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ブックマーク / naonao777.hatenadiary.org (14)

  • 台湾と日本 - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    春先の放送されたNHK制作「NHKスペシャル/シリーズ・JAPANデビュー」第一回「アジアの“一等国”」の問題は、ご存知の方も多いかと思う。ご存知ない方は、以下のリンクなどを参照ください。「NHK アジア 一等国 台湾」などでググれば、いろんな記事にたどりつけます。 http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200904090001/ 個人的には、NHKが中国共産党の言いなりになっている、情報操作だ、などというのは幼児的な妄言(と言って悪ければ被害妄想)だと思っているんだけど、それがどこまで操作的なものかどうかということは疑問だ。 つまり、NHKの放送が、プチ右翼の皆さんが言うように“反日的”“自虐的”であるかどうか、ということと、NHKが意図的な情報操作を行おうとしているのかどうか、さらにいえば、その情報操作が国家的な圧力によるものなのか

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  • 国家に対する万全の信頼感 - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    最近、ミクシィにやや飽きてきたこともあって、こちらでもちょくちょく日記を書いていこうと思います。 卓球のこと、身体のこと、いろいろありますので、少しずつ。 ● テレビで、凶悪事件の時効制度見直しについての話題が取り上げられていた。 未青年の凶悪犯罪への厳罰化の議論でも同じだけど、僕はいつも、こういった論調には躊躇してしまう。 それはたぶん、そういった論調が「国家に対する万全の信頼感」に基づいているからだ。 変なことを言うな、と怒られそうだ。 年金問題をはじめとして、国家に対する信頼感は地に落ちているではないか、と。 しかし、国家がまるで信頼に値しないものだと気で思う人が、 凶悪犯罪の厳罰化や時効制度の見直しを望むだろうか? 信頼できない国家権力による「厳罰」や、エンドポイントのない捜査ほど、おそろしいものはないんじゃないか、と思うのだ。 法の歴史には明るくないけれど、 少なくとも法とは、

    国家に対する万全の信頼感 - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/05/21
    「信頼できない国家権力による「厳罰」や、エンドポイントのない捜査ほど、おそろしいものはないんじゃないか」
  • 堂々と失敗すること - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    (6/27 mixi日記より転載) 堂々と、確信をもって失敗する、ということが大切だ。失敗を恐れる心がさらなる失敗を呼び寄せるということもあるが、とりあえず間に合わせのごまかしの塗り重ねで成功してしまうことのまずさについて、大人はもっと口にすべきだと思う。 勝ち組、負け組なる言葉が幅を利かせるような風潮が背景にあるのかもしれないが、とにかく勝てば官軍、負ければ地獄。まるでプロセスが問われない。この風潮は、確実に芸ごとの質を低めてしまう。 とはいえ僕は何も勝ち負けを問うなというつもりはない。道徳の話をしたいわけではない。僕がいましているのは、単に人の成長の話なのだ。 何かをしたいと思って、それができたり、できなかったりすることがある。それを成功・失敗と呼ぶこともあれば、勝ち負けと呼ぶこともあるが、いずれにしても、できないことができるようになる、ということがあり、やりたいと思ったのに結果、でき

    堂々と失敗すること - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/06/27
    「それをどう乗り越えて行くか。あるいは、どう向き合い、どこまで考え続けることができるかが、その人の成長そのものなのだ」
  • 荻村伊智朗と中井亀次郎 - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    旧題:「壁打ち」と「樽ころがし」の効用について さて、3日まえ、hossyくんやモツくんと池袋で飲んだときに気付いたネタです。 ● 日卓球の黄金時代を支えた一人、故・荻村伊智朗氏には、有名な伝説がいくつもある。選手として世界を制し、引退後は現行卓球ルールの基礎を築き上げ、国際卓球連盟の会長も勤めた荻村氏。 しかし、彼の伝説の中でもっとも有名であろう、ある練習法にまつわるエピソードについては僕は今日まであまり信用してこなかった。 それは「壁打ち」である。 文字通り、壁に向かってボールを打ち、跳ね返って来たものをまた打ち返す。それだけの練習。 僕自身も、周囲の卓球人も、一度はトライしたことがある練習法だ。まったく無意味ではないが、結局は台打ちとは距離感も球質も違うのだから、せいぜいウォーミングアップ程度にしか使えない練習。僕は長年そう考えて来たし、周囲の卓球人にも、壁打ちを積極的に取り入れて

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  • 技術としての視覚 - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    我々の網膜に映っているものすべてを、我々は「見る」ことができない。網膜には、眼前に広がる光景が、時間的にもすべて映っているのだが、我々の脳は、その中からほんのわずかな情報を取り上げ、さらにそれを加工し、抽象化したものを見ている。 逆に言えば、そういう過程をたどらないと、我々は世界を知覚することができないわけだ。世界を、ありのままに「見る」ことはできない。 しかし、その加工の仕方には無限の可能性がある、ということも同時にいえる。 卓球のボールは未経験者には「見る」ことができない。それは、物理的なスピードのせいではない。未経験者の概念世界に、卓球のボールの動きが存在しないから「見えない」のである。高速で動くピン球の動きを捉えることは日常生活では必要ない。だから、未経験者に卓球のボールは見えないのである。 経験者は卓球のボールを見ることができるようになる。しかし、そのことは未経験者よりも経験者の

