極東ブログ id:finalvent 氏による書評から、池田先生の文章を又引用。 資本主義とは、現代の企業理論でも、資本家が物的資本の所有権をテコにして労働者を支配するシステムであり、その有効性は人的資本や知的労働の重要な情報産業では低下する。だから、資本が経済システムの中心であるという意味での資本主義の時代は、終わりつつあるのかもしれない。この意味でも、マルクスは正しかったわけだ。 そうだったのか。マルクスはこう読むべきだったのか。資本主義社会という私たちがいま住んでいる世界について、その本質を執拗に追いかけた人だからこそ、数多くの思想家たちに引用され続けたのか。 マルクスは自由の国を、労働が生活手段ではなく目的となるような世界とし、そこでは生産力は増大して無限の富が実現すると考えた(『ゴータ綱領批判』)。これは彼のユートピア的な側面を示すものとしてよく嘲笑されるが、サイバースペースでは
finalvent氏から、拙著への書評をいただいた。彼は私と同世代なので、マルクスを軸にして私の議論を理解したのだと思うが、これは当たっている。実は私も、ドゥルーズではないが、死ぬまでにマルクスについての本を書こうと思っている(出してやろうという版元があればよろしく)。サイバースペースに見えてきた世界が、彼のいう「自由の国」に似ているからだ。 マルクスは自由の国を、労働が生活手段ではなく目的となるような世界とし、そこでは生産力は増大して無限の富が実現すると考えた(『ゴータ綱領批判』)。これは彼のユートピア的な側面を示すものとしてよく嘲笑されるが、サイバースペースでは、人々がOSSを開発するのもブログを書くのも生活手段ではないだろう。労働が目的になれば、マルクスも予言したように貨幣(賃金)は必要なくなる。またデジタル情報に稀少性はないから、「協同的な富が過剰に湧き出る」ので、財産権には意味
現在のインターネットのシーンでこれを読まなければ先には進めないよという一冊があるとすれば本書だろう。ただし、すでにブログシーンのコアなところに漬かっている人なら、知っている話ばかりであるという印象を持つかもしれない。あるいは、ある種のボックスに分類されるべき視点からの思索ノート群に見えるかもしれない。私もどちらかというと当初ざっと目を通したときにそう思った。再読して大いに反省した。 個々の点においては重箱の隅をつつくような批判も可能だが、この書籍全体が示唆するものは相当に長い射程を持っている。最初にここから引用し紹介するのは反って誤解を招きかねないが、次の指摘は一見すると柄谷行人あたりが言いそうなごく当たり前のことのようにも思えるが、この要点を思索の根幹に据えて、ITの未来を正確に見ている人は少ないのではないか。 マルクスの未来社会像としては『ゴーダ綱領批判』の「各人はその能力に応じて働き
経済学部の学生でケインズを知らない者はいないだろうが、シュンペーターの本を読んだ学生は少ないだろう。しかしグーグルで検索してみると、Keynesが1580万件なのに対して、Schumpeterは1730万件ある。財政政策がすっかり信用を失う一方、イノベーションや企業家精神の重要性が注目される今、シュンペーターが注目されるのは当然かもしれない。 本書は、シュンペーターの波乱万丈の人生と、その学問を丹念にあとづけたものだ。特に大恐慌の中で、主著『資本主義・社会主義・民主主義』を書く前後の状況が興味深い。当時、資本主義には自動調整力がなく、政府が経済を管理しなければだめだという意見が支配的だった。それに対してシュンペーターは、資本主義の本質は企業家精神にあり、政府はイノベーションを作り出せないと論じた。 いま読むと当たり前のことを言っているようだが、当時アメリカのインテリの間ではマルクスの影
かつて「学生運動10年周期説」というのがあった。1950年前後に共産党が指導した山村工作隊などの武装闘争の時代、1960年の安保闘争、そして1970年ごろの学園闘争である。この法則からいうと、1980年にも同じような事件が起こって不思議ではなかったが、何も起こらなかった。 世界的にも「1968年反乱」以降、大きな学生運動は起こっていない。特にイラク戦争は、ベトナム戦争と同じぐらい不人気なのに、かつてのような暴力的な抗議行動は起こっていない。この原因をベッカーは、1973年に徴兵制がなくなったことに求めている。徴兵制の廃止を提案したのはミルトン・フリードマンで、彼はこれを「自分の人生でもっとも有意義な仕事だった」と回顧している。 これに対してポズナーは、他にもいろいろな原因をあげているが、おもしろいのはインターネットなどの電子メディアが暴力に訴える前の「ガス抜き」になったという点と、学生
説教じみた話を書いているとほんと年寄り臭くなるし、年寄り臭いというだけで嫌悪感を誘うものだし、嫌悪感があれば誤解が誘導されるものなので、ちょいとだけ、仕事を辞める云々の補足みたいなこと。 仕事というのは、世の中の少なからずの人が、自己実現とか報酬と思っている。違っているとは言わないが、こっそり言うと違っているというか大間違いだと思う。ではなにか、時間の拘束である。自分の人生の時間が自分の思い通りにならないという拘束こそが仕事の本質なのである。そりゃないっしょとか言われるか。 仕事は命ぜられてやるものではない主体的にやるものだ、よって、拘束じゃない、自らが求めたものだ、とか、言う? いや、そこがこの問題の要なのだ。 そして、この根幹の問題に、マルクスはとっても明快なことを言っている、だから、マルクスは根源的な思想家なのである。 労働とは時間なのだ、と。 本当はそうじゃない、が、時間として抽象
教育再生会議の第一次報告案がまとまった。 主な論点は (1)「ゆとり教育」を見直し、授業時間数を増加 (2)いじめる子どもには「出席停止」措置。体罰に関する基準の見直し。 (3)高校で奉仕活動を必修化。 (4)教員免許制度の厳密な運用で、不適格教員を排除。社会人教員を大量採用。企業から学校へ課外授業講師派遣。 (5)教育委員会、学校を外部評価。 (6)家族や古里の価値を考える機運を効用。 などである。 要するに、「学校の中」と「学校の外」を同じ基準で律するということである。 これまで学校には世間には通用しない「学校だけのルール」があった。 世間は弱肉強食・競争原理のガチンコ・ルールで運営されている(はずである)のに、学校はそうなっていない。 そういうローカル・ルールはなくして、グローバル・スタンダードでいこうじゃないか、ということである。 どこかで聴いたような話である。 そう、これはあのな
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