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ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (11)

  • ララビアータ:美学散歩(5)判断力 - livedoor Blog(ブログ)

    カントは、趣味判断の客観的妥当性と規範性を判断力によって基礎づけようとした。しかし、趣味判断を支える判断力そのものが、サロンのような歴史的・社会的装置によって実現される以上、その規範性(の内容自体はアプリオリで規範的であるが、そ)の歴史的成立は、偶然的である。 美的判断は理屈ではない、と言われる。しかし、批評は理屈によって文化闘争に参加する。つまり、作品の良さは、一方では直観によって理解されるのだが、他方でそれは、理屈によって理解を深められるということになる。これはいかにして可能であろうか? 芸術批評は、それ自体独立した価値を持ち得るのであろうか? たとえば、ベートーベンの第九シンフォニーの冒頭部分で、不安な混沌とした効果を与える印象的な部分がある。それはニ短調のラドミの和音のうち、ラとミの音だけが出現し、数小節の間これがニ短調のラとミの音であるのか、それともヘ長調のドとソの音であるのか、

  • ララビアータ:美学散歩(4)サロンの歴史―仮説的補論 - livedoor Blog(ブログ)

    ちなみに、フランスで文化闘争がサロンの政治的覇権争いという形をとったのには、歴史的背景があった。このようなことは、主にフランス、ドイツで生じたことであり、英国では見られなかった。英国では、ブルジョワジーはすでに議会で貴族との同盟を結んで政治の中心になっていたからであり、そこに文化人が入り込む余地がなかったからである。(このことは、マシュー・アーノルドのような文化人が、ドイツやフランスに対して持っていた憧れを説明するだろう。)フランスのサロンの代わりに、英国ではクラブの伝統が存在するが、それは女性を排除した情報交換会のようなもので、芸術批評とは無関係である。 そこでは、才覚あるユダヤ人がディズレーリのように権力の頂点に上り詰めることもできたが、文化領域で特段の活躍をすることもなかった。イギリスでは、議会を通してブルジョワジーが長い統治の経験を積んでおり、己れの統治に自信を持っているため、文化

  • ララビアータ:美学散歩(3)社交界とユダヤ人 - livedoor Blog(ブログ)

    十九世紀末から二十世紀にかけて、澎湃として反ユダヤ主義の嵐が巻き起こるが、他方においてプルーストの小説におけるスワンのように、裕福なユダヤ人が上流社交界において目覚ましい活躍を見せるということがある。ここには何か重要な関係があるのであろうか? 反ユダヤ主義ついて、詳しい労作(『全体主義の諸起源』第一部反ユダヤ主義)をものしたアレントを導きの糸にしながら、この問題に肉薄しよう。 絶対王政下では、ユダヤ人は宮廷の金貸しとして重要な役割を果たしている。しかし彼らは、国家事業(軍需、徴税、貨幣鋳造、鉱山、塩など)とだけ関係した。製造業はユダヤ人の関心の対象ではなかったのだ。技術開発など産業資主義に適応するエトスがユダヤ人には希薄だったからである。 以後、長い間ユダヤ人金融家は、国家の側からは財政を支えながら(社会的異分子であるため)政治的野心は持たず、またユダヤ人同士の国際的ネットワークを持つこ

  • ララビアータ:美学散歩(2)批評と社交界 - livedoor Blog(ブログ)

    実際に芸術批評が、いかにしてある種の規範的議論を実現し、どのような普遍性を打ち立てるのかを見るためには、社交界の役割に注目しなければならない。 フランス・オートクチュールの伝統に挑戦し、20世紀のファッションに多大な影響を与えたココ・シャネルの場合を取り上げてみよう。彼女のファッションは、女性の社会参加とそれに適した着心地という観点抜きには成立しない。コルセットでウエストを締め上げ、スカートをたっぷりと膨らますようなスタイルを一新したココ・シャネルは、初期のフェミニズムの文化闘争とともに進撃したのである。 シャネルの提示した文化的価値理念は、「客観的に」正しいとか間違っていると決定できるようなものではないだろう。それを好意的に見る人たちは、それと一体となった女性の社会参加を望ましいと考え、その生活スタイルに共感を持っていたのであり、その理念に加担することなしに、ただ趣味がよいとか悪いなどと

