ぐでちちwith10y♀5y♀ @gude_chichi 「それで」と妻は部屋を見回して言った。 「あなたは何を見ていたのかしら」 壁に広がったクレヨンは、ジャクソン・ポロックの前衛絵画に似ていた。 「見ていたよ、ずっと」 「いいえ、見ていないわ。結局のところ、あなたは何も見ていないのよ」 妻の言うことはもっともだった。 #村上春樹で語る育児 2019-08-28 21:11:10 月光ほろほろ @horohoro_g 「それで」妻は言った。「どうして貴方は寝かしつけもせずに際限無くあの子と歌っていたのかしら」「それは見解の相違さ」僕は控えめに言葉を紡いだ。彼女にとってこれはすでに弾劾裁判なのだ。「僕だって知らなかったよ。夕食後に一緒に歌を歌うだけで興奮して眠らないなんて」 #村上春樹で語る育児 2019-08-29 15:08:08 雅樹 @masazeroque 「何故こんなになるまで
10日発売の『文藝春秋』に芥川賞の選評が載っていて、二回連続で落選した古市さんがいろいろ言われている。 候補作は単行本で出版されているが、まだ読んでない。だが、高学歴なのにビルの窓の清掃員をやってる主人公の話で、参考文献が詳細にあげられているらしいことは、なぜか知っている。 参考文献については、前回だったか、候補作の剽窃問題があって、その辺の対策らしいと噂されていた。 で、選評である。 まず山田詠美はこう書く。“(参考文献の)木村友祐作「天空の絵描きたち」を読んでみた。 そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい” “候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっとずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなって来る” 続いて川上弘美。“結論からいいます。わたしは悲しかった。木村友祐さんの声がそのま
1873年、明治新政府がキリスト教を解禁してから多くの宣教師が来日しました。今日までの約150年間、来日宣教師のうち、約300人が日本語で著述し、約3000冊に上る日本語書籍を刊行しています。日本滞在の外国人に関して言えば、宣教師のように使命感に駆り立てられて、矢継ぎ早に日本語を用いて著述する「職業」はほかにないといえるでしょう。 本研究は、1860年代から21世紀までに来日した宣教師が日本語で刊行した作品群を検討し、これらの書物が果たした日本文化への貢献を総合的に解明することに努めるものです。 2018年4月 研究主宰者/郭 南燕(日本語文学者) 新着情報 2020/06/03 著作目録 外国人宣教師日本語著作目録ハ行PDFの公開 参加者: 郭 南燕、石上 阿希、増田 斎 日時:2020年6月3日 場所: 2019/04/01 著作目録 外国人宣教師日本語著作目録 ナ行 PDFの公開 参
谷沢 永一(谷澤 永一、たにざわ えいいち、1929年6月27日[1] - 2011年3月8日[2])は、日本の国文学者、文芸評論家、書誌学者。専門は書誌学[3]、日本近代文学[3]。関西大学名誉教授。 来歴[編集] 大阪府大阪市出身[1]。大阪市立大江小学校[1]、旧制大阪府立天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)を経て[1]、1947年関西大学予科に入学[1]。1952年関西大学文学部国文学科卒業[1]。1955年関西大学文学部助手[1]、1957年関西大学大学院文学研究科博士課程単位取得[1]。1959年同大学文学部専任講師[1]、1962年同助教授[1]、1968年同教授[1]。1972年「日本近代文学評論史研究」で関西大学より文学博士の学位を取得[1]。 1980年、書評コラムを集めた『完本 紙つぶて』でサントリー学芸賞を受賞[1]。1989年、明治・大正期の文芸評論史研究
草森 紳一(くさもり しんいち、1938年2月23日 - 2008年3月19日)は、日本のマンガ、広告、写真評論家。 生涯[編集] 北海道河東郡音更村(現・音更町)生まれ。長男の渡部幻は映画批評家で編集者。長女の東海笑子は翻訳家。 北海道帯広柏葉高等学校を経て、1浪後慶應義塾大学文学部に入学して中国文学科に進む。大学時代は奥野信太郎や村松暎に師事。また慶應義塾大学推理小説同好会に参加、このときの先輩に紀田順一郎や田波靖男がいる。 映画監督を志望し、1960年に東映の入社試験を受けたが面接で失敗。 1961年、大学卒業後は婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に入社し、『男の服飾』を『MEN'S CLUB』に改名する発案をする[1]。編集室にあった『ELLE』『Mademoiselle』『PLAYBOY』『COSMOPOLITAN』『GQ』等に刺激を受ける[1]。その後『婦人画報』編集部に移り伊
「完璧な焼肉などといったものは存在しない。完璧な牛が存在しないようにね。」分かるような気がしますと僕は言ったが、その本当の意味が理解できたのはそれからずいぶん後のことだった。 僕が生まれたのは一九八二年の十一月二十九日だ。つまり――いい肉の日ということになる。記念的といえば記念的と言えなくもない。でもそれを別にすれば――僕の出生に関して特筆すべきことはほとんど何もない。 幼少期から僕は焼肉が大好きだった。その因果関係は不明だが、人よりもずいぶん太っていた。ロックミュージシャンが野外フェスで流すほどの汗を、僕は身動きもしないで流すことができた。 その焼肉店を教えてくれたのは、僕が通う大学の同級生だった。大学に入学後、三番目に寝た女の子だ。彼女は僕が焼肉好きであることを知らなかった。 「私も焼肉が好きでその店には何度か行ってたのよ。前から。ほら、私も幾分か人より食べるのが好きだからね。でもあな
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