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ブックマーク / www.tapthepop.net (232)

  • シネイド・オコナー~全米に波紋を呼んだ捨て身の抗議

    1992年10月3日、アメリカの人気番組「サタデーナイト・ライブ」で1つのパフォーマンスがスタジオ内を凍りつかせた。 それはアイルランド出身の女性シンガー、シネイド・オコナーが歌い終わった時だった。 なんとローマ教皇の写真をカメラの前に掲げて、ビリビリと破り捨てたのだ。 そして、こんな言葉を言い放った。 「Fight The Real Enemy(真の敵と戦いなさい)」 スタジオには観客もいたが、拍手もブーイングもなく、ただただ静まり返っていた。 この模様は生中継で全米に放送されるとテレビ局に講義の電話が殺到、多くのキリスト教徒が彼女を非難することになる。 しかし、彼女が捨て身ともいえるパフォーマンスで抗議をしたのには理由があった。 1966年にアイルランドの首都、ダブリンで生まれたシネイドは8歳の頃に両親が離婚して母親に引き取られた。だが、そこで待っていたのは、母親による虐待の日々だった

    シネイド・オコナー~全米に波紋を呼んだ捨て身の抗議
  • ブルーズ特集

    『TAP the POP』はこれまでたくさんのコラムを通じて、音楽自体の素晴らしさ、物の音楽が持つ魅力、音楽によって生まれた繋がりと物語をお届けしてきました。中でも“ブルーズ”には特別な力を感じずにはいられません。 ブルーズは大きな源流であり、様々な音楽に血と汗と涙となって流れ込んできた事実。 そして様々な音楽は、太陽系の惑星のようにブルーズの周囲を廻ってきたという歴史。 もしあなたが「ブルーズって何?」「ちゃんと接したことがない」という人なら、ブルーズが壮大な音楽探求のきっかけとなってくれることは間違いないはず。なぜなら“ブルーズを聴く”ということは、“音楽を感じる”ということ。 「そこにブルーズはあるのか?」──私たちの旅はこれからも続きます。

    ブルーズ特集
  • みんなアイリッシュだった~アイルランド系特集

    Extra便 【特集序文】Roots of Rock〜ある風景 ロックには、二つの大きな源流がある。 たいていの文献には「黒人のリズム&ブルーズと白人のカントリーの融合」と記されている。ロックンロールという肉体を揺さぶるよう… Extra便 祖国アイルランドの音楽的風景 ヨーロッパの西の果てに浮かぶ島──アイルランドが一体どのような道程を歩んできたのか?「ケルト人が築き上げた独自の文化や国家が迫害・搾取・弾圧され続けた」とか「1…

    みんなアイリッシュだった~アイルランド系特集
  • 蠣崎未来──静かな情熱を湛えた無二の歌声、注目のシンガー・ソングライターのデビュー作

    穏やかな日々流れる この街は これからも変わることなく 変わってゆくでしょう 移ろいゆく景色も 香りも優しく包んでくれるから いつもより顔をあげて この道ゆっくり歩こう ここにくるといつも 君に会える気がするから いつも以上に心躍らせて この道ゆっくり歩こう (「君といると」より) 岐阜県出身、現在29歳の蠣崎未来(かきざき・みく)。深く滋味あふれる歌声の弾き語りで全国を巡り、各地に熱狂的な支持者を増やしている注目のシンガー・ソングライターが、待望のファースト・フル・アルバム『路傍の唄』を発表した。 人前に出ることが苦手で、高校を卒業するまで音楽に触れる機会がほとんどなかったという彼女だが、大学に入ってサークルの先輩から教わったソウル・ミュージックとの出会いによって、音楽への扉が開かれた。 最初はギターも弾けなかったという彼女だが、ダニー・ハサウェイやルイ・アームストロング、さらには大貫妙

    蠣崎未来──静かな情熱を湛えた無二の歌声、注目のシンガー・ソングライターのデビュー作
  • ジミヘンがナポレオンジャケット(軍服)を身にまとうようになった理由

    1960年代…ビートルズ、ストーンズを始め、英国のロックミュージシャンたちの多くが身に纏っていたミリタリーファッション。 例えばビートルズが『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のアルバムジャケットで着ていたあの衣装。 そしてアメリカからイギリスの渡ってブレイクしたジミ・ヘンドリックスが着ていたあの上着。 それらはファッションシーンなどで“ナポレオンジャケット”とも呼ばれている軍服のことである。60年代の後半には世界的な流行となり、日でもGS(グループサウンズ)のバンドメンバーがステージ衣装として取り入れていた。ミリタリージャケットと呼ばれる多くのものは、第一次世界大戦時の英国軍の将軍の礼服だった。 ジミヘンは1966年に渡英してまもない頃、ロンドンのヴィンテージショップでゴージャスな軍服を見つけ、チャス・チャンドラー(アニマルズのベーシストでもあ

