縄文土器も携帯電話も「道具」です。人の生活は道具により進化し、豊かになる。いかにモノづくりに貢献できるかを考え続けていきたい。 白銅 角田浩司
企画展「物語絵―嫁入本『源氏物語』全54帖公開―」 会期:令和5(2023)年1月28日(土)~3月26日(日)※展示替えあり ※本展は、前期・後期でほぼすべての展示資料が入れ替わります。 前期:1月28日(土)~2月26日(日) 後期:3月1日(水)~3月26日(日) 日本では、平安時代に『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』をはじめ、数多くの物語が作られ、現在も読み継がれています。物語は、人々に登場人物や情景を思い起こさせ、それは絵画に描かれました。『源氏物語』「東屋」巻で、姫君(浮舟)が絵を見ながら侍女の語る物語を聞いているように、日本人は物語を絵とともに楽しんできたといえます。 『源氏物語』「絵合」巻には「物語絵」という言葉が見えます。この巻では、梅壺の女御方(光源氏方)と弘徽殿の女御方(頭の中将方)とが物語絵を競います。そこには『竹取物語』『伊勢物語』の物語絵が登場し、これらの物語
TOP > 工作 > その昔健康な赤ちゃんを願って使用された土器と土偶wwwwwwwwwww Tweet カテゴリ工作 0 :ハムスター速報 2016年09月17日 14:30 ID:hamusoku 「黒髭土偶と一発型土器」土偶を土器の上部の穴に設置し、共に出土した打製石器を土器側面の穴に挿していくとひとつだけ土偶が飛び出る穴がある。一説には出産を表しており困難を乗り越えて健康な赤子が生まれることを願った儀式に使用されたとも。 「黒髭土偶と一発型土器」土偶を土器の上部の穴に設置し、共に出土した打製石器を土器側面の穴に挿していくとひとつだけ土偶が飛び出る穴がある。一説には出産を表しており困難を乗り越えて健康な赤子が生まれることを願った儀式に使用されたとも。 pic.twitter.com/QSSX0zpncQ— 松本ジュンイチロー (@matsumosan_san) 2016年9月16日
北海道札幌市藻岩山エリア散策(平成30年10月30日実施) その2 散策マップ 山頂は気温が低めです。防寒用の服があると良いでしょう。 散策開始! 4.札幌市埋蔵文化財センター 「札幌市埋蔵文化財センター」(札幌市中央区)は、埋蔵文化財の保存に関する相談や遺跡の発掘調査、 出土した遺物・記録などの整理・研究、収蔵・展示を行う施設として、平成3年3月に開館しました。 1階に展示室があり、土偶や土器、また、札幌市内の遺跡分布図、年表などを拝見することができます。 展示物にはそれぞれ「旧石器文化」、「縄文文化」、「続縄文文化」、「擦文文化」、「アイヌ文化期」のものがあります。 土器の模様が面白くて写真撮影。 アイヌの人たちの生活の様子を再現したミニチュアは撮影禁止ですが(マークが付いています)、 それ以外のものは撮影がO.K.とのこと。(ただし商用目的では不可です。) 実に良い土器が並んでいまし
誰もが日本史の授業で習ったであろう「弥生式土器」。その優品が集うレアな展覧会『弥生の美』が、「兵庫陶芸美術館」(兵庫県篠山市)で3月10日からおこなわれます。 紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃までとされる弥生時代。その存在が明らかになったのは、明治17年(1884)に東京の向ヶ岡弥生町(現・文京区弥生)で発見された球形の土器がきっかけでした。その土器は、明治10年(1877)にエドワード・S・モースによって発見された縄文土器とは異なる特徴を持っており、発見場所の地名から「弥生式土器」と呼ばれるようになりました。そしてこの土器が用いられた時代や文化を、「弥生時代」 「弥生文化」と呼んでいます。 人面付壺形土器(重要文化財) 泉坂下遺跡(茨城県常陸大宮市)出土 弥生時代中期 常陸大宮市教育委員会 弥生式土器は、縄文土器より薄手で硬く、明るい褐色をしています。また、躍動的なデザインの縄文土器に
