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ブックマーク / otakinen-museum.note.jp (21)

  • 「江戸の土木」展のこだわりや裏話を、担当学芸員に聞いてみた。|太田記念美術館

    2020年10月10日~11月8日に開催された「江戸の土木」展。展覧会のこだわりや裏話を、担当である渡邉晃・上席学芸員に、インタビューしてみました。 街歩きとダムブームがアイデアの種にーー「江戸の土木」展は、橋や水路、街づくりなど、江戸の土木事業にスポットを当てた展覧会になっています。太田記念美術館でもこれまでになかった切り口ですが、どのようにしてこの企画を思い付かれたのでしょうか? 渡邉:2011年から、アートテラー・とに~さんと、「そうだ江戸、行こう。」という、浮世絵を持って街歩きをするツアーを、個人的に開催しているんですね。浅草編、銀座編、外濠編など、毎回テーマを決めて、各エリアの代表的なスポットを、浮世絵と比較しながらぶらぶらするという内容です。年に3~5回くらい、通算で恐らく40回はやったんではないでしょうか。 ーーTV番組の「ブラタモリ」みたいな企画ですね。しかも10年近く、4

    「江戸の土木」展のこだわりや裏話を、担当学芸員に聞いてみた。|太田記念美術館
  • 浮世に描かれた橋 ~土木の視点から|太田記念美術館

    太田記念美術館では2020年10月10日~11月8日に「江戸の土木」展を開催しました。近年、土木工事によって造られた地形や構造物に、マニアックな楽しみを見出す人たちが増えています。また東京では、(延期になってしまいましたが)オリンピックを見据えてさまざまな再開発や工事も盛んに行われています。 考えてみると、東京のルーツである100万都市・江戸は、江戸城の普請や、埋め立てにより土地を造成、橋や上水、運河などのインフラの整備など、高度な土木技術より発展していった都市でした。現代にもつながる「土木」というキーワードで、江戸の成り立ちの様子を、浮世絵から眺めてみたら面白いのでは、と企画したのがこの展覧会。展のみどころを、何回かに分けて紹介していきましょう。 広重も北斎も描いた「橋」 第1回は「橋」。歌川広重も、葛飾北斎も、たくさんの橋の絵を残しています。江戸時代には、隅田川や日橋川をはじめとし

    浮世に描かれた橋 ~土木の視点から|太田記念美術館
  • 御茶ノ水は人工の渓谷だった|太田記念美術館

    太田記念美術館では2020年10月10日~11月8日に「江戸の土木」展を開催しました。「土木」というキーワードで、江戸の成り立ちの様子を、浮世絵を通して眺めてみようという展覧会でしたが、その見どころをご紹介します。 今回は江戸時代に、人の手で造られた渓谷の話。御茶ノ水駅から秋葉原駅まで、神田川沿いを下ると、都心とは思えない谷状の地形が続いています。実は飯田橋付近から秋葉原付近までの神田川は、仙台濠とも呼ばれ、仙台伊達藩による大規模な土木工事で生み出された、人工の渓谷なのです。 神田山を分断する大土木工事 このあたりにはもともと神田山という台地がありました。現在の郷台地ですね。その神田山から隅田川へ向かって、神田川の原型となる流れが注いでいたのですが、そこに平川、小石川、石神井川3つの河川をまとめて接続し、隅田川へ放水するという、大規模な河川の架替えが計画されました。 その際に行われたのが

