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岡潔に関するfunaki_naotoのブックマーク (31)

  • Research - 純粋日本人の数学

    最近,奈良へ行く機会があったので,岡潔のお墓によってみた。岡潔というのは伝説の数学者であり,多変数複素関数論の研究で人間業とは思えない仕事をした人である。1960年代には多くのを著したので[1] 年配の人は記憶にあるだろうが, 一般には知るひとは少ないかもしれない。しかし,ひとたびその数学に接すると人を魅了してやまないものがある。複素関数論のエッセンスは解析関数の定義にある。よく知られているように一変数複素関数に対しては解析接続の原理により関数の定義域を広げていくことができる。それに対し二変数以上の多変数の関数においてはその関数が正則であるような領域を勝手に決める事ができないのである。多変数複素関数論における正則な領域の問題は,一変数の複素関数とは全く様相が異なっている。この正則領域の問題は20世紀の初め頃に認識され出したが,あまりに難しいために岡潔のためにとっておかれたのである。 岡潔

  • 数学を志す人に

  • 日々のつれづれ |(岡潔先生を語る87)超俗の数学者から憂国の数学者へ

    『春宵十話』を第一エッセイ集と見て、昭和42年までに刊行された岡先生のエッセイ集は7冊を数えましたが、昭和43年には一気に三冊のエッセイ集が刊行されました。 『一葉舟(ひとはぶね)』(読売新聞社) 昭和43年3月30日発行 昭和41年(1966年)3月20日から、読売新聞の宗教欄で連載「仏教と科学」が始まりました。月に一度の連載で、翌昭和42年1月まで書き継がれて計11回に達しました。毎回の標題は下記の通りですが、これらは岡先生が御自分でつけたのではなく、読売新聞の記者がエッセイの文から鍵になりそうな言葉を拾ったのであろうと思われます。 「数学を解く英知 古来、東洋人は知っていた」 (3月20日) 「大数学者にも限界 ヨーロッパ人に教えたい思想」 (4月10日) 「数学に?不死の信念? 重要な仏教からの知識」 (5月15日) 「万物は心のすがた 「大円鏡智」の世界観」 (6月12日) 「

  • 「数学する人生」岡潔著 森田真生編|京都発 ミシマの「本よみ手帖」

  • 異才の数学者・岡潔、復刊ブーム 震災後に見直し機運:朝日新聞デジタル

    大阪市出身の数学者、岡潔(おかきよし、1901~78)が静かな人気だ。1963年に出版され、ベストセラーとなった随筆集「春宵十話(しゅんしょうじゅうわ)」を始め、著作の復刊が相次ぐ。今年2月には晩年の講義を収録したも発売され、まるで「岡潔ブーム」だ。 世界的難問とされた「多変数解析関数論」で高い業績を残した数学者として知られる岡は、大阪市東区島町(現在の中央区島町)で生まれた。京都帝国大を卒業してフランスに留学。帰国後、広島文理科大の助教授になった。研究の信条は「世間(金や名誉)を持ち込まない」。38年に助教授を退き、和歌山県紀見村(現在の橋市)に移住。農業のかたわら研究に没頭し、高い業績を上げた。 一貫して社会から距離をおいた岡だが、60年に文化勲章を受章すると、62年から毎日新聞で「春宵十話」の連載を始める。「人の中心は情緒である」と説き、心を失い、経済発展に猛進する日社会を鋭く

    異才の数学者・岡潔、復刊ブーム 震災後に見直し機運:朝日新聞デジタル
  • 数学者 岡潔思想研究会

    会の設立はソ連が崩壊し、日ではバブルが崩壊した1992年。 それより25年程前の1968年に、私、横山は、高知で岡 潔の講演を聞いたのがきっかけで岡の著書を読みはじめる。1974年には、岡潔に奈良の自宅で対面し、生涯の指針となる「実践」という言葉ひとつを岡よりもらう。 その後、だいぶ経って1988年、夜眠りから突然醒め『よし、岡家へ行こう!』と思い立ち、直ぐに岡亡きあとの岡家を訪ねる。すると、「岡潔は今では全く忘れ去られた存在だ」と長男の煕哉さんにいわれると共に、多くの晩年未発表の資料が残されていることがわかる。その後、何度も岡家に通い、その資料群のコピーを土佐に持ち帰る。 1992年、それまで勤めていた農協を意を決して辞め、「岡潔 思想研究会」を設立する。 その後、岡潔の晩年の思想の全体像の解明に心血を注ぎ、人類の先覚者(せんかくしゃ)たる岡潔の思想を全国に訴え、敢えて手紙や葉書による

