↓こちらに続編あります↓ 論争に絶対負けない議論ハック(心構え編) - 女教師ブログ ====== 常々「ダメな論証方法」に関する話が好きで、自分でも色々考えたりしていたのだけれど、先日、ウィキペディアでまさにそれがリスト化されているページを見つけ、とても嬉しくなってしまった。誤謬 - WikipediaList of fallacies - Wikipedia, the free encyclopediaというわけで、以下は、wikiのページから13個の「間違った論証方法」を抜粋・再構成して、勝手に自分で例を考えてみたものです。こういうのを俗に、人の海パンで水泳をする、と言うんですね。 論理ルールの違反1. 後件肯定: 「PならばQだ」という論理を改変し、逆に「Qだ」から出発して「Pだ」を導く 例「瀧沢の彼女・奈々子は『もし浮気したら、別れるから!』と言っていた。最近、彼らは別れたらしい
英語敢えてノンジャンルで、過去に読んだ洋書をいくつか推薦してみる。「英語で本を読んでみたい」と思う方は結構いると思うが、中々踏み出せないというのがありがちなパターンだと思う。そんな方の背中を一押し出来ればと思います。おそらくどの本も和訳が販売されているのではないかと思うので、分からない部分があったり、飛ばしてしまった部分があったりすれば、和訳版で補完するという手もある。お金は二倍かかってしまうが。The Google StoryThe Google Story作者: David A. Vise, Mark Malseed出版社/メーカー: Delta発売日: 2006/08/29メディア: ペーパーバックGoogleの誕生から成功までを描いた本。IT系の人であれば、知っている話が多いのではないかと思うので読み易いと思う。既に知っている話を英語で読む、というのは以外といい勉強になると個人的に
身体性という言葉を見かけたので、それに言及した本について2003年7月26日に作成した読書録をリサイクル。再読する余裕が今はないので、とりあえずそのままのかたちで残しておく。今読んだら感想もだいぶ変わるのだろうな……。 序論 ドレイファスのこの本での一貫した見方は、「身体性」という言葉に要約できる。 私は哲学者なので、インターネットの具体的な使用法の良し悪しを論じる立場にはない。私の問いはもっと思弁的な、次のような問いである。もしネットがわれわれの生活の中心となったとしたら、つまり、ハーバード大学ケネディ・スクール学長のジョセフ・ナイが「魅力的な新たな文化」と呼ぶものが実現するとしたら、どうなるのだろうか。生活のかなりの部分をサイバースペースで送るようになるにつれて、われわれは、人間を超えることになるのだろうか、それとも人間以下になるのだろうか。 これらの問いを考える際、次のような可能性が
いい文章を書きたいのであれば、書き終えてから、あるていど時間を置いて読み直すといいとよく言われる。これは誰にとっても納得のいく方法だとおもう。時間を置くことで、客観的に文章を眺めることができるし、意味の伝わりにくいところは推敲できる。なにより文章ぜんたいをクールダウンできるから、時間を置き、推敲を通したテキストはより論理的で端正になる。 しかし、わたしはこの方法がどうも苦手だ。時間を置くと、いったいどうしてこんな文章を書いたのか、自分でもよくわからなくなってくるし、なにをおもしろいとおもって書いたのか、いまひとつおもいだせなくなってしまう。もちろん、文章を書き直すことで、感情の入りすぎていた部分は削られて、気持ちだけが空回りしていた言葉は、もっと別のフレーズに置き換えられる。だからこれはきっといい文章なのだ──すくなくとも、推敲前よりはずっと。でも、このテキストっておもしろいのかな、とわた
なんといっても本人は「素敵なお姉さん」であるゆえ、若い頃から結構もてる。その上仕事も出来ちゃったりするわけで、 「私の相手は、ハンサムで包容力があって、私のしたいことを好きにさせてくれて、その上仕事もバリバリ出来る人。しかも、私が仕事を辞めても生活水準が維持できるレベルの収入。」 なんていう基準値を当たり前に思ってしまうとか。しかし、最後の収入のとこだけでもかなり厳しい。年齢が高くなればなるほどそう。というわけで、年齢を重ねるにつけ、相手となる層は著しく減少する。 On Off and Beyond: 素敵なお姉さん風高学歴日本女性は婚期が遅れがち まぁ、何度も扱ってきた話なんで、そろそろ尻馬するのもアレだけど、本日もこの話に尻馬して寝よう。 我が国における結婚行動は、20 代前半についてはほぼ乗り換えモデルで説明可能である。20 代後半については、乗り換えモデルとBecker モデルが混
「このさびしさをどしたらいいの」ということを延々考えて、人生単位で見てもそれはそれは長い時間を浪費しました。その中でまず気付いたことは「人はさびしいとおかしくなる」ということでした。ひっくり返すと、人がおかしなことやってるときは、だいたいさびしいんだよな。さびしさを動機にして人や自分を裁いても、よけいさびしくなるばかり。なにかを裁くということはなにかを切り捨てることだ。一度切り捨てられたものは時間が止まってしまう。もうそこからは何もうまれないのでした。さびしいのに、いろんなものをどんどん切り捨てて、自分さえも許せなくなって、狭く、小さく、よけいさびしさを募らせるばかり。おかしなことだ。さびしさとは無縁に見える、幸福そうなあの人と、わたしは何が違うんだろう。考えればなにもかも違うように見えたし、でも本当のところはどこがどう違うのかよくわからない。ただ、自分がさびしさにふりまわされていることだ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く