    御茶ノ水は人工の渓谷だった|太田記念美術館
  • 知られざる幻の風景画家・小倉柳村をご紹介します|太田記念美術館

    小倉柳村「湯嶋之景」湯島天神の石段の上から、眼下の町並みを見下ろしている2人の男性。満月の明かりと建物の明かりという、自然と人工の光の対比にも味わいがありますが、男性2人が向き合うことなく、無言で立っている姿は、この作品にどこかミステリアスな印象を与えています。 この浮世絵の作者は、小倉柳村(おぐら・りゅうそん)。制作は明治13年(1880)です。光と影を対比させる風景描写は小林清親の光線画からの色濃い影響を感じさせますが、柳村ならではの独特の雰囲気も漂っています。知名度はそれほど高くはありませんが、隠れたファンも多い絵師なのです。 しかしながら、この小倉柳村、分かっていることがほとんどありません。浮世絵師としての活動は、明治13~14年(1880~81)のわずか2年間。確認されている作品数はたったの9点しかありません(註)。しかも、築地小田原町2丁目14番地に住んでいたこと以外、生没年は

    知られざる幻の風景画家・小倉柳村をご紹介します|太田記念美術館
  • 弟子たちから見た歌川国芳はどんな顔?という話|太田記念美術館

    歌川国芳は自身の姿をしばしば作品の中に描き込んでいます。例えばこちらの「名誉右に無敵左り甚五郎」は、名工である左甚五郎が歌舞伎役者の顔に似せた人形を彫っているという場面です。 しかしこの左甚五郎、国芳が好んだ閻魔のどてらを着て、芳桐印の入った手拭いを肩にかけていることから、国芳自身の姿が重ねられていると考えられます。国芳の大好きながそばにいることからも、それは明らかでしょう。 ただ、国芳がこのように自分の姿を描く時はいつも後ろ姿で、顔を見せることがありません。 では国芳はどのような顔をしていたのでしょうか。今回は、国芳と直接面識があったどころか、弟子というこれ以上ない親しい関係にあった絵師たちによる国芳の「顔」をご紹介しましょう。 ①落合芳幾の国芳像まずは落合芳幾の「歌川国芳死絵」です。国芳が亡くなったのは文久元年(1861)。数え65歳の時でした。この作品は有名人が没した直後、追善や訃

    弟子たちから見た歌川国芳はどんな顔?という話|太田記念美術館
  • 浮世絵の摺りの違いを楽しむ豆知識ー葛飾北斎「冨嶽三十六景 山下白雨」|太田記念美術館

    葛飾北斎の「冨嶽三十六景」の一つである「山下白雨」。「神奈川沖浪裏」と「凱風快晴」に並ぶ三役の一つに数えられているほどの代表作です。通称「黒富士」とも称されるこの名品を、太田記念美術館では、2点、所蔵しています。 さて、ここで問題です。この2枚の黒富士、どちらが先に摺られたものでしょうか? 浮世絵版画は木版画ですので、1枚だけではなく、たくさんの枚数を摺ります。一般的には、最初に「初摺」と呼ばれる200枚を摺り、人気があって売れ行きが好調だと、摺り増しをしました。多い時には7,000~8,000枚を摺ったと伝わっています。 当然のことながら、早く摺ったものの方が価値があるとされています。たくさん摺っている間に木の板が痛み、線が欠けたりぼやけたりして、作品の美しさが徐々に失われてしまうからです。 先ほどの2枚の黒富士、どちらが摺りが早いか、お分かりになったでしょうか。より比べやすいように、富

    浮世絵の摺りの違いを楽しむ豆知識ー葛飾北斎「冨嶽三十六景 山下白雨」|太田記念美術館
  • 月岡芳年の猫がカワイイという話|太田記念美術館

    の絵をたくさん描いている浮世絵師といえば、歌川国芳が有名でしょう。が大好きで、たくさんのを飼っているだけでなく、仕事をしている最中でも懐にを入れていたといいます。 こちらは幼い頃に国芳に入門していた河鍋暁斎が、当時のことを思い出して描いた『暁斎画談』の1図です。右側にいる絵筆を持った人物が国芳。机の周りにが何匹もいるだけでなく、懐の中や机の上にもいた様子がよく分かります。 さて、好きの歌川国芳の門人であったのが月岡芳年です。芳年と言えば、残酷な血みどろ絵の印象が強いかも知れませんが、実は、師匠の影響を受けてか、可愛らしいの浮世絵をいくつも描いているのです。 まずは『美術世界』という雑誌に描いた1図。女性がを抱いています。女性の優し気な眼差しから、への愛情の深さが感じられます。 ご注目いただきたいのはの顔。嬉しそうに目を細めています。ちょっとブサカワな表情がたまりません。

