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ブックマーク / marumameko.sblo.jp (42)

  • 記事を書き換えること - こころの風景

    あるブログの記事のなかに、とても共感した文章を読みました。それは以前から私が考えていることとまったく同じで、言葉の使い方までそっくりで、「こころの風景」に書けずに“チラシの裏”に書いた“こころの風景”を盗み読みされたかと思ってしまったくらい同じで、びっくりするやらうれしいやら。駆け寄って握手を求めたい気持ちになりました。 で、「そうそう!そうですよね!」と同感の意を表わそうと思ったのですが、そのブログの読者さんたちとのコメントのやり取りを見てからと思い、数時間後に再び読みに…。記事が書き換えられていました。私が共感した部分だけが、ざっくりと消えていました。 なんだか、もやもや。梯子を外された気分。 個人ブログはそのブログ主のものだから、ブログ主が記事を書き換えることも丸ごと削除することも自由なのですが、いったん公開してから無節操に書き換え・削除をするのは考え物です。「公開」して書けば、公開

    hatayasan
    hatayasan 2009/07/19
    「webにおいて固定ハンドルネームで継続して公開で何かを書けば、何を書いたかは履歴になります。曖昧なことはできません。」
  • webでアウトプットする理由 - こころの風景

    Tristarさんがコメント欄でお書きになった、「総表現社会」という言葉についてあれこれ考えていたのですが、このテーマに関連するような気もする以下の記事を読みました。 →当に頭にいい人はWebにアウトプットしないのか? - インターネットの真の姿とは 仕事のキャリアがある人であろうとなかろうと、現実社会でアウトプットできる場と機会があり、またその「場」で反響を得たりフィードバックできたり自分を認めてもらえる人なら、わざわざwebでアウトプットする必要性を感じないのかもしれません。日曜画家や手芸を格的にやっている主婦は、サークルや個人での発表の場があればそれでだいたい満足するでしょう。個展やグループ展という機会がない、あるいはあってもその発表の場だけでは満足しきれていない人のなかで、ネットが身近であれば発表の場として「サイト(ブログ含む)」を立ち上げようという発想が浮かぶのだと思います。

    hatayasan
    hatayasan 2008/04/16
    リアルで満ち足りていたら、ウェブを見ることはあってもウェブで書くことなんかなかっただろうな。
  • 記事単位での公開設定は活路になるか? - こころの風景

    →顕在した危険、潜在したままの可能性。 - CONCORDE →ネットという場の特性をもっと分かってもらう必要性 - 北の大地から送る物欲日記 →当によかったのかな - CONCORDE ブログについての考え方が「北の大地から送る物欲日記」のhejihoguさんはいつも前向き、楽観的。 「CONCORDE」のTristarさんは「わかっちゃいるけど、なんだかなあ…」という部分に常に引っかかっていらっしゃる。 おふたりのブログを読むことが多い私は、気分やそのとき置かれた状況によって、振り子のように揺れます(笑) 今回の場合、hejihoguさんは“読まれたい人”側の視点での結論を述べていますが、Tristarさんは“(不特定多数には)読まれたくない人”の“不幸”をなんとか減らせないものかということを問題にしていると思います。私はそう読みました。 ネットという場の特性をもっと分かってもらう必

    hatayasan
    hatayasan 2008/04/11
    たくさんの人に読んでほしいけど耳障りな言葉は聞きたくない、というのはどうも虫が良すぎると思えてならないんだよなあ。
  • ときめくブログ - こころの風景

    個人ブログを読んでいるとき、ブロガーが男性か女性かをあまり意識していませんが、長く読者でいて性別がわからないと気になり出します。ところが男性女性の区別がつきにくいハンドルネームもあり、文体に性別の特徴を出さないブログもあります。ブロガーが自分のことを語る人ではない場合も、性別がわかりにくいです。そこでプロフィール欄を覗くのですが、結局性別は謎のままというブログもあります。実はちょくちょく読むブログで、書き手はなんとなく女性だと思い込んでいたら、ある日男性だったと判明して一人苦笑いしたこともあります。 しかし私の属性「主婦」での共通点が始めから見えているブログは、記事の話題が家族や家事など主婦的ではなくて「」であったり「映画」であったりネットのことであっても、女友達の話を聞いているような感じがしています。 ところで、私の学生時代と社会人の時の一時期に(いずれも遠い昔ですが)、とても良い「男

    hatayasan
    hatayasan 2008/03/28
    自分の場合は、もっとその人を知りたいと思ったときにはじめて性別を意識するくらいかもしれません。
  • 人との絆 - こころの風景