特別展「『日本書紀』撰録1300年―神と人とを結ぶ書物―」 会期:令和3(2021)年9月16日(木)~11月13日(土) 『日本書紀』は養老4年(720)に成立した日本最初の正史です。令和2年(2020)は、『日本書紀』成立から1300年にあたり、また、大正9年(1920)に本学の母体であった皇典講究所で開催された「日本書紀撰進千二百年紀念会」から100年の節目の年でもありました。 『日本書紀』は、成立以降、日本最初の正史として重視されるとともに、神道における重要な古典としても、多くの人々に読み継がれ、書き写されて、受け継がれてきました。 本展では、本学と神社が所蔵する『日本書紀』の貴重な古写本や注釈書を展示し、奈良時代から中古・中世・近世にかけて『日本書紀』が〝神と人とを結ぶ書物〟として、如何に日本の文化や思想に影響を与えてきたのか、また「日本書紀撰進千二百年紀念会」を開催した皇典講
<研究の内容> 熊本大学小畑弘己教授を中心とする研究グループは、縄文土器に残る卵鞘(らんしょう)圧痕からゴキブリの種を同定し、今からおよそ5300~4000年前の縄文時代中期~後期に、すでに現在の日本におけるゴキブリの種分布(棲み分け)が成立していたとの研究成果を、令和4年8月30日に英国の考古科学雑誌「Journal of Archaeological Science: Reports」誌上で発表しました。 <研究の背景> 小畑教授らは、土器圧痕法と呼ばれる、土器の表面や土器粘土内から当時の生物の痕跡を探し出す手法を用いて、縄文時代の栽培植物や家屋害虫を検出する研究を続けてきました。2016年に、宮崎県宮崎市の本野原(もとのばる)遺跡において、縄文土器の表面についたゴキブリの卵鞘の圧痕を発見しました※。 ※平成28年2月8日プレスリリース「縄文時代のゴキブリの卵を発見!」 https:/
じねん @jinensai 承)さて続き。土器という実体にどうしても目や思考を奪われがちだが、縄の文様をつけるということが意味することは案外単純なことだ。つまり縄、編むという技法が先行している。順序として縄文時代以前に縄・籠類の時代が恐らく数万年スパンで存在している。石器の使用より早い可能性すらある。(続 2017-11-07 22:46:59 じねん @jinensai 承)三内丸山遺跡から出土した、いわゆる縄文ポシェットもそうだし、佐賀県東名遺跡のドングリなどの木の実のアクをとり、保存するための木編みの籠も、もっと注目されて良いだろう。日常的につる植物やイネ科植物の藁で自在に器物を拵えていた時代が基層にあることが前提条件だったのである。(続 2017-11-07 22:56:27
県立埋蔵文化財センターが22日、大分市牧緑町に移転、開館した。旧石器時代から江戸時代まで大分の歴史をまとめた「豊の国考古館」と大友家史料を集めた「BVNGO(ぶんご)大友資料館」の常設展示室2室を備える。観覧は無料。 旧芸術会館を約7億円かけ改修し、再利用した。両展示室の広さは計1058平方メートルで、文化庁によると全国トップレベル。 豊の国考古館では、縄文-弥生時代に石器として使われた姫島の黒曜石や中世の石塔など、遺跡や出土物を通じて大分の歴史を概観。BVNGO大友資料館は、大友氏遺跡(大分市)の出土物を中心に展示している。旧ホールは収蔵庫として活用。土器類の整理、修復作業の見学室も設けた。 開館時間は午前9時~午後5時。年末年始と月曜日が休館。県立埋蔵文化財センター=097(552)0077。 =2017/04/23付 西日本新聞朝刊=