    月岡芳年の猫がカワイイという話|太田記念美術館
  • 忘れられたラスト・ウキヨエー木版口絵とは?|太田記念美術館

    皆さんは「木版口絵(もくはんくちえ)」というものをお聞きになったことがあるでしょうか?浮世絵好きの方でもあまり耳にしたことがないかもしれません。 木版口絵とは、明治20年代半ば、すなわち1891年頃以降から大正初期にかけて、小説の単行や文芸雑誌、あるいは実用書の巻頭に挿入された一枚摺りの版画のことを言います。 まずは実物をご覧になっていただくのが手っ取り早いでしょう。こちらは『明治文庫』第12編。石橋思案の短編小説8編を収録したです。刊行は明治27年(1894)。大きさは縦22.5㎝、横15.1㎝、厚さ1㎝。ほぼA5サイズです。 さて、表紙をめくりますと、このような感じ。巻頭に絵のようなものが挟み込まれています。 挟み込まれた絵を広げてみたのがこちら。季節は桜の咲く春。丸い窓のそばで、女性が読書を楽しんでいる様子です。これが、書籍の冒頭を美しく飾る「木版口絵」です。作者は武内桂舟(たけ

    忘れられたラスト・ウキヨエー木版口絵とは?|太田記念美術館
  • 浮世絵版画の彫師のスゴ技を計測してみた。|太田記念美術館

    浮世絵版画は、絵師がすべての作業を行なうのではなく、絵を板に彫る彫師と、紙に絵を摺る摺師との協同作業によって、はじめて完成します。 とくに彫師には、緻密なテクニックが必要です。浮世絵版画は凸版、すなわち、紙に絵具を摺りたい部分を残して板を彫る構造になっています。たとえば、一の直線を摺りたいのであれば、その直線の部分を残して、直線の両脇を彫らないといけません。絵師の描く線よりも、彫師はさらに細かく線を彫る必要があるのです。 彫師の技量がもっとも問われるのが、人間の髪の毛、特に生え際です。彫りの作業は何人かで分担するのですが、髪の毛を彫る「毛割(けわり)」という作業は、彫師の中でも特に技術が優れた者にしかできない、難しい作業でした。 そこで、浮世絵版画の彫師たちのテクニックがいかにすごいのか、髪の毛の生え際を拡大してご紹介しましょう。 まずは、喜多川歌麿の「五人美人愛敬競 兵庫屋花」。手紙

    浮世絵版画の彫師のスゴ技を計測してみた。|太田記念美術館
  • 【オンライン展覧会】コロナ退散祈願!御利益浮世絵展|太田記念美術館

    2022年1月、多くの都道府県でまん延防止等重点措置が発令されました。2020年より続く新型コロナウイルス感染拡大は2年近く経った今でも収まりそうにありません。 時代をさかのぼれば、江戸時代における感染症に対する恐怖は、現代をはるかに上回るものでした。人々は厄災に打ち勝つため、神や仏に祈りをささげたり、あるいは、疫病や厄災を退散させるための浮世絵を壁に貼ったりしていたのです。 そこで、新型コロナウイルス退散を祈願して、ご利益のありそうな浮世絵8点を集め、オンライン上で紹介することとしました。護符代わりに、ぜひお手元でじっくりとご鑑賞ください。 【購入にあたってのご注意】 ・この記事は有料記事です。1点まで無料で公開していますが、8点全てをご覧いただくためには、無料公開の下にある「記事を購入する」をクリックしてご購入ください。 ・料金は200円です。 ・無期限でご覧いただけます。 ①歌川芳虎