    数学者 岡潔思想研究会
  • 岡潔、森田真生/編 『数学する人生』 | 新潮社

  • 『数学する身体』僕が身体で感じていたことは、嘘でも無駄でも無かったんだ - HONZ

    発売されるやいなや大きな反響を呼んでいる、『数学する身体』。お待ちかねの客員レビュー第三弾は、はてな株式会社の近藤淳也さんが登場。「数学は情緒だ」という独立研究者・森田真生の言葉を聞いた時、近藤さんが直感的に感じたものとは何だったのか? (HONZ編集部) ※客員レビュー第一弾、第二弾 森田くんが初めて書いた。「数学する身体」。 わざわざ「を届けたいので」と、会社の近くまで足を運んでくれて、ランチを共にしながら渡してくれた。 構想ができてから書き上げるのに4年かかったという。 もともと、文章を書くときにはとんでもなく集中して、丁寧に言葉を積み上げて、何度も何度も読んで味わえるような、スルメみたいな精緻な文章を書く森田くんが、初めて1冊のを書いた、という。 もうそれだけで、読む前から、これはすごいだ、ということは分かっていた。 すごいというのは、とにかく、中身云々の前に、通常で

    『数学する身体』僕が身体で感じていたことは、嘘でも無駄でも無かったんだ - HONZ
  • 『数学する身体』数学という都市、路地裏の情緒 - HONZ

    数学する身体』客員レビューとして登場した第一の刺客は、速やかにミッションをコンプリートし、公開翌日に重版が決定した。つづく第二の刺客は、デザインを始め様々な分野で活躍する小石 祐介氏。森田氏とは大学時代の同窓という間柄でもある小石氏は、森田真生の人となりから書を読み解く。好評につき、第三弾も計画中!(HONZ編集部) 老人はあらゆる事を信じる。中年はあらゆる事を疑う。青年はあらゆる事を知っている。 オスカー・ワイルド 人生には奇妙な出来事がよく起こる。味わい豊かな偶然が生む機微を、優れた小説家はまるでそれが連続的な必然に導かれたかのように描く。ポール・オースターならばそれを『偶然の音楽』と言うだろうか。数学の世界も非自明な偶然に支えられているらしい。一見脈絡のない世界や概念が、「何か」をきっかけとして結びつき、想像をしていなかった新しい描像が立ち上がる。書の言葉を借りれば、偶然とも必

    『数学する身体』数学という都市、路地裏の情緒 - HONZ
  • |数学の贈り物|みんなのミシマガジン

    正月になると子供の頃、 初笑い、初転び、初くしゃみ、初電話...... なんでもかんでも「初めて」と言って、それだけで盛り上がった。 初夢、初詣だけでなく、外に出たら、初石、初鳥、初青空。 見るものすべてが新しく、まるで生まれ変わったみたいに、子供ながらに清々しい気持ちになった。 元正啓祚、万物咸新(がんしょうけいそ、ばんぶつかんしん)。 正月が幸いを啓き、万物ことごとくその面目を一新する。 それは、少年時代の正月の素直な実感だった。 ところが中学生くらいになると、賢しらに「なんで正月ばかり」と疑うようになった。 正月かそうでないかは人がつくった暦の都合だ。それを殊更めでたいのめでたくないのと言って何になるものかと、利口ぶってみた。 今日の石も鳥も青空も、昨日のそれと同じじゃないか。「幸いを啓く」のも「万物を新たにする」のも、所詮は人の心の働きだ。そう思った当時の僕は、昨日の石と今

  • 番外編 "リアル"贈り物|みんなの『みんなのミシマガジン』|みんなのミシマガジン

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2014/07/03
    「一人の人生を丸ごと一つ知るためには、一人の人生が丸ごと一つかかります」
  • 番外編 "リアル"贈り物|数学の贈り物|みんなのミシマガジン

  • 松岡正剛の千夜千冊

    先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。 ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。 それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、

    松岡正剛の千夜千冊
  • 森田真生さん、大自然で実感した「数学は情緒の表現」という思想 (産経新聞) - Yahoo!ニュース

    【新・関西笑談】独立研究者・森田真生さん −−数学者の岡潔が研究に没頭した和歌山県紀見村(現橋市)を訪ねていますね 森田 岡は「数学は情緒の表現だ」と言っていますが、情緒はこの環境で育まれたんだなと実感しました。大阪から和歌山に入る紀見峠の高台に立つと、正面の遠くに高野山を見晴らすことができる。山並みや虫の鳴く声、すばらしい景色、環境に囲まれています。岡は「計算も論理もない数学をしたい」といって周囲を驚かせたのですが、この山中でまさに計算も論理も超越した数学の喜びに浸っていたのかもしれません。 −−岡が言う情緒とは何なのでしょうか 森田 岡は「自然数の1が何であるか数学は何も知らない」と著書で繰り返し書いています。数学の始まりの数である「1」が何であるのかは議論しなくても、脳の中でありありと分かる。逆に「1は何か」を数学的には定義できないし、「1」を説明しようとするあらゆる試みは

    森田真生さん、大自然で実感した「数学は情緒の表現」という思想 (産経新聞) - Yahoo!ニュース
  • suisyouu.com - suisyouu リソースおよび情報