    ジミヘンがナポレオンジャケット(軍服)を身にまとうようになった理由
  • 「愛のさざなみ」は、なぜロス・レコーディングされたか?~名ドラマー、ハル・ブレイン起用で島倉千代子をよみがえらせた浜口庫之助

    オールマイティの才能 ステージに立ち、曲を作り、そして歌詞を書いた。 遊び心にとんだ明るい人柄からハマクラさんの愛称で親しまれ、ヒット・メイカーとして数々の伝説を残した浜口庫之助(1917~1990)。 生まれは神戸。父親は貿易商だった。 著書によれば、洋館の家にはガス燈がともり、裏庭にはテニスコートがあった。両親はクリスチャンで、日曜日には教会に行き、姉のピアノで讃美歌を唄った。音楽好きでハイカラな一家に育ち、5歳にして譜面が読めた。 小学校2年の時に一家で上京。旧制一高を目指すが、受験に失敗、親に内緒で音楽の道に走る。 1936年、初めて就いた仕事は、新宿のダンスホールのバンド・ボーイ。煙草の使い走りもいとわなかった。 流行り始めていたラテンに影響を受け、ラテン・バンド「浜口庫之助とアフロクバーナ」を結成。マラカスを振りながら自らステージに立つ。 初舞台は「NHK紅白歌合戦」。それも1

    「愛のさざなみ」は、なぜロス・レコーディングされたか?~名ドラマー、ハル・ブレイン起用で島倉千代子をよみがえらせた浜口庫之助
  • 「レッキング・クルー」②ハル・ブレインの驚異的なドラムによる名曲たちの思い出

    1964年の春にビートルズを体験する以前、ぼくが洋楽のポップスにした惹き寄せられたのは、1963年にカスケーズの「悲しき雨音」をラジオで聴いたのが最初だった。 曲が始まる前に鳴り響く突然の雷鳴と雨の音、雨粒を思わせる印象的なイントロからはじまると、甘い男性ヴォーカルとコーラスがせつなくもドリーミーな世界を描き出していく。 「悲しき雨音」は1963年の3月には全米チャート3位まで上昇して世界的にも流行ったが、日では少し遅れて梅雨時に大ヒットした記憶がある。 覚えやすいメロディはいささか単調にも感じられたが、サウンドをしっかりと支えているベースとドラムの音がかっこよくて聞き飽きることはなかった。 ちょうどその頃、坂九の「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」が6月15日に全米1位のヒットを記録し、その快挙が報じられると日音楽ファンとしてはなんとも誇らしい気分だった。 秋になって強烈なバ

    「レッキング・クルー」②ハル・ブレインの驚異的なドラムによる名曲たちの思い出
  • ヘディ・ウエストを偲んで〜その足跡と名曲「500 Miles」の源流を辿る旅

    2005年7月3日、名曲「500 Miles(500マイルも離れて)」で知られるアメリカの歌手ヘディ・ウエストが闘病の末に癌で亡くなった。享年67だった。 今日は女性フォーク歌手の草分け的存在だった彼女を偲んで…その足跡と名曲にまつわるエピソードをご紹介します。 1938年4月6日、ジョージア州ギルマー郡で生まれた彼女は4歳でピアノを始め、ハイスクール時代にはバンジョーを弾き作曲をしていたという。 12歳頃から地元のフォーク系イベント(Asheville Annual Folk FestivalやMountain Youth Jamboree等)に出場し、大人達を驚かせていた。 1959年、21歳になった彼女は単身でニューヨークに渡り、マネス音楽院で音楽を学び、さらにコロンビア大学で演劇の勉強に勤しむようになる。 在学中にシカゴやニューヨークのコーヒーハウスで歌うようになり、詩人だった父親

