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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog (23)

  • 古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。 官文娜「日古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」 (『国際日文化研究センター紀要』28号、2004年1月) です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。 官氏は、冒頭で「日古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。 中国

    古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 『日本書紀』における仏教漢文の語法が示す重要事実:森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」(1) - 聖徳太子研究の最前線

    久しぶりの森博達さんの力作の論考です。定年退職後、日語と系統が近いトルコ語の勉強を始め、一昨年と昨年は、イスタンブールのトルコ語の学校に2ヶ月つづ通われた由。 凄いですね。私は、退職後はベトナム語の学校に通う予定でしたが、コロナ禍でのびのびになったままです。たくさん抱えている仕事を一段落させて、来年あたりから通ってしっかり学び、2010年に不出来なまま出してしまったベトナム仏教史の概説を書き直したいものですが。 さて、その森さんが、『日書紀』に見える仏教漢文の語法に関する画期的な論文を発表されました(有難うございます)。森さんには、2012年から4年間、私が代表となり、科研費研究「古代東アジア諸国の仏教系変格漢文に関する基礎的研究」にご瀬間さんとともに参加いただきました。 日からは森博達・金文京・瀬間正之・奥野光賢・師茂樹、中国からは董志翹・馬 駿、韓国からは鄭在永・崔鈆植などの諸先

    『日本書紀』における仏教漢文の語法が示す重要事実:森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」(1) - 聖徳太子研究の最前線
  • 「津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち」のブログ記事一覧-聖徳太子研究の最前線

    7月9日に早稲田大学で開催される聖徳太子シンポジウム(こちら)では、太子の事績を疑った津田左右吉の誤りと慧眼について語る予定です。 それはともかく、津田左右吉を不敬罪で告発した連中については、論文を何か書きましたが(最初の論文は、こちら)、考えてみたら、私が監修した論文集でも、売れっ子の中島岳志さんがこの問題を論じており、紹介していないままでした。 中島岳志「『原理日』と聖徳太子ー井上右近・黒上正一郎・蓑田胸喜を中心としてー」 (石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日主義』、法藏館、2020年) です。 中島さんは、『親鸞と日主義』(新潮社、2017年)で、親鸞崇拝の超国家主義者が登場したのは、親鸞の思想自体にそうした主張を生み出す余地があったからだと論じて衝撃を与えました。その影響は極めて大きく、上記の論文集のうちの多くの論文が、このに触れています。新たな視点

    「津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち」のブログ記事一覧-聖徳太子研究の最前線
  • 講義録「近代の聖徳太子信仰と国家主義」刊行 - 聖徳太子研究の最前線

    昨秋、真宗大谷派の九州教学研究所でおこなった講義が刊行されました。 石井公成「近代の聖徳太子信仰と国家主義」 (『衆會』第28号、2023年6月) 10月19日と20日の2日にわたって講義した内容に手を入れたものですので、95頁もあります。奥付は6月30日刊行となっていますが、雑誌が届いたのは 日です。 この講義では、まず、日における仏教と神、仏教と国家主義の関係について概説しました。そのうえで、「憲法十七条」が「神」にも儒教の「孝」にも触れておらず、仏教のみ重視していることへの非難に対する弁解として、聖徳太子は儒教・仏教・神道を等しく尊重するよう命じて『五憲法』を作ったとされたことを紹介しました。 太子が編纂したという触れ込みで17世紀後半に登場した偽史、『大成経』のうちの「憲法紀」という形で偽作され、『大成経』に先駆けて個別に出版されたのです。偽作者やその信奉者たちが、いかに太子

    講義録「近代の聖徳太子信仰と国家主義」刊行 - 聖徳太子研究の最前線
  • 新コーナー「国家主義的な日本礼賛者による強引な聖徳太子論」を始めます - 聖徳太子研究の最前線

    「聖徳太子はいなかった」説は撃破されましたが、珍説奇説は以後もあとを絶ちません。また、戦前から戦中にかけて盛んだった国家主義的な聖徳太子礼賛は、今も根強く残っています。このため、「いなかった」説が消えると、今度は国家主義に基づく強引な聖徳太子論が流行する可能性があります。 少し前に紹介した田中英道氏のもその一つですが(こちら)、あのような妄想だらけのトンデモと違い、生真面目に聖徳太子に取り組み、我が国体を守った偉大な英雄として賞賛しようとする人たちがいます。 この系統の人たちの中には、日会議や自民党の右派や神社庁などと結び着いて政治運動としての太子礼賛をやるタイプも見られますが、問題はその太子解釈が史実を無視していることであり、自らの国家主義を太子の事績に読み込もうとしがちなことです。 そうした人が日を危険な方向に持っていきがちであることは、津田左右吉が強く警告したことであり(こ

