940(天慶3)年の今日、下総国猿島郡(茨城県)で討たれた。平将門は農耕期を前に兵士の大半を村に帰らせ、側近などわずかな兵のみを手元に置いていたが、この隙を突いて藤原秀郷・平貞盛らが4000の軍勢で攻め込んで、あえない最期を遂げたとされる。 だが、実は最後の決戦の時もかなりの接戦だったようだ。 飛び道具が弓矢しかない時代、合戦には風向きが重要だったが、当初、将門側に強い追い風が吹いていた。さらに当時の伴類(ゆるやかな同盟軍)は不利になると逃げ出してしまう。追い風を利用した将門の猛攻を受け、秀郷・貞盛軍の伴類2900人が逃げ出し、残ったのはわずかに精兵300人(川尻秋生『平将門の乱』吉川弘文館、2007年)。 一時は、200人対300人ぐらいの戦いだったらしい。この時点ではどう転ぶかわからなかったが、夕方になって風向きがかわり勝敗が決した。最期は一閃の矢が将門のこめかみを射ったという。 俵藤
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