20:490 サルトルは次のように述べている。 もし社会がそれ自身を見、殊に自分が見られているということを見るならば、そのこと自体が樹立された価値や体制への異議申し立てとなる。作家は、社会に社会の姿を示して、それを受け入れるかそれを変えるかすることを求めるからだ。そしてとにかく社会は変る。社会は、無智のおかげで保っていた平衡を失い、恥辱と冷笑との間で動揺し、自己欺瞞を行う。このように作家は社会に不幸な意識を与える。*1 サルトルの言葉が正しければ、社会に「不幸な意識」を与える作家の活動が意味をもつためには、まずその前提として、当該社会自身に「自分が見られているということを見る」力が備わっている必要がある、ということになるのではないだろうか。 1 昭和天皇裕仁は、日本帝国主義の被害者であるアジアの民衆の前で、己を恥じたことがあるだろうか。あるいはアジアの民衆の前で恥じる様子がない裕仁を見て