    【オンライン展覧会】コロナ退散祈願!御利益浮世絵展|太田記念美術館
  • 木版口絵はどうやって制作されるのかー江戸時代の錦絵との違い|太田記念美術館

    太田記念美術館にて2021年5月21日~6月20日にて開催の「鏑木清方と鰭崎英朋 近代文学を彩る口絵―朝日智雄コレクション」展。明治20年代後半から大正初期、文芸雑誌や小説の単行の巻頭に折り込まれた、木版口絵を紹介する展覧会です。 江戸時代の錦絵(多色摺りの木版画)は、絵師、彫師、摺師の協同作業によって制作されます。すなわち、①絵師が版下絵を描き、②彫師が輪郭線だけの主版を彫り、墨一色の校合摺(きょうごうずり)を作成。③その校合摺に、絵師が「色さし」という、どこにどの色を配置するかを指示。④それを元に、彫師が色版を彫り、⑤摺師が主版と色版で摺って完成です。 アダチ伝統木版画技術保存財団による「色さし」の工程がこちら(太田記念美術館監修『ようこそ浮世絵の世界へ』東京美術、2015年より)。色ごとに校合摺を用意し、どこにその色を使うのかを、絵師が朱色で塗って指示しています。 明治後期から大正

    木版口絵はどうやって制作されるのかー江戸時代の錦絵との違い|太田記念美術館
  • 富士山はどれくらい遠くから見えるのか、北斎と広重に聞いてみた。|太田記念美術館

    歌川広重の「冨士三十六景 下総小金原」。手前に大きく描かれた馬が印象的な作品です。小金原は幕府直轄の馬の放牧地。現在の千葉県北西部、松戸市、鎌ヶ谷市、船橋市付近に広がる原野でした。 広がる草原の先に、富士山の姿が小さく見えています。 この場所は富士山から100キロ以上離れているのですが、そもそも富士山はどれくらい遠くから見ることができるのでしょうか? 現代の科学技術を駆使すれば詳細に分析することは可能でしょうが、ここはやはり、富士山の絵を数多く描いた、葛飾北斎と歌川広重に聞いてみましょう。彼らが描いた富士山の絵の中で、最も遠くの地点から描いた作品を探してみたいと思います。 歌川広重「不二三十六景 上総鹿楚山鳥居崎」歌川広重は富士山を題材とした揃物を2種類、手掛けています。最初に手掛けたのが、嘉永5年(1852)刊行の「不二三十六景」です。題名のとおり、全部で36点ありますが、富士山から最も

    富士山はどれくらい遠くから見えるのか、北斎と広重に聞いてみた。|太田記念美術館
  • 浮世絵に記された文字を解読してみた|太田記念美術館

    浮世絵版画には、いろいろな文字が書き込まれています。たとえば、こちらの歌川国貞「二十四好今様美人 甘い物好」を見てみますと、画面のいたる所に文字が散らばっています。 読める文字もある一方で、不思議な形をした謎の記号も。 実は、これらの文字、浮世絵が制作された背景を知るための重要な手がかりなのです。今回は、浮世絵に描かれた文字の秘密に迫ってみましょう。 ①題名 右上にある赤い長方形は、作品の題名です。「二十四好今様美人」(「十」は五の文字を2つ並べています)というシリーズ名が記されています。 孝行に優れた中国の24人の人物を「二十四孝」といいますが、その「孝」を「好」ともじり、芝居好き、酒好き、祭り好きなど、いろいろなものが好きな女性たち24人=「二十四好」を集めたシリーズとなっています。 注目は振り仮名。「二十四好今様美人」という題名は、そのまま「にじゅうしこう いまようびじん」と読んでし

