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世界文学全集に関するfijixfijiのブックマーク (32)

  • ルポルタージュの最高傑作「黒檀」

    ルポルタージュの最高傑作。スゴ。 開高健「ベトナム戦記」が一番だった。しかし、アフリカ質をえぐりだした、リシャルト・カプシチンスキ「黒檀」が超えた。この一冊にめぐりあえただけで、河出文学全集を読んできた甲斐があった。スゴいを探しているなら、ぜひオススメしたい。ただ、合う合わないがあるので、「オニチャの大穴」を試してみるといい。十ページ足らずの、アフリカ最大の青空市場を描いた一編だが、ここにエッセンスが凝縮している。貧困としたたかさ、そしてカプシチンスキ一流のユーモアが輝いている。 アフリカの多様性を言い表すパラドクスがある。ヨーロッパの植民地主義者はアフリカを「分割」したと言われているが、それはウソだ。「あれは兵火と殺戮によって行われた野蛮な統合だ!数万あったものがたったの五十に減らされたのだから」というのだ。アフリカはあまりに広く、多様で、巨きい。だから、大陸全体について書くなん

    ルポルタージュの最高傑作「黒檀」
  • 陽気で不吉な寓話「ブリキの太鼓」

    饒舌で猥雑で複雑な虚実を描ききった傑作。 この面白さは、J.アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」を読んだときと一緒。というか、アーヴィングは「ブリキ」に影響を受けているなぁと読み取れるところ幾箇所。アーヴィング好きなら必ず気に入る(はず)。歴史と家族が混ざるとき、哀愁と残酷が交わるとき、自ら過去を語りだす「ぼく」――― 一人称の存在が必要になる。第二次大戦下の激動をしたたかに生き抜く「ぼく」は、強烈な一撃を読者に見舞うだろう。 というのも、この「ぼく」という存在は、「オスカル」という小児の「中の人」なのだから。「ぼく」は、生まれたときからオトナに成りきっている。知的で、冷静で、屈折しまくっている。周りの大人からは「オスカル」と名付けられた子どもは、「オスカル」としても判断・活動する。この「オスカル」と「ぼく」の二重主語が面白い。「オスカル」を完全に掌握するまでは、とみさわ千夏の「てや

    陽気で不吉な寓話「ブリキの太鼓」
  • 「ヴァインランド」はスゴ本

    もちろん持ってますぞ、「V.」も「重力の虹」も新潮社の「ヴァインランド」も。 そして、どれも最後まで読んでないwww たまに発作的に、「いつかは、ピンチョン」とつぶやいて、あのずっしり詰まったハードカバーを手にとるのだが、イメージの濁流に呑み込まれて読書どころでなくなる。注釈と二重解釈と地文と話者の逆転とクローズアップとフラッシュバックと主客の跳躍に翻弄され、読書不能。まれに、「読んだ」「面白かった」という方がいらっしゃるが、どうやって読んだのだろうあやかりたい頭借りたい。 逃げちゃダメだ逃げちゃダメだと河出書房の新訳に手を出す。今回は池澤解説(ピンクの投げ込み)と池澤書評[URL]で予習したからバッチリさ――とはいえ、極彩色で蛍光色の【あの】60年代70年代を、ゲップが出るまでたっぷり喰わされる。ロック、ドラッグ、サイケデリックな【あの時代】を駆けぬけ突きぬけくぐりぬけてきた人なら、諸手

    「ヴァインランド」はスゴ本
  • 「見えない都市」と銀河鉄道999

    マルコ・ポーロが架空の都市をフビライ・ハンに語る幻想譚。 …なのだが、どうしても銀河鉄道999(スリーナイン)を思い出してしまう。というのも、999に出てくるさまざまな「惑星」は、いまの現実のいち側面をメタファーとしてクローズアップさせていたことに気づくから。 「見えない都市」では、55の不思議な都市(まち)が語られる。死者の住む都市といえばありきたりだが、死者のために地上の模型を地下に構築する都市。全てのモノを使い捨てにし、周囲に堆積した塵芥に潰される運命を待つ都市。地面に竹馬のような脚を立て、雲上に築かれた空中都市。 「銀河鉄道999」でも、奇妙な惑星(ほし)が出てくる。ルールや法律が一切ない惑星。すべてが化石となる惑星。密告を恐れて声をひそめる沈黙の惑星。命の尽きたペットが、主人を偲んで暮らす惑星。金属やプラスチック製のものが一切なく、すべてが枯木と枯葉だけでできた惑星。 異様な都市