    技術としての視覚 - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2007/11/22
    「「見る」というのは、ラケットを振るのと同じ次元で、技術が介在する領域なのだ/膨大な情報を、抽象化し、再構成する、われわれの意識に上ってこない脳のプロセスのみが、異なっている/感覚の技術」
  • 『生物と無生物のあいだ』 - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    生物と無生物のあいだ (講談社現代新書) 作者: 福岡伸一出版社/メーカー: 講談社発売日: 2007/05/18メディア: 新書購入: 56人 クリック: 1,487回この商品を含むブログ (1107件) を見る 非常におもしろい科学読み物で、皆さんにお勧めしたいではあるのだが、 今日取り上げたいと思ったのは、このに過剰反応する、「自称理系」の皆さんのことである。 リンク先を開いて、実にレビューを見ていてもらうとわかるが、実に半分くらいの人が酷評している。 酷評の理由を大まかに整理してみると、だいたい以下のようなものだ。 ・過去にすでに述べられたことしか書かれておらず、新たな情報がない。 ・文学的修辞ばかりで、中身がない。 ・ちょっとでも理系の知識があれば、常識に属することばかりで実に退屈。 さて、書で書かれている内容が実際にそうなのかどうか、「ど文系」人間の私にはいまひとつ判断が

    『生物と無生物のあいだ』 - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2007/08/28
    「人は、スタイルを通してしか情報を感受できず、そのスタイルはあまりにも多様なのである」
  • いじめのくに - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    ※mixiの日記を転載します。文中、「コメント」とあるのは、mixiのニュースコメント機能のことです。2ch、yahooはてななどをのぞいてみましたが、どこも状況は大同小異だったので、このままアップします。 朝青龍厳しい処分に動揺、精神科医へ http://www.nikkansports.com/sports/sumo/p-sp-tp3-20070803-236231.html 処分がくだったときの日記のほとんどもそうだったが、皆さん、朝青龍には非常に手厳しい。今回など、精神科を受診したという報道に、「心技体の心が駄目ってことだよね」などというコメントまで見られる(その心が駄目な横綱にほとんど勝てないほかの力士はどうなるんだよ、と思うのだが)。 なぜだろう? 俺にはまったく理解できない。 さほどヘビィな相撲ウォッチャーではない私だが、朝青龍の相撲は横綱らしい、すばらしいものだと思う。歴

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  • 努力と根性について - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    卓球の全日監督が愛ちゃんの「根性を鍛える」とかのたまっていた。 愛ちゃんの卓球の実力は頭打ちだと思うし、 全日を預かる立場であれば、スポンサー受けも考えて愛ちゃんを引き上げようとする気持ちもわからないではない。 でも、それこそ「子供でもわかるような論理」において、全日・近藤監督の方針は間違っていると私は思う。 スポーツや芸事における努力、根性、あるいは練習量(反復練習)の問題についてはいつか整理して書いてみたいと思っていたので、ここらで少しまとめてみる。 まず、あまりスポーツトレーニングの問題になじみのない方のために問題を整理してみよう。 努力、根性という言葉がスポーツにおいて使われるのは、練習、トレーニングの文脈においてである。そしてさらに、それらは「つらいこと、嫌なことを耐え、我慢する」体験として語られる。 努力とは、嫌で、めんどくさくて、ほかにやりたいことがあるのにそれを我慢し

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  • リズムはすべてに通ずる - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    新所沢「ARP実習センター」で卓球の練習。 http://taka-arp.com/arp-center.html ARPは、Axis=軸、Rhithm=リズム、Posture=姿勢の略なのだが、 今日は、リズムのことがものすごく自分の中で大きな気づきとなった日だった。 映画にもなった『ピンポン』というマンガで、中国人留学生とそのコーチが、体育館の外から、中で打ち合う二人(ペコとスマイル)の戦型と実力をはかるシーンがある。つまり、打ち合う音だけで、ということだ。 「カットマンと速攻・・・いいカットマンだ」「速攻のほうも悪くはない」「入ろうか、風の音が邪魔だよ」 正確じゃないが、こんな会話だったと思う。 正直、僕の中ではこのシーンは「漫画的表現」だった。 でも今は違う。 人間という生き物が、卓球という競技に向き合おうとする時、リズムの要素は外せない。そして、そのリズムは、卓球においてはボール

