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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】早雲在城の証し「新九郎谷」 柏久保城(伊豆市)(1/2ページ)
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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】早雲在城の証し「新九郎谷」 柏久保城(伊豆市)(1/2ページ)
北条早雲の伊豆乱入(討ち入り)は明応2(1493)年10月、まず夜襲により堀越御所に襲い掛かり、... 北条早雲の伊豆乱入(討ち入り)は明応2(1493)年10月、まず夜襲により堀越御所に襲い掛かり、(足利)茶々丸は不意をつかれて討たれたと、『北条五代記』では1カ月ほどで伊豆国を制圧したとするのが従来の説であったが、実際はそんな簡単な侵攻ではなかった。 明応5年に伊豆の郡代官で山内上杉家の家臣、伊東佑遠が早雲に従属。翌6年4月には土豪の大見三人衆(佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門)が居城の大見城(伊豆市柳瀬)から出撃、柏久保城を攻めていた茶々丸派で最大勢力の狩野氏を、背後から襲い撃退した。「狩野氏を撃ち破り、たのもしい」とする内容の文献が「早雲判物写」に残されている。 早雲の侵攻は早い段階から伊豆西海岸の海賊衆(山本氏・富永氏・高橋氏・鈴木氏)を味方に引き入れ、有力武将の伊東氏らを懐柔していた。抗争の主な舞台は中伊豆地域だが、抵抗勢力の狩野氏との戦いは東西の外堀を埋めて挑んだと考