    「見えない都市」と銀河鉄道999
  • 油断のならない語り手「庭、灰」

    実験的な色彩が強く、読み流すと「破綻した物語」に見える――のだが… ただの回想録と思いきや、語りの技巧にヤられる。最初は、少年時代の思い出を、時間の流れに沿って描いてゆく。死の恐怖、夢と死、母への思慕、父の紫煙、ユリアとの初恋…読み手は、自分の幼い頃と重ねながら甘酸っぱさを共有するかもしれない。 次にそれをベースにして、謎めいた存在だった「父」の探求を始める。いずれも「いま」「この場所」で「読み手に向かって」、「僕」が語る形式をとっているのだが、それぞれの要素がよじれてくる。ここから、まるで別物に見えてくる。 記憶よりも連想に寄りかかり、筋は論理矛盾を起こし、話者は「不確かな語り手」と化す。展開は絶えず断ち切られ、それらをつなぐ相関は、五感――視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚によって、身体的な表現へ触発される。モンタージュ、フラッシュバック、フェイドアウトなどの映画手法が応用され、視覚効果が強

    油断のならない語り手「庭、灰」
  • リトマステスト的読書「アメリカの鳥」

    19歳の若者の「よちよち」具合が面白い、といったら失礼か。 も少し言葉を選ぶなら、自分の若かりし頃と重ね合わせ、彼の未熟さが引き起こす失敗や悩みを、一緒になって悲しんだり心配する。ただし、その失敗や悩みのいちいちがみみっちく、くだらない。リベラル的な発言は叩かれなれていないせいか、あっちへヨロヨロこっちでボカスカされる。 そこに普遍性を見出したのか、選者の池澤夏樹は「傑作」だとほめたたえる。彼とは趣味がかなり違うことも分かっているし、わたしなんざ足元にも及ばぬほどの読書経験を積んでいることも分かるが…ホント?面白がるポイント外してた、ボク?と自問したくなる。 主人公はアメリカの若者。カントの黄金律「他人の利益が自分のふるまいの目的となるようになせ」をよりどころにしている。時はベトナム戦争当時、所はアメリカの片田舎、パリ、そしてローマ。フランスという異文化でセイシュンやってる男の子の前に、さ

    リトマステスト的読書「アメリカの鳥」
  • 死とは、最後の苦痛にすぎない「老いぼれグリンゴ」

    革命時のメキシコを舞台とした、エロマンティックな愛憎劇。 実はハナシはシンプルだ。老いた男と、若者と、女が出会って別れる話。老いた男は死に場所を求め、若者は革命を求め、女は最初メキシコを変えようとし、最後はメキシコに変わらされようとする物語。「女ってのは処女が売春婦かどちらかなんだ」とか、「世界の半分は透明、もう半分は不透明」といった警句が散りばめられており、ヒヤリとさせられる。 しかし、「語り」が断りなく多重化したり、「今」が反復ヨコ跳びしており、読みほぐすのに一苦労する。「ひとり彼女は坐り、思い返す」――この一句から始まり、要所要所で形を微妙に変えつつ挿入されている。読み手はこれにより、彼女視点から時系列に描かれるのかと思いきや、別の人物のモノローグや観察に移ったり、いきなり過去話に飛ばされる。ときには地の文に作者の意見がしゃしゃり出る。まごまごしていると、「ひとり彼女は坐り、思い返す

    死とは、最後の苦痛にすぎない「老いぼれグリンゴ」
  • 設計された旅「パタゴニア」

    モレスキンをこよなく愛した旅人が書いた紀行文。著者チャトウィンは、こんなセリフを遺している。 Losing my passport was the least of my worries; losing a notebook was a catastrophe. 彼にとっての「ノート」とは、モレスキン。モレスキンを無くすくらいなら、パスポートのほうがマシなんだろうね。これは、モレスキンのキャッチコピーでもあるそうな。 チャトウィンは歩く旅人でもあった。「パタゴニア」には何度も歩く場面が出てくる。ヒッチハイクしようにも、だいたい車がないのだ。曰く、「僕の神様は歩く人の神様なんです。たっぷりと歩いたら、たぶんほかの神様は必要ないでしょう」。歩いた先で出会う人や会話との間に、歩いた場所でかつて起きた歴史を積み重ねるようにしてつむがれる。 たとえば、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの後日談。