    →気を遣いすぎて逆に不快感を生じさせてしまう問題 - takoponsの意味 takoponsさん。コメント欄ではてなIDを間違えていてごめんなさい!Marumamekoさんは、人に嫌われたくないと思っておられるようだ。(たぶん) そうですよ。嫌われたくないです。正確に言うと“人に”ではなく“ぴとこさん”に“M2さんに”や今まで絆を培ってきたあの人やこの人に、ですが。知り合ってから1年や2年ではないのですから。それまで積み上げてきた関係を大切に大切に思っていますから。 広いネットの社会での小さなきっかけに過ぎなかった出会いから、今日まで交流が続いてきたのは、やはりかけがえのないご縁があったからでしょう。ちょっとしたことで不愉快にさせてしまったこともあります。それはお互いに。しかし「あれは言い過ぎました。ごめんなさい」と謝って関係を修復してきました。理解できないところもあります。それもたぶん

  • ネットコミュニケーション その2(「誰に向けて書くか」続き) - こころの風景

    前記事にトラックバックをいただきました。コメントさせていただきましたがもう少しだけ。 →ROM専の友人に向けて書くこともある - takoponsの意味  Marumamekoさんと以前から繋がりのある人で、かつ、ブロガーであるならば、一方通行というのは残念でしょう。なんとなく、ブログの傾向が違うことだけが原因ぢゃないような気もします。決して私が嫌われていると思いたくないからではなく(笑)、たぶん理由は私が彼らのブログに滅多にコメントをしなくなったからでしょう。 自分のブログを情報や意見の発信・交換のためのブログとして確立させていくに従い、takoponsさんのブログを含めた「はてなブックマーク」されるようなブログ(その記事)をたくさん読むようになり、時間がいくらあっても足りないので今までの繋がりの人のブログ巡回の数を少なくし、また読んでもコメントしないことが多くなり…という経過を辿った結

    hatayasan
    hatayasan 2008/03/26
    それでも配慮しながら書き続けるか、場所もidも変えてつぶやくか、ウェブで書くことから遠ざかるか。コメント欄。
  • 誰に向けて書くか - こころの風景

    3月17日記事「ネットコミュニケーション  」に「はてなブックマーク」にてコメントをいただきました。 多少私の記事の意とずれた視点でのコメント(一般的な視点でなら同意なのですが)でしたので、補足及びぶっちゃけた言い訳を交えながらお答えします。 実はそれは、私がブログを書くときにいつも想定している人たちとは誰か、つまりどんな人たちに読んでもらいたくて書いているか、誰に向けて書いているかということに繋がってくるのです。 →ネットコミュニケーション - こころの風景「はてなブックマーク」エントリーページ hatayasan さん 反応を前提にしない"コミュニケーション"ってのも、あってもよさそうな気がする。ブログが情報発信系の場合、コミュニケーションをブログの前提にはしていないでしょう。私自身、ブログをコミュニケーションの手段にしていません。それでいて、私のブログに対して以前から繋がりがある人

    hatayasan
    hatayasan 2008/03/19
    趣味の付き合いでの指摘やアドバイスは、気づいてもらうまではできてもそこから先は本人の価値観に踏み込みかねないので難しい、といつも感じます。
  • ネットコミュニケーション - こころの風景

    トラックバックというブログでこそのコミュニケーション 前記事「ブログはコミュニケーションに向かない  」では気持ちが先行して単なるボヤキを書き、ろくに推敲もせずにUPしたのでしたが、かえってそういう記事の方が人の心にストレートに届くようです。個人ニュースサイト「明日は明日の風が吹く」に取り上げていただいた([ネット]ブログのコメント欄レベルでも、昔のサイトの頃よりコミュニケーションが出来るだけマシとは思う……よ )ことから、トラックバックをいただきました。 →「雑談あってのつながり」と思うと、たしかに辛い仕組みですね。 - CONCORDE もう少し限定して言うと、雑談には向かない。 そうそう! (中略) 雑談なくして(継続的な)つながりは生まれにくい。論客同士とか真面目一徹な方面ならいざしらず。 "気が合うひと"とのおしゃべりを楽しむ、ことにネットワークコミュニケーションの楽しみを感じる

    hatayasan
    hatayasan 2008/03/18
    反応を前提にしない"コミュニケーション"ってのも、あってもよさそうな気がする。
  • ネット(web)の面白さのそこら辺 - こころの風景