    ヘディ・ウエストを偲んで〜その足跡と名曲「500 Miles」の源流を辿る旅
  • 追悼:内田正人~音楽人生の50年間をドゥワップひとすじで通したキングトーンズのリードテナー|Extra便|TAP the POP

  • 追悼・片山広明~「まったく、酔うとなにをするかわからないヤツだ」と言いながらも、忌野清志郎が信頼していたバンドマン|Extra便|TAP the POP

    Home Extra便 追悼・片山広明~「まったく、酔うとなにをするかわからないヤツだ」と言いながらも、忌野清志郎が信頼していたバンドマン - TAP the POP 「日テナーの片山広明が亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。」という情報が、地底レコードのホームページに掲載されたのは11月12日のことだ。 日の朝だったそうです。最後は地底レコードでCDをリリースしていました、RCサクセション・渋さ知らズでも活躍したSAXの片山広明が亡くなったとの情報を夕方に知りブッタマゲました。 長年の酒の飲み過ぎでの肝不全ですね。キヨシローさんが亡くなる前に死んでいても不思議はなかった片山さんですが、肝硬変が悪化して遂にというかそりゃそうだろと思うぐらい悪くなっていたようですね。 病院を変えて検査を充実させたり、手術をしたり良くしようとは努力していた様子はみてとれましたが、昨夜に具合が悪くなり

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  • フィッシュマンズがたどり着いた世界『宇宙・日本・世田谷』

    1997年7月24日、フィッシュマンズのアルバム『宇宙・日・世田谷』が発売された。 1995年に発売された『空中キャンプ』、1996年の『LONG SEASON』に続く3枚目のアルバムで、これらは“世田谷三部作”と称される。 しかし1999年、佐藤伸治の急逝に伴い、これが事実上フィッシュマンズの最後のオリジナル・スタジオ・アルバムとなった。 いずれも評価の高い3枚のアルバムの中で、この『宇宙・日・世田谷』を一番にあげるファンも少なくはないだろう。 1987年に、ヴォーカル&ギターの佐藤伸治、ドラムの茂木欣一、ギターの小嶋謙介で結成されたフィッシュマンズは、キーボードのHAKASE、ベースの柏原譲が加入して5人となり、1991年に当時のヴァージン・ジャパン(後のメディア・レモラス)からデビューする。 レゲエやダブを基調としたリズムで、ふわりとした親しみやすいポップなメロディーに乗せて歌わ

    フィッシュマンズがたどり着いた世界『宇宙・日本・世田谷』
  • 浜口庫之助が選んだ人生への思いが込められていた石原裕次郎の「粋な別れ」

    1987年に52歳の若さで亡くなった石原裕次郎について、ソングライターの浜口庫之助は著書「ハマクラの音楽いろいろ」のなかでこのように述べている。 人間の一生には、花の部分と、実の部分と、幹と根とがあるように思う。子どもは、みんな種で、どんぐりだ。学生時代は小さな木だ。この辺から花をチラチラ咲かせる連中が出てくる。裕次郎は、そのころに花を咲かせ、そのあとずうっと花として生きて、一生を終わったのだ。 1966年の年末に「星のフラメンコ」と「バラが咲いた」で第8回日レコード大賞で作曲賞を受賞した直後、浜口は40歳になったと同時に”花”の時代を自ら終わりにしていた。どうしてなのかはわからないが、「お前はもう花の時代ではない」という声が心の中から聞こえてきたのだという。 ちょうどその頃、浜口は裕次郎に頼まれてリサイタルのために2曲を書き下ろした。それが「粋な別れ」と「夜霧よ今夜も有難う」である。

    浜口庫之助が選んだ人生への思いが込められていた石原裕次郎の「粋な別れ」
  • マスター・ブラスター~7月よりも熱いスティーヴィー・ワンダーのレゲエ

    みんな結構感じているんだ 7月よりも熱いってこと 世界はいろんな問題であふれているけれど なんとしようとも俺たちには関係ないさ 公園からリズムが聴こえてくる (ボブ)マーリーが箱の上で熱いぜ 今夜パーティーがあるらしい 街の外れの一角で Master Blaster 強烈なレゲエ・ビートが印象的なスティーヴィー・ワンダーの大ヒット曲「マスター・ブラスター」(1980年)は、街角で夜通し繰り広げられるレゲエ・パーティーの熱いグルーヴを伝えている。 そのホットなグルーヴの火付け役(マスター・ブラスター)として、ジャム・セッションの中心にいるのが、ボブ・マーリーだ。 夜明けまでジャム・セッションするとは知らなかったよ 確かに誰も言ってなかったよな 夜明けまでジャムるだろうなんてさ ジャムって、ジャムって ジャムし続けるだろう スティーヴィーは、1974年にアルバム『ファースト・フィナーレ』をリリ