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
岡本太郎 1911年、川崎市生まれ。岡本一平・かの子を父母にもつ。 東京美術学校(現在の東京藝術大学)中退後、渡欧。パリ大学のマルセル・モース門下で民族学を修める。アプストラクシオン・クレアシオン協会会員(1937年脱退)、国際シュルレアリスム・パリ展に《傷ましき腕》を出品。 ジョルジュ・バタイユと親交を深め「コレージュ・ド・ソシオロジー」、秘密結社「アセファル(無頭人)」に参加。帰国後、兵役につき中国戦線へ。復員後、上野毛にアトリエを構え活動を開始。花田清輝らと「夜の会」を結成し、戦後の前衛芸術運動を牽引した。 国内外で旺盛な創作活動を行う傍ら、1952年2月、縄文土器に出会った衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みづゑ』に発表。その後、『芸術新潮』の「日本再発見―芸術風土記」連載をきっかけに、列島各地のフィールドワークを精力的に行い、独自の視点による著作を多数発表。 1970年
クロゴキブリの卵跡が残る縄文土器片。中央上のくぼみが卵鞘(らんしょう)の跡(鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター提供) 鹿屋市串良の小牧遺跡で出土した縄文時代後期(約4300年前)の土器の底から、クロゴキブリの卵の圧痕(あっこん)が見つかった。鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター(霧島市)が19日発表した。県内では初の発見で、同センターは「縄文後期に安定的な食料資源があったことが分かる」としている。 【写真】縄文土器の卵鞘跡を型取りして造ったレプリカの電子顕微鏡写真(熊本大学小畑研究室提供) 土器片に残る圧痕は長さ約11ミリ、幅5ミリ、厚さ3ミリのくぼみ。シリコンゴムを使った型取りなどを実施し、形状や大きさから、クロゴキブリの卵鞘(らんしょう)(卵を包むカプセル)と分かったという。土器が焼かれる前に付いたと考えられる。 クロゴキブリは、18世紀以降に中国から渡来した外来種とみら
1.使用する文様は、下記の「基本デザイン」からダウンロードしてください。 2.文様の改変はしないでください。 3.次のいずれかに該当する場合は使用できません。 (1)野々市市の品位を傷つけ、又は傷つけるおそれがあるとき。 (2)法令、公の秩序若しくは善良の風俗に反し、又は反するおそれがあるとき。 (3)特定の個人、政党若しくは宗教団体を支援し、若しくは公認しているように誤解させ、 又は誤解させるおそれがあるとき。 (4)その他その使用が不適当と認めるとき。 4.営利を目的として文様を使用する場合には申請が必要となりますので、文様使用承認 申請書を文化課に提出してください。 5.その他使用については、下記の「野々市市御経塚遺跡出土土器の文様の使用に関す る取扱要綱」に準じてください。
縄文土器作り 夏休み企画のワークショップ 8時30分受付、9時開始。 空手のお友達と一緒に参加。 1号はたんたんとやっているんだけど 2号はやっているうちに だんだん形がゆがんでくるし 途中でふてくされたりするし なんで、私がやってるんだ?って思ったり。 他の子達はもくもくと土器作りしているのに なぜか、土器だけでなく 土偶というか、埴輪というか 人形を作り始めた(笑) 「俺、土偶つくりたい」と1号 「私もつくる~」 「僕も~」 って、あれよあれよと違うものに興味がうつる。 土器をさっさと終わらせて(強制終了し?) 人形作りへ。 っていうか、もはや土器作りではなくなった(笑) 土偶のような埴輪のような物体を作成していたら 指導員さんが「一緒に焼いたらいいんじゃない?」 って声をかけてくれて、調子にのったウチラ そんなわけで、これも一緒に焼く。 次回は9月末。今度は8時集合。 2ヶ月かけて乾