  • セルフメイドの世界 私が歩んできた道(岩城正夫) - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    衝撃的におもしろいをご紹介いただいたので、皆さんにもご紹介しておきたい。 セルフメイドの世界-私が歩んできた道 作者: 岩城正夫出版社/メーカー: 群羊社発売日: 2005/12/01メディア: 単行購入: 2人 クリック: 37回この商品を含むブログ (3件) を見る 著者は現在和光大学名誉教授。 この肩書きでぴーんと来る人もいるかもしれない。 そう、岸田秀系列です。ぜんぜん、心理学とか関係ないんだけど、書きっぷりが岸田さんとどこか似ている。例えば以下のようなくだりがそうだ。 ところで、それらの結果を私たちの実験結果とはいわずに、あえて「私の体験からの判断」としたのは、私の気持ちとして、それらの結論を実験結果と呼ぶにはいささか条件が複雑すぎると思うからだ。つまりそうした内容を「自然科学的な実験」として行ない、その結果のデータ整理、そして発表するにはあまりに実験条件が複雑すぎて私にはむ

    セルフメイドの世界 私が歩んできた道(岩城正夫) - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような
  • 「伝えたい」と「伝える」の違い - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    第15回、廣木ジャズスクール発表会@相模大野ラシェット、演奏してきました。 反省点の多い発表会だった。チューニングの甘さ、サウンドしなかったトリオ、コピーをしっかりやっていなかったこと(ほかのみんなはずっとまじめにやってるんだな、と思ったこと)、など、細かい点をあげれば反省点は数限りなくあるのだけど、たぶん、一番大事なことだと感じたことについて書く。 合奏はコミュニケーションだ、とよく言われる。自分の言ったことに、相手が反応する。それに対してまたこちらが、と次々に反応を返す。それが産み出すグルーヴに観客が反応する・・・その無限ループこそ、音楽を推進していくパワーだ。決して、リーダーシップをとる演奏者が、共演者や観客をただぐいぐいと引っぱっていく(引きずっていく)わけではないのである。 と、言葉で言うのは簡単だが、このコミュニケーションということが難しい。そもそも、音楽である以上、言葉や目線

    「伝えたい」と「伝える」の違い - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような
  • 自分らしく、と簡単にいうけれど - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    自分らしく、と簡単にいうけれど、「自分らしく」ってのはそう簡単ではない。 まず、何が自分らしくなのかよくわからん、ということもあるし、 どういうときに自分らしくあればよいのかもわからなかったりする。 いつも自分らしく、ということがいいことなのか、悪いことなのか。 もし、自分らしくがよいのか悪いのか、ということが状況判断によるのであれば、それは自分らしいのからしくないのか、という次元の異なる問題もある。 で、ここ最近考えていたことで少しブレイクスルーがあったので備忘録がわりに書いておこう。 まず、自分が「こうだ」と、芯から納得できることを行うこと。これは「自分らしく」であろうし、「よいこと」であるように思う。まずは、そのように考える。 そして、そういう「芯から納得できること」をやるために、我慢すべきこと、スルーすべきこと、目を瞑るべき場面というのが、必ず現れるが、それは、我慢してもかまわない

    自分らしく、と簡単にいうけれど - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような
  • 「出たがり屋」を休ませる - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    甲野先生以外では、もっとも強烈なインパクトを会うたびに与えてくれるN氏からいただいたヒントを、ここ2週間の間いろいろと工夫している。 現在のテーマは、いかに全身を協働させるか。 「全身の協働」と言ってしまうと簡単、あるいは何を言っているのかわからないのだけれど、例えば卓球のフォアハンドを振るとき、腕だけで振らない、ということである。 腕や手、指は、人間の身体の中でも日常的にもっともよく使うところだし、感覚も発達している。だから、普通に何か物事をやろうとすると、どうしても腕や手、指が働く。 卓球のフォアハンドの場合でも、例えば素人にラケットを持たせると、間違いなく腕だけでラケットを振ろうとする。これが徐々に上級者になってくると、足腰の力をラケットに伝えるようになってくるわけだ。 腕だけで振らず、全身でラケットを振る、というのは、そういうことだ。 「何それ? それが武術の応用? そんなの、卓球

    「出たがり屋」を休ませる - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような
  • 負荷を全身に散らすために - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような

    中野の日中卓球センターで練習。 生業のほうは滞っているのだが、そこは目をつむって(笑)。 日中卓球センターでの練習は4回目。自分で言うのもなんだが、めきめきと上達している。 もちろん、高校までの「遺産」を、細胞から掘り起こしている分もあるから、素人が上達するのとスピードが違うのは当然なのだが、それを差し引いても、最近の自分の技術の進展には、自分自身もキャッチアップが追いつかずにいる。(こんなふうに楽器演奏が上達したらどんなにすばらしいだろうか) 2、3日前に、古武術つながりのN氏から受けた「治療」と交流が、今日の練習では一気に出たところがあったと思う。 とにもかくにも、どの技術を行うときでも、いかに身体の「遊び」をとるかに意識を集中(拡散)する。 甲野(善紀)先生がしばしば技の解説で使われる、「身体の遊びをとる」という言葉は、なかなか奥が深い。すべてを説明できてしまう一方、何も説明していな

    負荷を全身に散らすために - 鳥居直介brog 〜ギタリストのような卓球指導者のような
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