  • ララビアータ:美学散歩(1) - livedoor Blog(ブログ)

    カルチャーセンターで、近代芸術について講義することになったのをきっかけに、美学について考察することになった。これから何回かにわたって、美学的話題について論じてみたい。 ヘーゲルは、芸術を「絶対的理念の直観的表現」と見なした。ここにはすでに、近代芸術の前提が現れている。というのは、近代以前には、我々がおしなべて芸術と見なす諸々の作品群を、芸術という統一的なジャンルと見ることはなかったからである。アクロポリスのアテナイ神殿の破風を見上げるとき、アテナイ人たちは、我々のように単に「芸術的感動」を感じたはずはない。そこに描かれた巨人族との闘いは、彼らには自分たちがペルシア人たちを撃破したときの光景を表現したものとして感じられていたに違いないのであって、そこに現れていた作品の光輝は、彼ら自身の軍事的・政治的偉業の反映でしかなかった。芸術作品の美は、もっぱら政治的価値の付随的装飾でしかなかったわけであ

  • ララビアータ:東村アキコ氏の『かくかくしかじか』(集英社)について - livedoor Blog(ブログ)

    この作品における東村氏のすばらしい達成については、原作にあたっていただくほかはない。ここではただ、それがなぜ成功しているのか?それにもかかわらず、どのような問題をはらんでいるかという点に限って論じておきたい。(以下ネタバレあり) 一方ではこの作品は自伝であり、他方では天才漫画(スポーツ・根性漫画、またはスーパーヒーロー漫画)の一種でもある。 自伝としての難しさは、その観点の取り方にある。それが成長を描く以上、主人公の観点の変化を描かねばならないが、その場合、語り手と主人公の距離の取り方が難しい。 この点でこの作品が成功を収めているのは、初めからこの距離を自明のものとは見ず、まずはそれを一つの謎として描き始めていることによる。作者は、常に現在の時点を描きつつ、過去との距離を測定している。それ故そこには、描きつつ発見されてくるものがあるのだ。読者は、作者とともにそれを常に考えるべく誘われるのだ

    kabutomutsu
    kabutomutsu 2015/10/24
    例によって箴言の嵐。しかしなぜいま?とも思ったけど、”作家自身も本当は信じてもいない「道徳」に屈する。それも、大衆を敵に回すのを恐れるからにすぎない。” って、騒動をご存知なうえのエールか
  • ララビアータ:戦闘的自由主義(2) - livedoor Blog(ブログ)

    自由主義は、18・19世紀の政治において決定的な役割を演じたが、19世紀半ばごろから、労働者階級に対する警戒心からその理念をブルジョワジーが裏切るにしたがって、理念と現実との間に大きな乖離が生まれ始まる。これまで自由主義の理念の推進役であったブルジョワジーは、治安の維持を優先して自由の理念を形骸化させるに至るからである。その結果、それは自由競争と経済的自由に縮減されてしまう。 より後進国になるにつれて、ブルジョワジーの力が脆弱であり、国家に依存する傾向があり、相対的に反動的な役割を果たしがちである。それゆえマルクスは、ブルジョワジーが振り捨てた自由の理念を実際に担い、最後まで遂行するのは、プロレタリアートだと考えた。 イギリスで自由の旗振り役であったブルジョワジーは、フランス大革命において同様の役割を演じたが、1848年の革命ではすでに労働者の鎮圧の方に回っており、ドイツでは48年の革命に

  • ララビアータ:戦闘的自由主義 - livedoor Blog(ブログ)