奈良県田原本町の弥生時代を代表する大規模環濠(かんごう)集落・唐古(からこ)・鍵遺跡で1988年に出土した遺物から、北部九州で作られたとみられる弥生時代中期中頃(約2200年前)の土器片1点を確認したと町教委が15日、発表した。 弥生時代の九州の土器が見つかるのは近畿の遺跡で初めて。当時、すでに広域的な交流があったことを示す成果としている。 土器片は縦5・3センチ、横13センチ、厚さ0・6~0・8センチ。88年の発掘調査で、堀を集落の周囲に巡らせた環濠部分から出土。今春始めた整理作業で見つかった。16日から12月23日まで田原本町の唐古・鍵考古学ミュージアム(0744・34・7100)で展示される。
トトロマニアのみなさんにとっては知ってて当たり前の情報なのかもしれませんが、私にとっては衝撃の新事実でした…。 トトロって、見かけによらず、けっこう年配だったんですねぇ…。 まさかの事実!縄文人から直接、土器の作り方を教わっていたトトロ! いや~、驚いた。 トトロも、はるか昔は、にんげん(縄文人)たちと、普通にやり取りしてたんですかねぇ…? www.youtube.com 【トトロの正体】森を奪われ、知性・言葉を失ったトトロ一族。人間との共存を選ぶまでに辿った知られざる3000年の歴史を考察します【岡田斗司夫/切り抜き】 - YouTube いろんな説?があるみたいですけどね~、トトロは1000歳くらいとか。 でもまぁ、宮崎駿監督が、インタビューで「トトロは縄文人から縄文土器を習った」って言ってるらしいんでね、こりゃもう、3000歳ということで間違いないんでしょう、たぶん。 あ、あとね、と
石井町教委は15日、石井町石井の井ノ元遺跡から古墳時代前期(4世紀前半~半ば)の土器群が出土したと発表した。県内で同時期の土器がまとまって出土するのは初めてで、町教委は「土器によって年代を決定する編年研究の基準資料となり得る」としている。 土器群は地下約1・8メートルで見つかり、南北10メートル、東西35メートルにわたって帯状に広がっていた。完全な形を残す物だけで250個以上あり、うち7割を祭祀(さいし)用と思われる小型丸底壺(つぼ)や高坏(たかつき)が占める。手ごね土器や石製小玉、鉄製鍬(くわ)先なども発掘された。 町教委は、祭祀後に土器を捨てた場所と推定し、近くに祭祀が行われた遺構が存在するとみている。南側に渡内川があることから、水の神を祭る祭祀が行われていた可能性もある。 今回調査したのは約1500平方メートル。西側に隣接する石井幼稚園の改築工事に伴い、5月から発掘に取り掛かった。近
こんばんは。 若草山の山焼きも終わました。 奈良北西部、静かな夜を迎えています。 奈良の高校生が面白い企画展を開いています。 「僕、キミ(土器)のこと何も見てなかったゴメン」 土器を女性に見立て、男子生徒が詳しく知ろうと土器の種類・作り方を学んで その過程を紹介展示するという内容です。 ※朝日新聞1月26日の記事より 奈良県立橿原高校考古学研究部の生徒さん達で、私は21日に行ってきました。 この展示会のために作成したパンフレットです。 なかなかの力作でしたよ・・・・(笑) 試行錯誤を重ね楽しい土器作りになったようです。 2月3日 3月4日の午前9時半からミニチュア土器作りのワークショップ が開かれます。 両日午後1時半からは生徒さん達が展示解説もしてくれるそうです。 若き考古学者達、頼もしいですね (笑) 私も彼らに負けないように飛鳥を極めようと思っています。 今の愛読書です。 では・・・