    新コーナー「国家主義的な日本礼賛者による強引な聖徳太子論」を始めます - 聖徳太子研究の最前線
  • 三経義疏の「義疏」は「注」とどう違うのか:王孫涵之「義疏概念の形成と確立」 - 聖徳太子研究の最前線

    『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』から成る三経義疏については、熱烈な太子信奉者であった花山信勝、金治勇、望月一憲などの研究者が亡くなって以後は、論文が少なくなってしまいました。理解を深めるためには、中国韓国の『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈、特に活字化が進んでいない敦煌写中の古い注釈との詳細な比較が必要であるため、若手がそうした研究に取り組んでくれることを期待しています。 さて、三経義疏はそれぞれ「~義疏」という題名が付けられているわけですが、実は、経典の注釈を「義疏」と称することは、六朝時代の初期から始まっていますが、仏教経典の注釈で現存するのは、数少ない例外である唐代の慧沼の『十一面観音経義疏』や宋代の元照(1048-1116)の『阿弥陀経義疏』などを除けば、六朝後半から初唐あたりの時期に限られており、それほど多くはありません そこで、今回は「義疏」という注釈の形がいかに

    三経義疏の「義疏」は「注」とどう違うのか:王孫涵之「義疏概念の形成と確立」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:阿部泰郎「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考」 - 聖徳太子研究の最前線

    聖徳太子シンポジウムでの2番目の発表です。 阿部泰郎「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考」 (『多元文化』第12号、2023年2月) 阿部さんは中世の宗教文献と関連する毎柄について幅広く研究してきました。その中心となるのが、聖徳太子信仰の研究であって、これについては、以前、このブログで一例を紹介したことがあります(こちら)。 その阿部さんが、名古屋大学に創設された人類文化遺産テキスト学研究センターで精力的に推し進めてきたのは、中核となる宗教テキストをめぐって、関連する注釈・伝記その他、「間宗教テキスト」と阿部さんが称するテキストが繁茂し、儀礼がなされ、絵や像が造られ、それらの相互作用の総体がさらに次の段階を生む場となる宗教空間の生成と展開の運動を明らかにするための共同研究です。(その重要メンバーであった近謙介氏が、先日、パリで急逝されたのは残念なことでした)。 そうした宗教空間・宗教テキス

    早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:阿部泰郎「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 天皇は唯一絶対の尊称ではないうえ、長期間にわたって使われず:新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」 - 聖徳太子研究の最前線

    早稲田開催の聖徳太子シンポジウムでの発表資料では、新川登亀男『聖徳太子の歴史学』(講談社、2007年)をあげておきました。新川氏とは、意見が合わない点がいくつかあるのですが、このは有益であってお勧めです。 その新川氏が、まさにこののような視点で天皇号について検討した最近の論文が、 新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」(『日史攷究』(44号、2020年12月) です。 新川氏は、天皇号は実際には2度つくられており、2度目は江戸末期からの近現代だと説きます。というのは、天皇号は古代に出現したものの、平安時代以来、「~院」という呼び方がなされており、1840年11月に亡くなった兼仁上皇に対して「光格天皇」が贈られるまで、長らく使用されていなかったからです。 その証拠に、1603年に編、翌年に補遺篇が出されたイエズス会の『日葡辞書』には「テンノウ」という項目がなく、あるのは「ミカド(帝)

    天皇は唯一絶対の尊称ではないうえ、長期間にわたって使われず:新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 「道教と古代日本文化」ブームの聖徳太子論の誤り: 間違いを放置して良いか - 聖徳太子研究の最前線

    拙論「聖徳太子伝承中のいわゆる『道教的』要素」(『東方宗教』115号、2010年5月)は、「いわゆる」という語が示しているように、「道教的だと称している人たちもいるが、実際には違う」ということを明らかにしようと試みたものです。昨年の日道教学会の学術大会で発表した内容に少々訂正を加えました。趣旨は変わっていません。 発表では、「徳」の下に「仁・礼・信・義・智」の形で五常を配する冠位十二階の特異な順序は、六朝時代に成立した道教経典、『太霄琅書』に基づくとする福永光司先生の論文、「聖徳太子の冠位十二階--徳と仁・礼・信・義・智の序列について--」(福永『道教と日文化』、人文書院、1982年)を取り上げて批判しました。『太霄琅書』から自説に都合の良い箇所だけを切り貼りしており、しかも、原文のうち三箇所も省略しておりながら、「……」や(中略)などによってそれを示していないことを指摘したのです。「