    浮世絵に記された文字を解読してみた|太田記念美術館
  • 浮世絵が陶磁器の包み紙として海を渡ったのは本当?という話。|太田記念美術館

    浮世絵に関心がある方なら、浮世絵がヨーロッパへ輸出する陶磁器の包み紙として使われていたという話を、どこかで聞いた記憶があるのではないでしょうか。それがきっかけとなって、浮世絵の素晴らしさがヨーロッパに伝わるようになった、と。 もう少しちゃんとした説明ですと、フランスの版画家であるフェリックス・ブラックモンが、陶磁器の緩衝材として用いられていた『北斎漫画』をたまたま発見。浮世絵の魅力を仲間たちに伝えたことをきっかけとして、「ジャポニスム」と呼ばれる日美術ブームが、ヨーロッパで始まったと伝えられています。 浮世絵は、もともと日において、安い値段で販売される紙屑同然のものでしたが、その芸術的な価値がヨーロッパの人たちによって初めて見出されるようになったという文脈でも、この話はしばしば語られています。 皆さんはこの話を聞いた時、どのような様子をイメージしたでしょうか?現在、陶磁器を持ち運ぶ際、

    浮世絵が陶磁器の包み紙として海を渡ったのは本当?という話。|太田記念美術館
  • 江戸時代の雪だるまは「だるま」だったというお話|太田記念美術館

    皆さんは雪だるまと聞いて、どのような形を思い浮かべますか?丸い雪玉を2段重ねて、頭にバケツ、鼻にはニンジン、手袋をさした木の枝の腕といった姿が連想されるのではないでしょうか? 江戸時代も雪が降ると、雪だるまを作ることがありました。ただ、現在の私たちが想像する雪だるまとは、ちょっと形が異なっているようです。 こちらが江戸時代の雪だるま。歌川広景「江戸名所道戯尽 廿二 御蔵前の雪」という浮世絵です。安政6年(1859)の作。 文字通り、だるまの形をしています。だるまとは、禅宗の僧侶である達磨が座禅をしている姿をかたどった人形のことです。 雪が積もった蔵前の町に作られた巨大なだるま。男が下駄の鼻緒を結び直そうと、手に持っていた魚とネギを、雪だるまの上にちょっと置いたという場面。腹を空かせた野良犬がくわえて持ち去ろうとしていますが、男は気が付く様子がありません。 また、あの葛飾北斎も雪だるまを描い

    江戸時代の雪だるまは「だるま」だったというお話|太田記念美術館
  • 江戸っ子は雨が降ると、みんな裸足になるのか、調べてみた。|太田記念美術館

    先日のTwitterにて、こちらの歌川広景の「江戸名所道外尽 四十六 郷御守殿前」を紹介したところ、雨の日はみんな裸足なの?というご質問がいくつかありました。 突然の夕立。3人いるのに傘は1つだけ。皆が濡れないようにと考えたアイデアがこちら。上の男はご満悦ですが、下の2人は迷惑顔。傘もボロボロですし、これならいっそ雨に濡れた方がいいのでは。隣の男も変な格好。原宿の太田記念美術館で開催中の「ニッポンの浮世絵」展にて12/13まで展示しています。 pic.twitter.com/sYhvo8zXEn — 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (@ukiyoeota) November 14, 2020 たしかに雨が降るなか、みんな裸足です。実は、筆者はこれまでまったく気にしていなかったのですが、言われてみれば「なるほど」と思い、早速調べてみました。 たとえば、

    江戸っ子は雨が降ると、みんな裸足になるのか、調べてみた。|太田記念美術館
  • 江戸時代のスズメたちの世界に潜入してみた|太田記念美術館

    顔はスズメなのに、体は人間。不思議な姿をした鳥人間たちを描いた、歌川国芳の「里すずめねぐらの仮宿」。 動物を擬人化させることが得意だった、歌川国芳の代表作の一つです。 歌川国芳の「里すずめねぐらの仮宿」をクローズアップすることで、スズメたちが暮らしている世界をじっくりと観察してみましょう。 まずは、画面の左上。格子窓のある部屋、赤い絨毯の上に、華やかに着飾ったスズメが座っています。スズメの世界の花魁のようです。 この作品が制作されたのは、弘化2年(1845)のことでした。その年、吉原遊廓は火災にあい、仮宅(仮営業所)での営業がおこなわれていました。しかし、その宣伝をしようと思っても、当時は天保の改革によって、幕府から花魁を描くことを禁止されていました。 そこで国芳は、人間をすべてスズメにすることによって、これはあくまでスズメの世界の遊廓であるとして、浮世絵を描きました。題名に「ねぐらの仮宿