▼本書は、縄紋土器型式編年研究の方法論を、生物学の一分科である系統学をふまえて確立するとともに、標本資料の公開・分析をとおしてこれまで不明瞭だった最花(さいばな)A式を明示する。土器の表面的なかたちだけではなく製作工程を含めた技法を分析対象に組み込むことで型式編年を刷新。研究史の空白を埋め、考古学研究に重要な方法論的基盤を提示する意欲的な著作である。 序 第1章 土器型式編年研究に関する方法論的考察 1 問題の所在 2 研究の到達点と本書の視座 (1) 研究の到達点 (2) 本書の視座 3 縄紋土器の系統分類 (1) 系統分類 (2) 文様帯系統論 4 型式研究の意義 5 本書の方法論 (1) 系統的分析 (2) 製作工程を含めた技法の分析 第2章 東北地方北部縄紋時代中期後半の土器型式編年研究史 1 型式網における東北地方北部中期後半 ……
佐世保市内に25カ所ある洞穴遺跡群の国史跡指定を目指している同市教委は11日、発掘調査中の同市吉井町「直谷(なおや)岩陰遺跡」で初の現地説明会を行った。市内外から約30人が参加した。 直谷岩陰は間口約19メートル、奥行き約4メートル、高さ約5メートル。国内最古級の土器や石器群が発見された同町内の国史跡・福井洞窟(どうくつ)と同年代の地層があるといわれながらも、詳しい調査は行われていなかった。 市教委は2006年から発掘調査を開始。これまでに約1万年前(縄文時代草創期)の地層から、爪(つめ)で模様を付けた爪形文土器など1万点以上が出土。爪形文土器と同じ地層から細石器と呼ばれる石を削った狩猟道具も見つかった。市教委によると、同時期の地層から土器と細石器が同時に見つかったのは、同市内の他の2遺跡を含め国内で3例だけという。=2008/10/12付 西日本新聞朝刊=
弥生時代の集落跡で、楼閣などの絵の土器が見つかったことで知られる、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で、新たに別の楼閣と見られる絵がかかれた土器の破片が見つかりました。 町の教育委員会が、当時の出土品を改めて調査したところ、楼閣と見られる建物がかかれていることがわかったということです。 絵は、斜めに何本もの線が入った屋根のような形と、柱のような直線が彫られた線画で、2階から3階建ての楼閣の一部と見られるということです。 唐古・鍵遺跡では、これまでにも、大型の建物や楼閣がかかれた土器の破片が見つかっていて、今回の破片は、同じ土器の一部と見られるということです。 町の教育委員会は、これまでの絵と線の間隔が違うことなどから、別の楼閣と見て、当時2つの楼閣があった可能性があるとしています。 田原本町教育委員会文化財保存課の藤田三郎課長は「大型の建物を中心に、2つの楼閣が並んで建っていたと考えられる。集落
横浜市歴史博物館(横浜市都筑区)では、おにぎりの歴史を解き明かす企画展「大おにぎり展—出土資料からみた穀物の歴史—」を開催している(2014年11月24日まで)。 それにともない同展では、さまざまな関連イベントが行われているが、異色だったのは2014年11月3日に行われた「土器を食べちゃえ!」というイベントだ。 お菓子作り考古学者のヤミラ氏が作る、土器を模したクッキー(上の写真の左側のトレイ)を試食配布するもので、イベント当日は大勢の来訪者でにぎわった。 筆者は縄文土器を食してみた。味はクッキーであるが(当たり前か)、おそらく土器の色の再現に用いられたのだろう、ココアの風味が口に広がった。そして、ナッツ類の香ばしさも、クルミやクリなどを得ていた縄文時代の狩猟採集生活を彷彿とさせる。 クッキーも模様以外によく観察すると、縄文土器の場合は内部が二層に分かれていたり、弥生土器の際は籾痕(籾の圧痕
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JaLC IRDB Crossref DataCite NDL NDL-Digital RUDA JDCat NINJAL CiNii Articles CiNii Books CiNii Dissertations DBpedia Nikkei BP KAKEN Integbio MDR PubMed LSDB Archive 極地研ADS 極地研学術DB 公共データカタログ ムーンショット型研究開発事業
