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【敗者烈伝】 織田信長(上)過信の果てに迎えた「本能寺」 作家・伊東潤(1/4ページ)
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【敗者烈伝】 織田信長(上)過信の果てに迎えた「本能寺」 作家・伊東潤(1/4ページ)
歴史上、敗者という称号が最も似合わない敗者こそ、織田信長だろう。想定外の謀反によって殺されたので... 歴史上、敗者という称号が最も似合わない敗者こそ、織田信長だろう。想定外の謀反によって殺されたので、信長を敗者と呼ぶのは酷かもしれない。それでも信長は敗者だと主張したい。信長は自分自身という大敵に敗れたからだ。 天文3(1534)年、信長は尾張国で生まれた。父の信秀は尾張守護代・織田大和守家の一奉行(家老)にすぎなかったが、次第に力を蓄え、守護代家はもとより、守護の斯波(しば)氏も凌駕するほどの勢力基盤を築いていった。その理由は、津島や熱田を拠点として伊勢湾交易網を掌握したことにある。 後に信長が、上洛してすぐに摂州堺を支配下に置いたり、大坂から本願寺を追い出そうとしたりするなどして、海上交易の要衝に強い関心を示したのも、幼い頃から、その生み出す富の大きさを知っていたからだろう。 ところが天文20年、信秀が42歳という若さで病死する。これにより家督を継いだ信長と、尾張国内の織田家諸勢力との衝