    「道教と古代日本文化」ブームの聖徳太子論の誤り: 間違いを放置して良いか - 聖徳太子研究の最前線
  • 聖徳太子という呼称を最初に用いたのは誰か、「厩戸王」と呼ぶのはなぜまずいのか - 聖徳太子研究の最前線

    「聖徳太子 最近の説」と入力してあれこれ検索していたら、ヒットしたうちの一つが、 宮﨑健司「″和国の教主″としての聖徳太子」 (真宗大谷派教学研究所編『ともしび』第817号、2020年11月) でした。PDFで読めます(こちら)。 宮﨑氏は真宗大谷派の大学である大谷大学の教授であって、古代の写経について綿密な研究をされている研究者です。この文章は、2020年1月の東願寺日曜講演をまとめたものである由。ですから、最近の聖徳太子論の一つですね。 宮﨑氏の所属と講演の性格上、当然のことながら、熱烈な聖徳太子信者であった親鸞が読んで影響を受けた聖徳太子伝、つまりは『聖徳太子伝暦』と盛んに作られたその注釈の話を中心としつつ、聖徳太子研究の現状について簡単に紹介しています。 宮﨑氏は、聖徳太子という呼称については、751年の『懐風藻』に見えるため、「八世紀なかばを上限として成立したといえるかと思いま

    聖徳太子という呼称を最初に用いたのは誰か、「厩戸王」と呼ぶのはなぜまずいのか - 聖徳太子研究の最前線
  • 研究成果を学ばず、参考にした文献も表示しない粗雑な思いつき本:井沢元彦『聖徳太子のひみつ』 - 聖徳太子研究の最前線

    「時空を越えた極上の歴史エンターテインメント!」と謳っているものの、勉強不足で思いつきばかりが目立つ粗雑な聖徳太子が刊行されました。 井沢元彦『聖徳太子のひみつ』 (ビジネス社、2021年12月) です。表紙では、題名の横に「「日教」をつくった」と記されています。 井沢氏は、研究者の研究を軽んじて空想をくりひろげた梅原猛路線を受け継ぎ、問題の多い歴史を数多く出していることで有名です。今回のもその一つですが、そもそも副題のような「「日教」をつくった」という部分が問題です。 「日教」という言葉を書物の題名にして有名にしたのは、イザヤ・ベンダサン著・山七平訳という形で『日人とユダヤ人』を、山氏が社主をつとめる山書店から1970年に刊行してベストセラーとなり、続く『日教について』(文藝春秋、1972年)でも大いに話題を呼んだ山七平氏です。 山氏は、1977年には『「空気」

    研究成果を学ばず、参考にした文献も表示しない粗雑な思いつき本:井沢元彦『聖徳太子のひみつ』 - 聖徳太子研究の最前線
  • 『日本書紀』は4群が独立して述作され、複数の原撰史書を整理統合して成立:葛西太一『日本書紀段階編修論』 - 聖徳太子研究の最前線

    前の記事では、戒律に関する『日書紀』の記述の仕方をとりあげました。『日書紀』に基づいて何かを主張するには、『日書紀』の記述の仕方に注意したうえで述べないと危ないのです。 これは全体の編纂についても当てはまります。聖徳太子虚構論を唱えた大山誠一氏の著書・論文で重要なのは、遠山美都男氏が指摘したように、『日書紀』の個々の「厩戸皇子」関連記述の真偽を個別に検討するのではなく、『日書紀』全体は「厩戸皇子」をどのように描こうとしているかに着目し、それを明らかにしようとした点でした。これ自体は有意義な試みであったのに、結論が陰謀論になってしまったのが惜しまれます。 『日書紀』の記述の仕方に注意するには、どのように編集されたのかを明らかにしなければなりません。その際、基礎となるのは、筆者の違いなどによる巻ごとの特色によって成立過程を解明しようとする区分論です。 この区分論を画期的に進めたのは

    『日本書紀』は4群が独立して述作され、複数の原撰史書を整理統合して成立:葛西太一『日本書紀段階編修論』 - 聖徳太子研究の最前線
  • 三経義疏を N-gram分析してみれば共通性と和習と学風の古さは一目瞭然 - 聖徳太子研究の最前線