    設計された旅「パタゴニア」
  • 男と女はどのように壊れるのか「軽蔑」

    オシドリ夫婦が壊れていく話。 「よくあることじゃん、現実にも」という方には、次の点を強調しておこう。この小説は、男性側から一方的に見た、「オシドリ夫婦が壊れていく話」なんだ。インテリであり作家である夫が告白する形式なのだが、その回想描写が正確であればあるほど、心理分析が的確であればあるほど、疑わしく思えてくる。なにが?なにもかもが。 わたしたちは愛し合っていた。この物語の主題は、わたしが依然としてを愛し、を無批判に受けいれていたときに、どのようにしてエミーリアがわたしの欠点を見出し、あるいは見出したと思いこみ、わたしを批判し、ついにはわたしを愛さなくなったかを語ることである。 愛さなくなっただけでなく、夫のことを軽蔑し、静かな怒りまで抱くようになったという。夫にしてみれば、身に覚えもなく、やましいことも一切していない(と思っている)。なので、最初は戸惑い、次に怒り、ついには泣きつく。

    男と女はどのように壊れるのか「軽蔑」
  • 体験を追走する「黄金探索者」

    喚起力がすばらしい。その場にいないとわからない感覚を、あたかも自身の肉体を通しているかのような読書にハマる。 たとえば、台風が近づいてくるとき、じっとりと息苦しくなる。からだ全体が押し付けられたようになり、声がうまく出ない。物音の伝わり方がこもった感じになり、世界がまるで変わってしまう──そんな感覚に襲われたことがないだろうか。空や、風といった景色ではなく、もっと身体的な変化に驚かされることがある。 これを、ル・クレジオは次のように書く。大型サイクロンが襲ってくる場面だ。 ぼくたちの体の一番奥深くに入ってくるあの静寂、悪い兆しと死を思わせるあの静寂こそ、忘れられないものだ。木々に鳥の姿はなく、虫もなく、モクマオウの枝を吹く風の音さえしない。静寂は物音よりも強く、物音を呑み込んでしまう。すべてが空ろになり消えてなくなる。ぼくたちはベランダでじっとしている。濡れた服のままでぼくはぶるぶる震えて

    体験を追走する「黄金探索者」
  • このロビンソンが面白い「フライデーあるいは太平洋の冥界」

    デフォー「ロビンソン・クルーソー」をご存知だろうか。遭難した主人公が、南海の孤島で自然を開拓し、従僕フライデーとともに文明生活を築く話だ。 では、ヴェルヌ「二年間の休暇」はどうだろう?無人島に漂着した少年たちが、力を合わせて生きていく物語だ。「十五少年漂流記」の方が膾炙しているのかもしれない。あるいは、家族版ロビンソンともいえる、「ふしぎな島のフローネ」はご存知だろうか?どれも、ロビンソン漂流記をアレンジしている。 どの話も共通点がある。大自然に投げ出され、それなりに苦労もするが、文明人らしい生活を作り上げていく。自然の驚異や野生との共存といったテーマが描かれ、野性(採集・狩猟)から、文明(開墾・収穫)への歩みがストーリーのベースラインとなる。もちろん、狂気ルートへ逸脱する「蝿の王」や、テクノロジーの暴走が科学文明を築いてしまう「ふしぎの海のナディア(島編)」が成り立つのは、こうしたベース

    このロビンソンが面白い「フライデーあるいは太平洋の冥界」
  • 魂をつかみとられる読書「精霊たちの家」

    物語のチカラを、もういちど信じる。 小説の技巧に着目するようになってから、心底から楽しめなくなっていた。いや、面白いことは面白いよ――けれど、構成や人称や配置を目配りしながら『鑑賞』するようになって、ワクワク度が半減してた。時代背景や著者の生い立ちから近似を解釈するかのようなテクスト読みなのだ。美味しんぼ的なら、「ウム、このダシは利尻昆布を使っておる」なんてスカした野郎だな。 ヒョーロンカならいざ知らず、もったいない読み方をしていた。物語に一定の距離をおいて、自分を少しずつ曝しながら反応を確かめつつ、進める。過去の作品や現代の時評に連動させるところを拾ってはネタにする。まさに読書感想文のための読書、鼻もちならん。 それが、このラテンアメリカ文学の傑作のおかげで、気づかされた。驚異と幻想に満ちた物語に没入し、読む、読む。小説とは解剖される被験体ではないし、解体畜殺する誰かの過去物語でもない。