    最近読んだ記事にあった「webはニュースとヤフオクくらいにしか用がないそこら辺の主婦」というフレーズに引っかかり、その記事の論旨とは関係なく、webのそこら辺について考えてみました。 まず“そこら辺”(その辺)という言葉が使われる状況としては (1)遠くない場所を漠然と示すとき。その辺り・その近所・その付近の意 (2)その程度の意(用例;そこら辺でやめておかないと…) (3)それに関すること(用例;そこら辺をよろしく…) ですので、前段落で私が「そこら辺について考えてみました」の場合の使い方は(3)になります。 では先に挙げた記事ではどうかというと、(2)の使い方あるいは(1)、もしくは(1)と(2)の両方の意味を込めた使い方だと思います。またこの事例がそうだとは言い切れませんが、“そこら辺の”と言うときに、意識的にまたは無意識のうちに若干の揶揄や嘲けりを込めている場合もありそうです。いま

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/26
    「そこら辺の人が書いたものでも、そこら辺ではない人が書いたものでも、そこら辺ではない情報に接したとき、私は「web万歳」という気持ちになります」予断なく文章に接することができるのもウェブのいいところ。
  • ふたつのネット社会を行き来して - こころの風景

    ※この記事は前記事「RSSリーダーはフツーのユーザーには無理と切り捨てて良いのか」の続きです。なお、作文スキルがなくて長文ですが、分けたくなかったのでなにとぞお許しください。 昨年3月に私の別ブログでRSSリーダーを紹介する記事を書いたとき、『一つ一つ丁寧にアクセスし、画面の向こうにある人間臭さや生活感を感じていたいという思いもあるなぁ』というコメントをいただきました。その感覚はおそらくフツーの人の感覚であり、ネットを人との交流目的だけでやっているだろう大多数の、フツーのユーザー層の感覚だと思います。 それはそれでわかるけれど、アクセスしたい場所が増えてくるとそうもいかなくなってきます。 こちらのブロガーさんはこんなふうに表現しています。 →iso no blog:僕がRSSリーダーを使わなかったわけ 効率化をカルマとするネット右翼の方々には怒られそうですが、単純に効率化したくなかったんで

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/22
    属したり観測する範囲が広いからこそ見えてしまう、感じてしまうもどかしさや苛立ちもあるんだろうな。
  • 情報格差に気づいていますか(2) - こころの風景

    【お願い】長いので(1)と(2)に分けました。「情報格差に気づいていますか(1)」からお読みください。 -- 情報格差は広がるばかり -- 「情報格差」というと、かつては過疎地と都会におけるITインフラ整備の格差が問題になっていました。しかしすでに数年前からパソコンの技術やインターネットの情報を使いこなせる人間と使いこなせない人間の間に生じる格差が問題視されるようになってきて、政府による研究会まで開催されています。原因として学歴や貧富の差なども挙げられることがありますが、国民の識字率・学歴が高い日においてはあまり重要視しなくてもよいと私は考えます。 では、情報リテラシーをどんどんレベルアップしていくユーザーと、いつまでも情報リテラシーを上げられないユーザーとの違いはどこにあるのでしょう。 前ページ(1)で挙げたblogタイプの人は、たとえばアクセスを増やしたいと願えばアクセスアップのコツ

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/19
    ウェブをテレビにように受動的に消費するものととらえるか、知りたいことを知るために歩いたり調べたりするものとしてとらえるか、そのあたりの違いなのだろうか。
  • 情報格差に気づいていますか(1) - こころの風景

    パソコンの動作がおかしい場合、あなたはインターネットで同じような事例を探し、自力で解決しようとしますか?あるいは詳しい人に聞きますか?はじめから業者に修理を頼みますか? 写真をブログに載せるために、トリミングやレタッチするグラフィックソフト。パソコンに入っている「ペイント」より高機能なソフトが欲しくなったとき、あなたはすぐにソフトを買いますか?無料でダウンロードできるフリーソフトにも、結構使えるものがあるのを知っていますか?最近ではソフトではなく、気軽に利用できる画像編集ウェブサービスさえもあることを知っていますか?さらに問えば、フリーソフトや新しいウェブサービスでもひるむことなく利用できますか? ブログのデザインをカスタマイズしたい、画像の並べ方を工夫して読みやすくしたい、引用が著作権侵害かどうかが気になる…そんなとき、あなたはインターネットで情報を素早く的確に探せますか? そしてネット