全国で出土した木簡について検討する「木簡学会」の研究集会が奈良市の奈良文化財研究所で開かれた。「五大力菩薩」と記された木簡の役割について研究者が発表したほか、今春に平城京跡から貴族邸とみられる建物跡とともに出土した「宮寺」などと墨書された土器の報告もあった。 研究集会で、鈴木景二・富山大教授は「中近世の輸送と呪符」と題して木簡に書かれた「五大力菩薩」の意味について発表。荷札にみられる事例を取り上げ、輸送安全を目的としたことなど、変遷を考察した。 奈良市埋蔵文化財調査センターの永野智子主事は、平城京の都市区画で「左京二条四坊十坪」に当たる調査地(奈良市法蓮町)から、一町規模とみられる邸宅跡とともに出土した木簡1点と墨書土器63点について報告した。 底部に「宮寺」と書かれたとみられる土器は、2棟を一体利用した建物跡よりも時代をさかのぼる奈良時代中頃の遺構から出土。宮寺は、調査地西方にある法華寺
西アジアの先史時代に製作された土器には、しばしば色鮮やかな顔料でさまざまなモチーフの彩文が施されている。西アジアの諸遺物を展示する博物館や展覧会では、彼の地の先史文化を象徴する優美な工芸品として、これら彩文土器が大きく採りあげられていることが多い。学史を紐解いてみても、彩文土器はとりわけ目を惹く遺物として、古くから研究の対象とされてきた。特に、文様の意匠・配置・組み合わせは、土器による編年研究においてきわめて有用な情報であり、ひいては特定の考古学的文化の存在や拡がりを示す指標とされる場合もある。 しかし、ここでは編年や考古学的文化の指標という視点からではなく、土器工芸における装飾の一種としての彩文という観点から俯瞰してみたい。当時の人びとが彩文土器をつくり、眺め、触れたとき、何を思い何を感じていたのかを想像するための一助として、学術的な視座から話題を提供できれば幸いである。 ■土器装飾の発
鹿児島県徳之島の天城町教育委員会は23日、同町浅間の浅間湾屋洞窟(通称ウンブキ)内の海底鍾乳洞調査で、7千年以上前のものとみられる土器が見つかったと発表した。同町西阿木名の下原洞穴遺跡から出土した「波状条線文土器」に類似しており、同教委は「奄美・沖縄で人類活動の痕跡がはっきりと確認できていない縄文時代早期の生活を知る手掛かりになるのでは」と期待している。土器は、29日から8月2日まで、同町天城のユイの館で展示される。 ウンブキは地元の方言で「海の崖」の意味。海底鍾乳洞は、かつてサンゴ礁が地上に隆起して鍾乳洞がつくられた後、再び海に沈んでできたとされる。写真家で水中探検家の広部俊明氏(55)=沖縄県恩納村=が町から潜水許可を受け、2018年から調査を行っている。 広部氏によると、ウンブキの洞口からの鍾乳洞の総延長は約1キロ。広部氏が1998年に発見し、これまで日本最大とされてきた恩名海底鍾乳
平安時代の貴族藤原家の邸宅跡として知られる「堀河院」(京都市中京区)から、平仮名の「いろは歌」ほぼ全文が墨書された土器が見つかり、市埋蔵文化財研究所が27日、発表した。土器は1200年前後のものとみられる。平仮名のいろは歌全文が書かれた資料としては最古で、都の文化を知る上で貴重な発見という。 墨書土器は直径9センチの土師(はじ)器の小皿。裏面にいろは歌が記されている。「いろはに」は2行目から余裕を持って書き始められたが、余白が少なくなり、最後の「ゑひもせす」は1行目に戻って書かれている。筆跡の未熟さなどから、子どもの手習いの可能性が高いという。「く」や「ゆ」など4文字の部分は土器が欠けていた。 1983年の邸宅跡の発掘調査で出土していたが、2012年に市内の別の場所で平仮名が墨書された土器が多数見つかったため、研究所が保存する約9万件のデータベースを再チェックし確認した。 [時事通信社]
