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過去記事と倫理に関するhokusyuのブックマーク (3)

  • 倫理の根源は呼びかけにある - モジモジ君のブログ。みたいな。

    5月9日の記事(応答責任、再論)から、sivadさんの4月の記事にトラックバックを送ったところ、さっそくお返事をいただいた。>倫理の根源は想像力にあると思う@赤の女王とお茶を ここでsivadさんが「想像力」というキーワードを提起したことで、違いがより鮮明になってきたと思う。以下、議論したい。 ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか(以上、kanjinai氏の記事からの引用) への答えは「言える。ただし、加担していない、とも言える。」になります。可能かどうかということであれば、いずれも可能というしかありません。 この部分に、まず同意できない。元の文を次のように言い換えてみよう。「私は他人を見殺しにした」。意味合いは変わっていないと思うが、こう書き直せば明瞭であるように、これは事実についての命題である。そして、事実命題と

    倫理の根源は呼びかけにある - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 真実の中にしか生きられない人と共にあることは可能か - モジモジ君のブログ。みたいな。

    姥捨山問題をめぐって広がった論点のひとつが、「それを人に向けて言うこと」の妥当性だった。たとえば、uumin3氏が、自分の記事の中で自身のコメントを引用している。 uumin3 『こんにちは。私が真っ先に書いたようなんですが、私もいろいろ皆さんの意見を見ました。見た限り大体が「他人をそれで責めるのをやめれ」というご意見だったと思いましたよ。/うちのとこでも「自分に向けて言うのはありだけど」って書いてましたし、……(「詐術2」@uumin3の日記) この問題を巡っては単純化して言えば、「見殺しになるか」という問題と「見殺しになることを、口にするべきか」という問題の両方がある。これまでは前者に限った話しかしてこなかったが*1、今回は、この後者の問題について考える。 応答責任について、何度か述べた*2。このことは、この問題とも大きな関わりがある。 助けを必要とする誰かを目の前にしている。私と、そ

    真実の中にしか生きられない人と共にあることは可能か - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 小児性愛の何を問題にしたいのか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    demianさんの記事とか読みつつ。>「最近のいろいろ」 セクシャルマイノリティ、という一般化 どうもこうしたテーマになると、同性愛者を迫害したり、SMやフェティッシュな志向を持つ人たちを鼻つまみものにしたりというのと同じことを小児性愛者や子供と恋愛関係になってしまう人に対してやってしまう人が多いなと。 これらはすべて、「成人対象の異性愛」という規範からの逸脱として同列に排除されてきた、という歴史はある。しかし、その意味で同列に扱われてきたということは、その含む内容において同列に扱うべきものだということを意味しない。だから、上記引用部におけるdemianさんの指摘は納得がいかない。 そもそも、同性愛やSMやフェティッシュのなにが悪いのか、僕にはさっぱりわかない。べものの好き嫌いとなんら違いが見出せないからだ。批判者の言説においても、それ以上のものを見たことがない。しかし、小児性愛において

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