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/19
    YahooユーザとGoogleユーザの違いのようなものがますます顕著になっているのだろうか。cf.http://d.hatena.ne.jp/hatayasan/20060608/1149700726
  • 思索するという楽しみ - こころの風景

    大学生の勉強時間と読書時間が減っているんだとか。昨夜のテレビニュースで、調査報告だとか、大学生へのインタビューだとか、海外との比較とか、研究者のコメントとかのトピックスを見まして。 大学は学生を簡単に卒業させないほうがいいんじゃないとか、義務教育と高校教育に問題があるのか?とか、知識詰め込み教育より考える力を養う教育?とか、あぁ日の将来は暗いとか、豊かさが原因?とか…思ったけど、そういうのは脇においておく。 言いたいのは、人間の一生のうちでニューロンの数が一番多い時期に、学んだり思索したりして脳細胞を使わないなんて、なんともったいないことよ…ということ。学ぶことや思索することは社会人になってからでも出来るけど、ハタチ前後の頃に読書し学び思索していたかどうかは、結構大事だと思うな。その後の生き方に案外大きな影響を与えると思う。あの頃の私があって今の自分…みたいな。 もちろん「学習」も「思索

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/04
    「ランニングハイというのがあるんだから、「シンキング(thinking)ハイ」…だから私にとっては「学ぶこと」と「思索すること」は喜びというより、“悦び”といったほうが正しい」知らないことを知る喜び、というか。
  • お気に入りブログの見つけ方 - こころの風景

    みんな、面白いブログや記事をどうやって見つけているのでしょう。 興味を同じくするブログ、書き手と生活感覚が似ていそうなブログ。求めている情報があるブログ、便利なtips満載のブログ、仕事に役立つ情報をどこよりいち早く教えてくれるブログ、人間としての成長の糧になりそうな記事。読んで楽しいブログ、愉快な文章、心温まる文章、胸にじ~んと沁みる文章。 誰でも自分にとってピピッとくるブログや記事を読みたいものです。たとえ巡回先のブログが面白くても、たまには別の話題も読みたくなったり、交流やインプットのための範囲を広げたいと思っている人は多いのでは? お気に入りの範囲を広げるには、偶然見つけて読み始めたブログのお気に入りリンクを辿るというのが常套でしょうか。ミクシィに代表されるSNSで、マイミクのマイミクを辿ることもありますね。ひとことブログ系のミニブログでも出来ないことはありません。国内のミニブログ

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/03
    「もしネットにコミュニケーションの要素がなければ、ネットをやっていないと思います。」2本もリンク張っていただいて恐縮です…
  • 農薬入り餃子事件とツイッター - こころの風景

    とほほ、回収対象商品を購入していました(笑) 在宅してテレビをつけていた私は、初め「中毒事故」として流れたニュース速報を気に留めることもなかったのですが、しばらくして生協が扱った商品での毒物中毒事件だとの続報にびっくり。速報のテロップに見覚えがある商品名が流れたので、もっとびっくり。すぐに冷凍庫をチェック。うん、やっぱり。 他の回収対象商品リストをメモしたかったのですが、テロップからでは無理。そこで報道サイト、輸入業者のサイト、日生活協同組合連合会のサイトをチェックしましたが、まだ「お知らせ」として更新されていませんでした。地域の生協サイトは激重で開くこともできません。 なんとなくですが、情報をネットに流しておこうとの考えが頭に浮かび、ツイッターにポストしました。といっても私のツイッターはfollowingもfollowersも(どちらも簡単にいえばfriends)がいないに等しいので

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/01
    Twitterを緊急時に情報を伝えるツールとして使うのなら、やっぱりfollowerは多いほうがいいのでしょうね。
  • 「ブログはボトルレターのようなもの」という考え方 - こころの風景

