「國語」の觀念との絡みで、正字正かな派を「言語統制派」と極附け、標準語の押附けを行つた首謀者であるかのやうに言ふ人がゐるので、項目を立てて事實を説明しておきます。 明治以前の状況 從來、日本では東西で大きく言語が分れてゐた。また、中央と地方とでも矢張り言葉は異つた。江戸時代になると、地域間で言葉が異る傾向は、さらに強まつた。藩制が布かれた爲、同じ日本人同士であつても、藩が異ると言葉が通じない、と云ふ事態が屡々生じたのである。 一般に、領民は藩の中で生活が完結してゐたから、他所の藩で異つた言葉が用ゐられてゐても特に困難を感ずる事は無かつた。しかし、武士階級では、參勤交代で江戸に出ると他の武士と話が通じない、地方に派遣されると話が通じない、と云ふ事態に遭遇した。 明治時代 江戸時代において、言葉によるコミュニケーションの困難が問題となつたのは、限られた人々だけであつた。しかし、藩が消滅し、全國