    魂をつかみとられる読書「精霊たちの家」
  • 怪物側の事情「サルガッソーの広い海」

    化学変化させる性質をもつ。併読すると劇薬の触媒と化す。 あるイギリス紳士と結婚したクレオールの女が「狂っていく」さまが緻密に描かれる。一読するとサイコ悲劇と写るが、この「狂った」女が自分の記憶とつながった瞬間、いいようのない戦慄に犯されるかもしれない。 ネタバレ系ではないので、まずこの小説の正体を明かそう。女の名は、バーサ・ロチェスター。英文学の最高傑作として挙げられる「ジェイン・エア」では怪物として扱われる彼女こそが、この小説の主人公となっている。 メロドラマを面白くするには悪役が必要だ。その対比のおかげで、ヒロインは気高く、賢明に映えることができる。代わりに悪役の方は、狂気と醜怪を一手に引き受け、ヒロインの幸福を破壊する存在となる。C.ブロンテは偏見の材料を西インド諸島に求めた。わかりやすい偏見の観念として、髪の毛や肌の色の「黒」が強調され、飲酒と狂気に陥ったとはいえ、人外として容赦な

    怪物側の事情「サルガッソーの広い海」
  • 現代的な神話「カッサンドラ」

    もしも願いがかなうなら、透明人間になりたいと思ったことがある。 吐息を白バラに変えるとか、ちゃちなやつはご免だね。誰にも見とがめられず、あの娘やこのコの××なところを覗きたい――と妄想をたくましくしていたのだが、透明人間はモノを見ることができないと知った。光を像として結ばせるため、目の裏側の「闇」が必要なのに、肉体が透明なので、そこに光が入ってくる→見えないというわけ。 カッサンドラの場合は、予知能力を欲した。アポローン神の恋人になる代償として、予言の力を授かったのだが、ギリギリになって神を振ったのだ。袖にされた神は怒って、カッサンドラの予言をだれも信じないようにした。 裸を見れない透明人間と、誰にも信じてもらえない予言者と、どちらが不幸か? そりゃ透明人間だろうと思うかもしれないが、どんなに警告しても、だれも信じてくれないんだよ? 「その木馬を入れてはいけない、トロイアが滅ぶぞー」といく

    現代的な神話「カッサンドラ」
  • カフカ「失踪者」でリアルな悪夢を

    理不尽とは、人の姿をしている。 となりの職場に、こんな人がいる。自分の話しかしない。雑談ではなく、仕事の話でだ。一方的に、徹底的に、自分の立場を主張し、相手には耳を貸さない。命令と依頼が仕事の全て。 もちろん論理的な説明などできず、エンドレステープのようにしゃべるだけ。自分の仕事にプラスになるときのみ反応し、後は一切、聞こえない・訊かない・反応しない。take-takeもしくは「ずっとオレのターン」な人。 まるで、立場が服を着て立っているようで、不気味だ。論理がなく、ルールがない。だから、彼に渡った仕事はすべて止まる。誰にもどこにもバトンタッチされず、ひたすら仕事は腐っていく。間違った相手に誤った依頼を繰り返し、忌避されていることに気がつかない。周囲は「ああ、あの人か」と苦笑するだけで、関わらない。 いや、もちろん狂っていないのだが、そういう人に相対するとき、どういう気分になるだろうか?話

    カフカ「失踪者」でリアルな悪夢を
  • 世界はつぶやきに満ちている「灯台へ」

    中毒性のある文にハマる。 ヴァージニア・ウルフは初読だが、こんなに魅力的な文だったとは。既知の形式ながら、ここまで徹底しているのは初体験。文の妙味は分かってるつもりだったが、小説でここまでできるとは知らなかった。わたしの精進の足りなさを自覚するとともに、小説の拡張性を具体例でもって味わうことができた。 まず、地の文と会話文の混交がいい。ほぼ全て、登場人物の心情の吐露と会話に埋め尽くされているのだが、明確に区切らないのが面白い。つまり、対話をカギカッコでくくったり、地の文に埋めたりするのだ。普通の小説でもこれはやるのだが、この作品ではより徹底している。つぶやきに埋め尽くされた小説世界に没入することができる。 おかげで読み手は、人物の思考と発話を選り分けながら読む進めることを余儀なくされ、よりその人に「近い」視点でその場にいることができる。「人物~作者~読み手」の真ん中が完全に姿を消しているの