    江戸時代のスズメたちの世界に潜入してみた|太田記念美術館
  • 髭切と膝丸という刀剣が登場する浮世絵のお話|太田記念美術館

    刀の「髭切」と「膝丸」。ゲーム「刀剣乱舞」でも人気キャラクターとなっていますが、その姿は浮世絵の中にも描かれていますので、ご紹介したいと思います。 ※今回紹介する作品は、現在、太田記念美術館では展示しておりません。 髭切(ひげきり)まずは、「髭切」。『平家物語』剣巻によれば、平安時代、源満仲が刀鍛冶に作らせた2の刀が、髭切と膝丸でした。そのため、ゲーム「刀剣乱舞」の中では、兄弟という設定になっています。 髭切は、罪人の首を斬った際、髭もそのまま一緒に斬れたことから、その名前がつきました。髭切は、ある事件をきっかけに「鬼丸」という名前に変わるのですが、そのエピソードを描いた浮世絵がこちら。 楊洲周延の「東錦昼夜競 渡辺綱」です。『平家物語』剣巻によれば、平安時代の武将である渡辺綱(わたなべのつな)が、京都・一条の堀川に架かる戻橋のところで、一人の美女に出会います。五条のあたりまで送って

    髭切と膝丸という刀剣が登場する浮世絵のお話|太田記念美術館
  • 太田記念美術館の謎のアイコン「虎子石」①これって何?生き物?|太田記念美術館

    太田記念美術館の公式twitterアカウントや、noteアカウントに使われている謎のアイコン。 これは何なの?石?生き物?と思われる方が多いので、改めて紹介したいと思います。 実はこのアイコンは、歌川芳員「東海道五十三次内 大磯」(※現在展示しておりません)という作品に描かれた、謎のキャラクターを切り抜いたもの。大きな石に虎の手足と尻尾、目や口と思われるものもついており、おそらく生き物なのでしょう。 名前は「虎子石」とあります。 突然現れた虎子石に、周囲の人々がびっくりしていますが、虎子石は涼やかな表情。特に危害はなさそうです。右側の女性は少し笑っていますね。 で、そもそもこの虎子石っていったい何なの?という話。実はそのルーツとなるのは、「曽我物語」に出てくる遊女、大磯の虎が大事にしていたという、不思議な石の名前。虎御石、虎が石、虎子石など、いくつかの呼び方があり、大磯の延台寺には、今も「

    太田記念美術館の謎のアイコン「虎子石」①これって何?生き物?|太田記念美術館
  • 空摺はどのように制作するのか、現代の職人さんに聞いてみた|太田記念美術館

    浮世絵版画で用いられる空摺(からずり)というテクニック。エンボス加工と言った方が通じやすいかもしれませんが、ここ何回かTwitterで紹介したところ、大変な人気でした。まずは、こちらをご覧ください。 明治の浮世絵師・月岡芳年の「大日名将鑑 平惟茂」です。 平維茂(たいらのこれもち)に襲いかかる戸隠山の鬼。人間に化けていた時に頭に被っていた、白色の被衣(かずき)にご注目。こちらの写真は、画面全体に均等に照明が当たるよう、プロのカメラマンにきちんとセッティングして撮影してもらったものです。白い被衣にピンク色で陰影がつけられていることが分かりますが、特に模様らしきものは見当たりませんよね。 そこで、自分のスマホを使って、一方向からの光だけで撮影してみました。その写真がこちらです。被衣に菱形の模様が浮かび上がっているのが分かります。 空摺とは、和紙に凹凸の模様を施す技法のことをいいます。実際に浮

    空摺はどのように制作するのか、現代の職人さんに聞いてみた|太田記念美術館