  • 視ることについて、2冊 - りゅういちの心象風景現像所

    人と待ち合わせしていたのだけど「すみません、1時間、遅れます」という連絡が入りました。「分かりました、待っています」と近所の喫茶店に待ち合わせ場所を変更して、小さな書店で目に入った小林秀雄×岡潔の対談「人間の建設」を買い求めました。待ち合わせの喫茶店にすべりこんでコーヒーを飲みながら読んでいたのですが、読みながらうなってしまいました。面白いのです。 だいぶ急いで下さったようで、約束の方は思っていたよりも早くご到着になり、読書は一時中断。その場で読み切ることはできませんでした。お話のあいだ、正直このの続きを読みたくて仕方なかったのですが、1時間の遅れがなければこのは手にしていないわけで。順序というのはなにごとにもあるものです。 この対談が実現したのは1965年、なので小林秀雄が「居宣長」を執筆中のころに重なります。 1977年に出版されている「居宣長」だけど長く続く孤独な執筆の途上で

    視ることについて、2冊 - りゅういちの心象風景現像所
  • 高瀬正仁「岡潔 数学の詩人」

    佳代とナジャのリヒテンシュタイン姉妹(ペルソナ)による対話ブログ。話題はシュルレアリスムからアニ横まで。Il est l'heure de s'enivrer! 「小林秀雄と岡潔の対談を読み終えてから、なんとなく岡潔が幾度となく口にした情緒って言葉が頭を離れなかった。そんな折、ふと立ち寄った屋で岡潔の生涯を簡潔にまとめた書を見つけたので、興味の赴くまま一読してみると、その苛烈な人生の足跡に少し慄然するものを覚えると同時に、私は、やっぱり岡先生はそういう人だったんだって、どこか自分の予想が当ったみたいな、ある安堵も同時に感じていた。というのは、岡潔という人は、小林秀雄と向いあい語りつづけるその様子から察しても、まちがいなくある天才であることは明らかなように私には思えたから。言葉を変えていえば、岡潔は、だれがどう見ても疑いをいれないほどに、典型的に天才といっていいような人物に、私には思えた

  • 数学者:岡潔文庫

    奈良女子大学附属図書館は、学名誉教授・故岡潔博士の自筆遺稿の寄贈を受けたことを機に、 オリジナルの収録・整備のほか、多変数解析函数の研究を中心とする岡潔博士関係の資料データベースを作成し、 インターネット上に公開することになりました。 文庫として収録している自筆遺稿の目録と、そのうちの一部の画像。 さらに、公表および未公表のフランス語論文とその日語訳についても、画像やTeXなどのかたちで提供しています。 お願い *ブラウザによっては英字特殊文字が表示されないことがありますことをご了承下さい。 * このページ配下のものを、無断で転載・転用することを禁じます。 * 資料の現物を閲覧利用することはできませんのでご了承ください。 ________________________________________________________________________ 奈良女子大学学術情報

  • 日々のつれづれ |新しい数学史を求めて(116) 情緒の数学史(56) 「抽象的な数学」をめぐって

    岡先生の語る「情緒の数学」を理解するうえで、もうひとつの重要な問題があります。それは「数学の抽象化とは何か」という問題です。岡先生は、最近の数学は抽象的になったという考えを早くから抱いていたようで、一例として『春宵十話』の第七話「宗教と数学」を参照すると、こんな言葉が目に留まります。 《数学の世界で第二次世界大戦の五、六年前から出てきた傾向は「抽象化」で、内容の細かい点は抜く代わりに一般性を持つのが喜ばれた。それは戦後されに著しくなっている。風景でいえば冬の野の感じで、からっとしており、雪も降り風も吹く。こういうところもいいが、人の住めるところではない。》 小林秀雄は岡先生の『春宵十話』が毎日新聞に連載された当時から注目していたようで、まだ単行になる前のことですが、昭和37年11月3日付の朝日新聞のPR版に「季」というタイトルのエッセイを寄せて読後感を語りました。このエッセイは対話「人間

  • 日々のつれづれ |岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(139) 一枚のはがきの行方

    岡先生と小林秀雄との対談のきっかけを作ったのが夜久先生だったとは実に思いがけないことで、8年におよぶフィールドワークの中でも屈指の発見と言わなければなりません。おそらく小林秀雄が新潮社にもちかけて実現したのだろうと、夜久先生は推測するのですが、これでまちがいないとぼくも思います。小林秀雄にとってもはじめての対談でした。夜久先生は、小林秀雄からいただいたはがきは紛失したと言われたのですが、後日、国文研の学生寮「正大寮」の書棚で見つかりました。その書棚というのが、実は夜久先生が寄贈したを並べた棚で、そのうちの一冊にはさんであったのでした。 岡先生と小林秀雄の対談は京都で行われたのですが、ちょうど大文字焼きの日のことで、対談の場所に設定された料亭から山焼きの様子がよく見えました。対談のはじまりはこの山焼きで、岡先生は、山を焼くとは何だ、と小林秀雄にくってかかったなどどうわさされちますが、小林秀