    先日、勤務先で教員向けに N-gramを用いたコンピュータ処理による古典研究法の講習をし、例として三経義疏の分析をやってみました。文系のパソコンおたく仲間である漢字文献情報処理研究会のメンバーたちで開発したこのNGSM(N-Gram based System for Multiple document comparison and analysis)という比較分析法に関しては、2002年に東京大学東洋文化研究所の『明日の東洋学』No.8 に簡単な概説(こちら)を載せ、その威力を強調してあります。それ以来、宣伝し続けてきたのですが、文系の研究者には処理が複雑すぎたため、まったく広まりませんでした。 ところが、一昨年の暮に、上記の主要な開発メンバーであった師茂樹さんが、私の要望に応えてきわめて簡単で高速な形に改善してくれました。その結果、大学院の私の演習に出ている院生たちは、1回講習したらほと

    三経義疏を N-gram分析してみれば共通性と和習と学風の古さは一目瞭然 - 聖徳太子研究の最前線
  • 厩戸での誕生はキリスト教の影響と見る説の背景(1):平塚徹「日本ではイエスが馬小屋で生まれたとされているのはなぜか」 - 聖徳太子研究の最前線

    聖徳太子が厩戸のところで生まれたという伝承は、イエス・キリストが馬小屋で生まれたことと似ているとして、唐に入ってきていた景教(ネストリウス派のキリスト教)の影響だとする説があります。久米邦武が明治38年(1905)に『上宮太子実録』で説いたのが最初ですね。 この問題については、聖徳太子は架空の存在とする大山誠一説なみに粗雑で間違いが多い田中英道氏の太子礼賛について批判した記事で触れました(こちら)。その際、キリスト教影響説を否定するなら、平塚徹氏がネットで「イエスは馬小屋で生まれたのではない」と説いていることを証拠とした方が良いのではないかと読者が指摘してくれたのですが、その平塚氏のネット上の文章が詳細な論文となりました。 平塚徹「日ではイエスが馬小屋で生まれたとされているのはなぜか」 (『京都産業大学論集:人文科学系列』51号、2018年3月、こちら) です。 言語学者である平塚氏は

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  • 梅原猛の珍説(2):救世観音の頭に打ち込まれた呪いの釘 - 聖徳太子研究の最前線

    梅原猛氏は、妄想を「直感」と呼ぶという発明をし、その「直感」に基づく記述で満たした『隠された十字架』をベストセラーにすることによって、古代史については空想に基づく大胆な説を大げさに書いても良いのだとする風潮を作りだしました。梅原氏のもう一つの発明は、事実の間違いを指摘されても、自分の説に対する質的な反論になっていないと言い張って推し通すという手法です。この手法の後継者が、自分の太子虚構説に関する学問的な反論は一切ないと断言し続けている大山誠一氏です。 文献や先行研究を重視せず、思いつきで書く梅原氏の姿勢を厳しく批判した一人が、古代史学者の直木孝次郞氏(1919-2019)でした。直木氏は、『わたしの法隆寺』(塙書房、1979年)、『法隆寺の里』(旺文社文庫、1984年)などで梅原説を批判したのち、「法隆寺は怨霊の寺か-梅原猛氏『隠された十字架』批判-」(歴史教育者協議会編『危険な日史像

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  • 梅原猛の珍説(1):太子の怨霊である「蘇莫者」は「蘇我の莫(な)き者」 - 聖徳太子研究の最前線

    「いなかった説」の前に聖徳太子に関して大きな議論を巻き起こしたのは、梅原猛の「法隆寺=聖徳太子の怨霊鎮めの寺」説でした。周知のように、梅原は西洋哲学の研究者であって、次第に仏教に関する関心を深めていった学者です。 雑誌『すばる』に連載され、昭和47年(1972)に新潮社から刊行された梅原の『隠された十字架』は、湯川秀樹などに斬新さを賞賛されたこともあって大変な話題となり、毎日出版文化賞を受賞するに至りました。 こうした評価の結果、専門家でなくても古代史に関して大胆な説を出して良いのだ、いや専門家は伝統説にとらわれすぎているため非専門家が新たな視点を提示すべきなんだ、という雰囲気が広まったように思われます。代表的な太子研究家であった日史学の重鎮、坂太郎が「法隆寺怨霊寺説について」(『日歴史』第300号、1973年)を発表して批判し、梅原のは読み物としてはきわめて面白いものの、文献の性

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  • 天皇の語が用いられた時代と背景:関根淳「天皇号成立の研究史」 - 聖徳太子研究の最前線