    「安保法制」に対する闘いが新しい局面に入ったので、これまでの政治闘争の中間総括をしてみたい。もちろん極めてテンタティヴなものであらざるを得ない。 我が国の政治で、もっとも脆弱な理念は自由(主義)の精神ではなかろうか? 我が国の近代化は、広い意味で開発独裁と言えるような方向で進められてきた。戦後は、進駐軍と自民党一党独裁のもとで、この傾向はかえって強まった。 進駐軍の政策の中で、もっとも成功したものは農地改革であろう。それによって、我が国は明治以来抱えてきた近代化阻害要素を払拭できたのである。農村部における前近代的社会関係がいかにその国の近代化を阻止するか、またその克服がいかに困難かを理解することが、我が国の近代史を理解するための補助線として極めて重要である。またその思想史を理解するためにも不可欠である。 いはゆる講座派から柳田国男に至るまで、農村部における近代化の問題に頭を悩ませていたので

  • ララビアータ:稲葉振一郎氏への応答 - livedoor Blog(ブログ)

    稲葉さま 貴方のコメントは、貴方ご自身のブログに掲載されたものであり、わたくしへの私信ではなかったと思ひます。それゆゑ、わたくしがそれに応答しなかったことが礼節にもとるものとは思はれません。むしろ、他人のブログに出向いて行って応答を展開するのがご当人に迷惑なのではないかと忖度して遠慮してゐただけです。(もちろん、貴方がわたくしのブログにご訪問くださり、ご批判を頂戴することは、わたくしにとって迷惑などではありません。むしろありがたいことであるのは言ふまでもありません。)ご批判が周到な理解に裏付けられたものであり、応答が実りあるものになりさうな場合は、公開の場で反批判を組み立てるのも面白いかとは思ひますが、あなたのご批判は、もともとわたくしの問題意識を理解もせず、低次元の憶測に基づいてなされてゐるだけですから、応答には値しないと思ってゐたのです。それにもかかはらず、いけしゃあしゃあといっぱしの

  • ララビアータ:国会包囲闘争を闘って - livedoor Blog(ブログ)

    残念ながら、世紀の悪法「秘密保護法」を阻止することはできなかった。今の段階でそのことについて、私自身の反省と考察を記しておきたい。 今般の闘争は、参議院選挙における歴史的敗北から、すでに敗北への道を進んできた。我々は、いや私は、あの選挙に絶望するあまり、しばらく政治やニュースに対するおおかたの関心を失っていた。テレビを見るとそこに映し出される面々が、政治家はもちろんニュースキャスターやテレビタレントに至るまで、ことごとくが腐臭を放っているように感じられて、自分の健康を維持するためにも、かなり長くそれらから遠ざかっていた。 これを思うに、我々の敗北が、すでにその敗北感自身の中に根をもっていたということである。私はもちろん、そのような個人的感情を吐露するようなことはしていないし、そのような発言が政治的に極めて貧しく愚かしい結果につながるしかないことを、常に強く意識してきた。絶望は口に出すべきも

    kabutomutsu
    kabutomutsu 2013/12/10
    ”・・・コケにしてやる必要がある。なぜなら、たとえば安倍晋三の頭の悪さ、石破茂の顔の醜さ、麻生太郎の無教養は、彼らの極右ファシズムの本質の一部だからである”
  • ララビアータ:憲法96条の改正 - livedoor Blog(ブログ)

    首相が今憲法96条に限って改正を進めようとしている。記者会見で、国民投票で過半数の国民が改正に賛成していても、国会議員の三分の二を少し足りない議員の賛成では改正できないのではおかしいのではないか、という意味のことを語っていた。この点について憲法学者の発言が表に出てこないようなので、疑問の点を私なりに素人くさく議論してみよう。政治的な議論(ならびに広い意味でイデオロギー的、ないし価値観に関しての議論)は当然あるだろうが、ここではそのような点に関してではなく、あくまでも法理論的な側面に関してだけである。それと言うのも、首相の提案はそのイデオロギー的色合いを粉飾して、あくまでも純粋に法理論的・形式論的な議論として、それを進めようとしているからである。 初めに、憲法改正はどのような内容であっても、96条に定める手続き(国会の両院の三分の二以上の賛同を得て改正を発議し、国民投票の過半数をもって改正で

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