべく、巻き返しに出た長州藩だったが、同年6月の池田屋事件と7月の禁門の変で、再び後退を余儀なくされた。 その後も長州処分問題や条約勅許問題などで、慶喜は政治的暗躍を続けるが、朝廷、幕閣、薩摩藩などから「変説漢(変節ではない)」と呼ばれるようになり、会津・桑名両藩なくして、その政治生命は危ういものとなっていった。 慶喜が小知恵を働かせて動けば動くほど、周囲は慶喜から離れていくのだ。 慶喜と一会桑勢力が断固として譲らなかった長州征討だが、慶応2(1866)年の第二次征討が実質的な敗北に終わり、幕府の権威は失墜する。 こうした最中に将軍家茂が病死するこ