「縄文を知りたかったら、まず諏訪に行け」ー縄文好きの人々は、口を揃えてそう言います。「三内丸山遺跡」で有名な青森や、アイヌ文化の都、北海道ならまだしも、なぜ諏訪なのか・・・? それはこの土地が、縄文時代にもっとも栄えた中心地の一つであり、また、縄文時代が終焉を迎えて数千年たった現在でも、縄文スピリットを頑なに守り続けた文化や信仰の形が色濃く、いや濃すぎるほどに残っているからです。そんな諏訪は、人呼んで「縄文銀座」! 縄文好きなら、絶対に避けては通れない土地、それが諏訪なのです。 今回「和樂web」では、実際に諏訪地方を訪れ、各所「縄文体感スポット」を根こそぎ取材してまいりました! これから全4回に渡って、その旅の記録をお届けします。 第1回の今回は、言わずとしれた我が国最古の国宝「縄文のビーナス」を所蔵する「尖石縄文考古館」より、この地を生きた縄文人の爆発的クリエイティビティをレポートしま
琵琶湖は人工湖だった!? 新たな土器や巨大魚は“彼ら”からのメッセージ? ミステリー 2009年03月16日 15時00分 ツイート 世界3大古代湖のひとつに数えられる琵琶湖は人工湖。そんな大胆な仮説を立てるのが心霊研究家の立川菊花氏。天上を意識しているとしか思えない伝説が残され、遺跡から新たな土器が発掘され、巨大鯉の捕獲も報告されている。それらは、琵琶湖からのメッセージの可能性もあるのだ。 先週の続き、琵琶湖にまつわるミステリーを展開する立川氏の新説は説得力がある。(以下、コメントはすべて立川氏) 「日本海がまだ湖として存在していた時代、大陸の端にある巨大な湖は宇宙から見ても相当に目立つ地上物だったはず。多くの地球外生命体が飛来していたと思います。実は、琵琶湖はそんな地球外生命体によってつくられた人工湖の可能性がある。そう考えるほうが、サテライトとして存在した琵琶湖の存在意義として辻褄(
ちょっとお腹が空いたけど、何か作るのは面倒だ、というとき。学生時代の部活帰り、家に帰れば夕飯はあるんだけどヘトヘトすぎて家まで持たないよ、というとき。深夜の雀荘、今夜のツキが悪いときに流れを変えるために。 みなさんはどんなときにカップ焼そばを食べているだろうか。そしてそのときにお湯を注ぐのはどんなブランドだろうか? 「日清焼そばU.F.O.」、それとも「ペヤング」? いやいや、断然「やきそば弁当」でしょという人だっているはずだ。カップ焼そばの話になると、みんな意外なほど、自分の「推しメン(麺)」にプライドを持っている。 縄文をテーマにしたこの雑誌でいきなりなんの話をはじめているんだと、いぶかしがる方もいるだろう。しかしこのカップ焼そばのブランドの話は、日本の地域性の話でもあるのだ。 次の日本地図「カップ焼そば文化圏」を見てほしい。この図は「あなたの地域でカップ焼そばと言えば?」というアンケ
前回の「発表の場」でお見せしたように、毎年、お仲間はいろいろなものを制作していますが、土器のレプリカは、本物の縄文土器をお借りしたり、画像を何枚もプリントして、より本物に近づけたいと思いつつ制作しています。そこで、富士見町のいろいろなところにレプリカを飾らせていただき、「星降る中部高地の縄文世界」の一翼を担う富士見町を「縄文の見える町」にしていけたらいいなと思っています。 信濃境駅は文字通り山梨県との境駅で、かつてはドラマの舞台にもなった小さな駅です。ここは井戸尻考古館の最寄り駅で「5000年前まで徒歩15分」というポスターが貼られています。改札を入って左側に設けられたスペースにほのおの会のメンバーが作った考古館収蔵の土器のレプリカが飾られています。
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