    世界はつぶやきに満ちている「灯台へ」
  • 歴史を後ろからみる「名誉の戦場」

    もちろん、わたしが死ぬ可能性は100パーセント。だけど、病死か交通事故死しか想定していなかった。 そんなことを気づかされ、失笑する。徴兵され、戦場でたおれることだってあるのか?いいや、いまや全体戦場の時代だから、前時代的な「戦死」はありえない。むしろ遠くからやってきたミサイルに蒸化される可能性の方が高い。 時代も距離も遠い場所にある戦場をもってくるために、面白い「語り」をやってのけている。家族の歴史をやるんだ。語り手の「いま」から外れて、おばあちゃんや叔母さんの話を始める。「かつて」と「いま」とを行ったり来たりするリズムを、「波」に喩える評があるが、まさにそんな感覚。 この、家族を次々と紹介していき、家族史をさかのぼるところなんて、アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」を思い出す。アーヴィングにまけずおとらず、魅力的なエピソードが満載で、読み手はくすくす、にやり、爆笑したり、大変いそ

    歴史を後ろからみる「名誉の戦場」
  • この喪失感は、中年の特権なのかも「モンテ・フェルモの丘の家」

    家族喪失の物語、と読んだ。ありきたりな題材をじょうずに料理している。 すべて書簡形式――つまり、登場人物たちの手紙のやりとりを読む形で進行する。恋も、愛も、別離も、そして死も。ただし、よくある「二人の往復書簡」ではなく、男女入り乱れて8人のやりとりを読まされることになる。メールというよりもメッセンジャーをのぞいている感覚。 でもだいじょうぶ、主要なキャラクターは二人、中年男ジュゼッペと、彼と不倫してたルクレツィアのやりとりがメインだから。中年男はアメリカ移住し、女はイタリアの田舎暮らしにあきあきしている。それぞれの場所から、「昔はよかったね」と思い返しながら今の生活にとりくむ様子がやりとりされる。 そして、彼らを囲むように友達がいる。辛らつな言葉を交わしつつ親密な空気をかもしている仲間たち。その仲間うちで、誰かと誰かが惚れただの寝ただのといったエピソードが鼻につく。まるで大学のサークル内

    この喪失感は、中年の特権なのかも「モンテ・フェルモの丘の家」
  • ハタチの、バイブル「アデン、アラビア」

    やけどするようながある。 手に触れたところから、熱が、震えが侵入し、読み手のこころと化学反応を起こす。読む前から何が書いてあるのかわかり、それはまさしく自分のこと、自分が言いたいことなんだと驚愕しながらページをめくる。熱に浮かされたように読みきると、主人公と同じことをはじめる――すなわち、旅に出るのだ。 なんてね。 そういうにであうには、一種の技能と、それから若さが必要だ。目利きとしての腕はみがいているものの、わたしにとっては「若さ」が足りない。少なくとも二十年前でないと効果を及ぼさないだね。わたしの場合は「地上の糧」だった。ジッドを読んで発火したときを振り返りつつ「アデン」を読んだので、懐かしいような切なさにひたった。 いまどきの若者は何に発火するのだろうか?ケルアックじゃあるまいし、ライ麦?深夜特急?藤原新也?古いか。だが、この新訳があらたな火打石になるかもしれない。あまりにも有

    ハタチの、バイブル「アデン、アラビア」
  • ソレナンテ・エ・ロゲ?「アルトゥーロの島」

    楽園喪失メロドラマ。 このご時勢に世界文学全集、かなり評価していた。けれど、選に節操がないというかテキトーというか、かなりハテナ?なものが混じってる。「読書癖」の強い池澤夏樹氏ならではの発想なのか、哲学がないのか原則がないのか、よくわからん(わたしの蒙昧というオチもあり)。 書なんてまさにそう。古典文学から軸足を外し、主流たる英米仏とは力点をずらそうという「意図」はわかるんだが、なんじゃこりゃという作品だったのがこれ。現代イタリア文学を入れたいんならエーコかタブッキでいいじゃないかと言いたくなる。 中身はベッタベタの通俗小説。ナポリ湾の小島、美しい自然、母と死に別れ、野生的な生活を送る十四歳の少年。不在がちの父が連れてきた継母は十六歳の少女だった。性の目覚めと誘惑と抵抗と、そして、破局――どう見てもエロゲです、ありがとうございました(ただし、エロゲ的展開を期待してはいけない、これはブン

    ソレナンテ・エ・ロゲ?「アルトゥーロの島」