    聖徳太子関連の資料は真偽論争があるものばかりですが、論点の一つは「天皇」という語です。 法隆寺金堂の薬師三尊像銘は推古天皇を指して「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」と呼び、「天寿国繍帳」は欽明天皇を「斯帰斯麻宮治天下天皇」「斯帰斯麻天皇」、推古天皇を「畏天皇」「天皇」と呼んでおり、『日書紀』推古16年に小野妹子を隋に派遣した際の国書とされるものの冒頭には「東天皇敬白西皇帝」の句が見えます。これらについては盛んな論争がなされ、野中寺弥勒菩薩像銘に見える「中宮天皇」の語についても議論がありました。 これらの資料が真作であれば、天皇号はその時期から用いられていたことになり、逆に、天皇号がこの時期に用いられていれば、その資料を偽作とする証拠が一つ減ることになります。かつては天皇号をめぐる論争が盛んであって、これらの資料の真偽がしきりに論じられていましたが、最近は新たな資料の発見などがないせ

    天皇の語が用いられた時代と背景:関根淳「天皇号成立の研究史」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 指導要領改定案の問題点:「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、「うまやどのおう」も不適切【訂正・追加】 - 聖徳太子研究の最前線

    2月14日に小学校や中学校などの指導要領の改定案が公表され、新聞などでも報道されました。その歴史教科書の改定案を見てみました。文部科学省は、パブリックコメントを受け付けるとのことですので、出しておく予定です。 報道によれば、文科省の説明としては、聖徳太子という名は没後になって使われるようになったため、歴史学で一般的に用いられている「厩戸王(うまやどのおう)」との併記の形とし、人物に親しむ段階である小学校では「聖徳太子(厩戸王<うまやどのおう>)」、史実を学ぶ中学では「厩戸王<うまやどのおう>(聖徳太子)」とする由。 これは奇妙な話ですね。後代の呼び方はいけないのであれば、天皇の漢字諡號は奈良時代になって定められたのですから、欽明天皇も推古天皇も天智天皇も天武天皇も使えないことになります。さらに重要なのは、奈良時代から用いられて定着した漢字諡號と違い、「厩戸王」という言葉は、使われた証拠がま

    指導要領改定案の問題点:「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、「うまやどのおう」も不適切【訂正・追加】 - 聖徳太子研究の最前線
  • 三経義疏中国撰述説は終わり(続) - 聖徳太子研究の最前線

    昨日書いたように、藤枝先生の三経義疏中国撰述説は成り立ちません。ただ、藤枝先生、および藤枝先生が主催した敦煌写研究班の功績はきわめて大きなものです。 その第一は、それまで一釣りの「宝探し」のようなやり方でなされてきた敦煌写研究を改め、『勝鬘経』の注釈断片すべてを精査し比較することにより、写の紙質・様式・書体・注釈形式などの歴史的変化を明らかにし、写やその断片の年代判定を行なう方法を確立したこと。第二は、それらの諸写と現存する諸注釈を比較することにより、注釈というものがどれほど先行する注釈に依存しつつ書かれていくかを明らかにしたこと。第三は、鳩摩羅什の時代と天台宗・三論宗・地論宗などの大物が活動した隋代の中間の期間を埋める諸文献を敦煌文書の中に見いだし、思想の展開を追うことを可能にしたこと。そして、第四は、『勝鬘経義疏』と七~八割、内容が一致する注釈を発見して校訂テキストを作成し

    三経義疏中国撰述説は終わり(続) - 聖徳太子研究の最前線
  • 藤枝晃先生のもう一つの勇み足 - 聖徳太子研究の最前線

    『勝鬘経義疏』と内容が7割ほども一致する敦煌文書の発見が衝撃的であったためか、現在も藤枝晃先生による『勝鬘経義疏』中国撰述説を支持する人が多いようですが、中国撰述説は藤枝先生の勇み足というべきものであり、変則漢文の多さから見て中国撰述ではありないことは、拙論とこのブログで書いた通りです。また、この問題をさらに詳しく論じた拙論「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」も12月頃に刊行される予定です。 藤枝先生については、勇み足とでも言うべきものがもう一つあり、最近訂正されつつありますので、紹介しておきます。それは、李盛鐸旧蔵書問題を含めた敦煌文書の贋作問題です。 敦煌文書は、スタイン、ペリオその他の探検家たちによって多くが海外に持ち出されてしまい、政府が慌てて残りを北京に送るよう指示したものの、その途中で、また敦煌文書が北京に着いてからも、中国人官吏によってかなりの量が抜き取られたことが知られて

    藤枝晃先生のもう一つの勇み足 - 聖徳太子研究の最前線