    マスター・ブラスター~7月よりも熱いスティーヴィー・ワンダーのレゲエ
  • 今も色褪せない極彩色の衝撃──ボ・ガンボス特集

    1989年4月にデビュー。6年2ヶ月という短い活動期間ながら、日のロックに衝撃を与えたボ・ガンボス。1995年6月にバンドは解散、2000年1月にはボーカルのどんとも他界してしまいましたが、彼らの音楽は今もなお色褪せない輝きとメッセージを放ち続けています。 デビュー25周年を記念し、TAP the POPではどんとの20回目の命日でもある2015年1月28日から特集としてコラムを集中連載しました。 1989年のボ・ガンボスにフォーカスを絞った記事や、当時の活動を振り返る関係者へのインタビュー、またボ・ガンボスの音楽やどんとの綴ってきた歌が次の世代にもたらした影響など、さまざまな角度からバンドの魅力を切り取っています。豊富なライブ映像とともに、ボ・ガンボスの世界にぜひ触れてみてください。

    今も色褪せない極彩色の衝撃──ボ・ガンボス特集
  • あみんの素朴な”うたごごろ”が光る「待つわ」を大ヒット曲に仕上げたアレンジャーの萩田光雄

    あみんは、岡村孝子と加藤晴子という現役女子大生によるデュオだった。1982年の第23回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)に出場するため、岡村が作った楽曲「待つわ」で応募して、地区大会を勝ち抜いて線(全国大会)に進んだ。 事前にはさほど注目されていなかったあみんがグランプリに選ばれたのは、「待つわ」という歌の新鮮さが審査員にストレートに受け入れられたからだ。 10代の女性の気持ちが素直に打ち出された歌詞は、いい意味でアマチュアらしく自然体で、素朴な”うたごころ”に光るものがあった。ポプコンの審査員は全員がアマチュアの音楽ファンだったので、伸びやかな歌声と清々しくてさわやかなハーモニー、コマーシャリズムに毒されていない姿勢が共感を呼んだ。 「わ」の音韻を散りばめた歌詞も、よくできていて効果的だった。 そうした流れからポプコンのグランプリ曲の常で、何の心の準備もないまま、二人は

    あみんの素朴な”うたごごろ”が光る「待つわ」を大ヒット曲に仕上げたアレンジャーの萩田光雄
  • ”大ヒット間違いなし!”~憂歌団の日本語のブルースが始まった

    憂歌団といえば、内田勘太郎の超絶なブルース&スライドギターにのせて、木村充揮の”天使のダミ声”と称される独特のヴォーカルが歌う日語のブルースが魅力だ。 しかし、結成当初から日語でブルースを歌っていたわけではなかった。 1970年に大阪市立工芸高校で出会った内田と木村のデュオから始まった憂歌団は、高校卒業後に島田和夫と花岡献治が加わって4人となった。 その頃、京都では次第にブルースが盛り上がっていた。ある時、内田は高校時代から通いつめていた心斎橋のレコード店で、京都を中心に活動していたウエスト・ロード・ブルース・バンドのギタリストの塩次伸二を紹介され、その縁で憂歌団も京都で演奏する機会が増えていった。 京都では1973年にライブハウスの拾得が、そして1974年には磔磔が開店した。その年の5月には拾得で「ブルース・ゴールデンウィーク」というイベントが開催され、大晦日には京大西部講堂で、ブル

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  • 柴田聡子──独特な歌声と言語感覚が魅力のシンガー・ソングライター、岸田繁ら豪華ゲストを迎えた新作

