カントは、趣味判断の客観的妥当性と規範性を判断力によって基礎づけようとした。しかし、趣味判断を支える判断力そのものが、サロンのような歴史的・社会的装置によって実現される以上、その規範性(の内容自体はアプリオリで規範的であるが、そ)の歴史的成立は、偶然的である。 美的判断は理屈ではない、と言われる。しかし、批評は理屈によって文化闘争に参加する。つまり、作品の良さは、一方では直観によって理解されるのだが、他方でそれは、理屈によって理解を深められるということになる。これはいかにして可能であろうか? 芸術批評は、それ自体独立した価値を持ち得るのであろうか? たとえば、ベートーベンの第九シンフォニーの冒頭部分で、不安な混沌とした効果を与える印象的な部分がある。それはニ短調のラドミの和音のうち、ラとミの音だけが出現し、数小節の間これがニ短調のラとミの音であるのか、それともヘ長調のドとソの音であるのか、