    「ブログはボトルレターのようなもの」という考え方が好きです。いや、好きなんていう生半可なものじゃない。惚れ抜いています。心中覚悟です(笑) 先日この記事を読んで、つくづくそう思いました。 →ブログ=ボトルメール、という距離感。 - 不倒城 私が「ブログはボトルレターのようなもの」という考え方と表現に、初めて胸がきゅ~んとなったのはyas-toroさんのところです。当時の私はまだ「はてなブックマーク」の習慣が身についていなかったのであやふやなのですが、該当記事はたぶんこちら。 →記憶の中にある楽園、これから作っていく楽園 - ひとりごと ボトルレターを毎日海に流して、誰も受け取って貰えないと思っていたけれど、実際は誰かに届いていたのだという事。これは凄く幸せな事だと思えた。勿論、流した数に対して拾われたという反応を貰える事は、パソ通時代に比べたら何百分の一かもしれない。でも「0じゃない」。ブ

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/28
    ネットに文章を流すのは、自分の分身に旅をさせる感覚に似てると言った人、誰だっただろう?
  • 表現すること(メモ) - こころの風景

    昨日のエントリにしても某ブログへのコメントにしても、どうも奥歯に物が挟まったような書き方しかできなくてモヤモヤしている。やはり自分自身へのメモとして書いておく。 昨年11月のある一件以来(注:最下段参照)、「丁寧に暮らす」という表現、そして似ているニュアンスの「地道にコツコツ努力」とか「ひとつひとつ努力を積み重ねることが大事」といった類の表現に出会うと、頭の中に≪ちょっと待てよ≫のサインが出るようになってしまった。そういう言葉が胡散臭いとまでは言わないけれど、説得力がないというのか、書いている人自身の言葉ではないから響いてこない。 「地道にコツコツ努力」とか「ひとつひとつ努力を積み重ねることが大事」というのはその通りなので、読む人に心地よくスッと入ってくる。そしてこういう便利な表現は、細かいことを端折ってもなんとなく伝えられる。 しかし安直に出来合いの表現に頼ると、自分の思考がそこでストッ

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/24
    「自分の体験や感性からほとばしる言葉、苦しみながら搾り出した言葉を読みたいし、使いたい(自戒を込めて)のだ」文章の巧拙を問わず、響く文章というのはあるように思う。それはその人を文章からたどれるから?
  • 柔らかな頭と心 - こころの風景

    自分とは違う発想や考え方をする人が書いたものを読むと、「目からウロコ」だったり「ガツンと一発殴られて」目が覚めたり、目の前が開けたりすることがあります。ブログについて言えば、「読む=インプット」では、自分の考えの裏付をしてくれそうな記事ばかりを選んでしまい勝ち。「書く=アウトプット」でも、おおかたは記事に対する同意・共感の「そーだそーだ」と、中には「ヨイショ」のコメント。それだけを読んで満足していては(もちろんうれしいですが)、他の立場や社会を見るきっかけは失われて、見方や考え方が狭くなってしまいます。 私は自由に生きたいから、固定観念や自ら築いた信念からも自由でいたいと思います。常に「柔らか頭」でいたいものです。 ところが「頭」は柔らかにしていることはできても、困難なのは「感情」からも解放されることです。「その考え方は嫌い、肌に合わない」と、生理的な感情で拒絶してしまうようなことは往々に

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/23
    「(ネットの)インプットとアウトプットは柔らかな頭と心が大切で、また使い方次第でそれを育んでくれるものであると思うのです。」人を好きになる、嫌いになるあたりの感覚にも通じそう。
  • 更新停止のその日まで - こころの風景

    私は凡庸な人間ですから、書いても多くの人を楽しませるわけでもなく、誰かに影響を与えることもないわけです。だからブログのモチベーションは結局のところ「自己満足」。ネットはニッチな情報を知りたい人たちにとっての情報源でもあり、いつどんな人がどんな場面でアクセスして読んでくれているかわからないので、凡庸なブログであっても誰かの心に響いたり役に立っているかもしれません。そうは思っていても、たとえそれを実感することがあっても、それだけで書く気力を持続させていくしかないというのもしんどいです。 交流を目的にしているブログや、結果として交流が発展していくブログなら、そういうしんどさやさみしさ、虚無感が薄れるとは思います。でも交流(交流とまでいかない「触れ合い」をも含めて)、ネットだけの人との繋がりもまた不確かで、はかないものです。 たとえ凡庸な人間が考えたことでも感じたことでも、表現することに価値を置く

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/20
    「更新停止のその日、ほんの少しでも「何かを遺せた」と得心するよう、「自己満足」のラインを上げることが大事なんじゃないか」
  • 私は何を遺せるのか - こころの風景

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/20
    「ネットに私が「いた」という証しが消滅するときを 満ち足りた思いで迎えることができるだろうか」