    新幹線の窓から富士山が見えた 富士山見るのははじめてだった 新幹線には何度も乗ってたけれど 富士山見るのははじめてだった あいつなんかもう友達じゃないや そう思ってるんだろうな そう思ってるんだろうな 泣きたいほうが涙こらえて 富士山見れてうれしかった いなか者だからね (「スプライト・フォー・ユー」より) 鈴を振るような歌声と、イノセントな歌い回し。やさしく可憐な印象を漂わせるかと思えば、狂気や毒気がところどころに顔を出す。一度耳にすれば、確実に心に残ってしまうであろう独特な歌と言葉を味わわせてくれるのが、シンガー・ソングライターの柴田聡子だ。 1986年札幌生まれの彼女は、上京後、2010年からギターの弾き語りでライブ活動を開始。2012年に三沢洋紀プロデュースによる1stアルバム『しばたさとこ島』を発表。2015年には山精一をプロデューサーに迎えた3rdアルバム『柴田聡子』をリリー

    柴田聡子──独特な歌声と言語感覚が魅力のシンガー・ソングライター、岸田繁ら豪華ゲストを迎えた新作
  • モッチェ永井──〈2010年代の坂本九〉と呼びたくなる、朗らかでちょっぴり寂しげな歌声

    大きな身体に大らかな歌声を響かせては、日々の暮らしの小さな幸せや、ちょっとした悩みを拾い上げて歌にしていく、シンガー・ソングライターのモッチェ永井。明るい朗らかな歌声の向こうに、どこかせつなさや寂しさ、そして男の純情なんてものを感じさせてくれるのが、彼の魅力だ。 2015年に自らの名前を冠したデビュー・アルバムをリリース後は、弾き語りでのライブを中心に活動を続ける一方で、バリトンサックス奏者=浦朋恵とジャマイカ音楽をベースにしたスキヤキスを結成。また、2016年にはチャーべこと松田岳二率いる〈LEARNERS〉とのコラボによる7インチシングル「二人の愛ランド/まばたきしてるうちに」をリリースするなど、表現の幅を着実に広げてきた。 セカンド・アルバムとなる『Yeh! Yeh!』は、前述のシングルでプロデュースを手掛けた松田岳二が引き続き担当。LEARNERSやKONCOS、FRONTIER

    モッチェ永井──〈2010年代の坂本九〉と呼びたくなる、朗らかでちょっぴり寂しげな歌声
  • ポール・ウェラーの価値観を変えたザ・フーの「マイ・ジェネレーション」とモッズ文化

    ポール・ウェラーを最初に音楽の世界へと導いたのは、ビートルズだった。 「シー・ラヴズ・ユー」とか「抱きしめたい」の後くらいからかな、夢中になったのは。母がよくビートルズとフォー・トップスをかけてたんだ。ビートルズは僕に進むべき道を教えてくれたよ。 1964年からずっとビートル・マニアだというポールは、当時まだ6歳だったがビートルズのシングルが出るたびに買ってもらい、雑誌にビートルズが載っていればそれを切り抜いてスクラップするほどの熱心なファンだったという。 そんなポールは、中学に上がると友人に声をかけてバンドを結成する。1972年、14歳の頃だった。 何回かメンバーチェンジを繰り返した末に、ベース・ボーカルのポール、ギターのブルース・フォクストンとスティーヴ・ブルックス、ドラムのリック・バックラーというラインナップが固まり、彼らはザ・ジャムと名乗った。 バンド名の由来については、フォクスト

    ポール・ウェラーの価値観を変えたザ・フーの「マイ・ジェネレーション」とモッズ文化
  • デクスター・ゴードンを偲んで〜伝説のジャズメンが辿った映画のような人生の浮き沈み

    作家の村上春樹は著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)の中で、デクスター・ゴードンについてこんな風に綴っている。 「デクスター・ゴードンは、僕にいつも樹木のイメージを抱かせる。それも野原の真ん中にそびえる大きな樫(かし)の古木だ。背が高く、帽子がよく似合う、ハンサムで寡黙でクールなテナーマン。彼の音楽を好んで聴きはじめたのは大学に入ってからだった。学園紛争の真っただ中、まわりの人々がジャズ喫茶でジョン・コルトレーンやアルバート・アイラーやらの音楽に熱心に耳を澄ませていた頃…僕は遥か昔のバップ・ジャズに夢中になっていた。」 “デックス”という愛称で親しまれた伝説のジャズメン、デクスター・ゴードン。 彼はモダンジャズの代表的なテナーサックス奏者として数多くの名演奏を残したことにとどまらず、俳優としてもジャズファンを楽しませた男だった。 1923年2月27日、カリフォルニア州ロサンゼルス

    デクスター・ゴードンを偲んで〜伝説のジャズメンが辿った映画のような人生の浮き沈み