筒美京平さんへの追悼として、思い出です。どうしても派手な話(高級車とかワインとかお金とか)が並び、そこだけ切り取られると誤解されるので、抜粋・引用はしないでください。長い全体を、ある私小説、ある鎮魂歌、ある手紙として読んでいただけ… https://t.co/LPY66hAgqO
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「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また逢う日まで」など昭和の歌謡界を代表するヒット曲を生み出した作曲家の筒美京平さんが今月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。80歳でした。 13日は筒美さんとペアを組んで数々のヒット曲を世に送り出した作詞家の松本隆さんが死去の知らせを聞いたときの心境をつづりました。 筒美さんは昭和15年に東京で生まれ、青山学院大学在学中にジャズに親しみ、その後、大手レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら作曲活動を始めました。 昭和42年、グループサウンズのヴィレッジ・シンガーズが歌う「バラ色の雲」がヒットして名を上げ、翌43年には、いしだあゆみさんが歌った「ブルー・ライト・ヨコハマ」が大ヒットし、作曲家としての地位を不動のものにしました。 大学時代の先輩だった橋本淳さんをはじめ、阿久悠さん、松本隆さんら著名な作詞家とペアを組み、いずれもレコード大賞を受賞した尾崎
筒美京平氏が亡くなられたということで、1997年に腹を括って大2枚出して買って、結果大満足した作家生活30周年記念の4枚組×2セットを久々に引っ張り出してきたわけです。 これずっと聴いているとわけわかんなくなってくるんですよ。これ全部同じ人が書いた曲ってありえない。手癖のなさというか、引き出しの多さというか、天才作曲家と呼ばれる方何人かはいらっしゃいますが、その中でも何か他のそういう人には持ち得ないものを持っているというか。 手癖のなさというのはインプットの多さ故だとは思いますが、初期の頃には「パクりだろこれ」と言えてしまいそうなものも正直あります。が、初期を過ぎるともう「たぶん何か海外のもの食ってるっぽいんだけど、完全に消化して出してきてるからよくわかんねえ」みたいな感じになっていて。その「消化」の能力というのは、凄まじいものがあったのだと思います。 自分が彼を強烈に意識したのは高校2年
2020年10月12日、作曲家の筒美京平さんが10月7日に誤嚥(ごえん)性肺炎により亡くなっていた、というニュースが日本全国を駆け巡った。 歴代作曲家シングル総売上1位の記録の持ち主であり、1960年代から2000年代まで5代連続でシングルチャート1位を獲得するなど、長きにわたって第一線で活躍しつづけた日本を代表するメロディメーカーのひとりだ。 自らのバンドNONA REEVESで2曲のシングルのプロデュースを受け、近藤真彦「情熱ナミダ」では作詞家として筒美さんと共作した経験を持つ西寺郷太さんに、いちリスナーとして、そしてミュージシャンとして、筒美京平さんについての想いを綴っていただいた。 近藤真彦『ギンギラギンにさりげなく』を手にした、1981年のクリスマス 親に初めて買ってもらったドーナツ盤3枚のうちの1枚が、筒美京平作品だった。1981年のクリスマスのことだ。小学2年生の僕は「サンタ
ナタリー 音楽 特集・インタビュー 氣志團 筒美京平はなぜ我々を魅了するのか?武部聡志×綾小路 翔(氣志團)、2枚のトリビュートアルバムがあぶり出した偉大なるヒットソングメーカーの真実 V.A.「筒美京平SONG BOOK」 / 氣志團「Oneway Generation」 PR 2021年4月13日 日本が誇るヒットソングメーカー・筒美京平が2020年10月、惜しまれつつこの世を去った。 いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、ジュディ・オング「魅せられて」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」、近藤真彦「スニーカーぶる〜す」、NOKKO「人魚」、小沢健二「強い気持ち・強い愛」、TOKIO「AMBITIOUS JAPAN!」……氏が世に遺したヒットソングは枚挙にいとまがない。国民的テレビアニメ「サザエさん」のオープニングなど、至るところで目にする「筒美京平」の4文
筒美京平の名を最初に意識したのは、グループサウンズ全盛の頃だった。といって、実はそれは決して好印象なものでもなかった。 昭和42年のことである。 たちまちの大ヒットとなった『バラ色の雲』 当時、生意気盛りの高校生であった私は、何よりGS/ロックにのめり込んでいて、それこそ“一端(いっぱし)の通”を気取っていた。好むバンドも当然“渋い”ものとなる。 ご贔屓のひとつが、ヴィレッジ・シンガーズだった。 あまりフォークロック系は好きではなかったのだが、デビューシングル『暗い砂浜』での12弦ギターの用い方等々の、モダンなセンスに感銘を受け「この人たちは分かってる!」と、勝手に決めつけ、好んで聴いていたのだが、玄人受けで大したヒットにはならなかった。 それで新規蒔き直しということになったのだろう、清水道夫をリードボーカルに迎えフォーメーションもあらたに、捲土重来を図る意味でリリースされたのが『バラ色の
昭和から平成にかけて日本の音楽界を支えた偉大な作編曲家の筒美京平(つつみ きょうへい、本名:渡辺栄吉(わたなべ えいきち))氏が10月7日に亡くなった。80歳だった。 青山学院大学在学時からジャズを演奏していた音楽通で、卒業後の1963年には日本グラモフォンに入社し洋楽部門のディレクターを担当していた。その頃青学時代の先輩で作詞家だった橋本淳の紹介で、フジテレビ社員ながら作曲家として成功していた、すぎやまこういち(本名:椙山 浩一)に師事して作編曲を学んでいる。筒美の才能を見抜いた、すぎやまの推薦もあり、1966年(昭和41年)に藤浩一と望月浩の競作シングル「黄色いレモン」(作詞:橋本淳)で職業作曲家としてデビューする。 1968年12月リリースのいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」では、累計売上150万枚を超え、自身初のミリオンセラーとなり、翌年の第11回日本レコード大賞作曲賞を受
作曲家の筒美京平さんが今月7日、誤嚥(ごえん)性肺炎により死去していたことが分かった。80歳。筒美さんの個人の音楽出版事務所の代行を行っている日音が発表した。 筒美さんは、かねて自宅で病気療養していたという。故人の遺志により、葬儀はすでに近親者により執り行われた。「お別れの会」などは、新型コロナウイルスの感染状況などをかんがみ、現段階で行う予定はないという。 筒美さんはレコード会社勤務を経て、作曲家に。1971年の尾崎紀世彦さん「また逢う日まで」、1975年の太田裕美「木綿のハンカチーフ」、79年のジュディ・オング「魅せられて」、80年の近藤真彦「スニーカーぶる~す」など数々のヒット曲を手掛けた。
昭和・平成・令和と三時代にわたって歌謡界をリードしてきた大ヒットメーカーのひとり、音楽家・作曲家の筒美京平さんが、去る10月7日に亡くなった。享年80。死因は誤えん性肺炎だった。 ちょうど、斉藤由貴さんの「卒業」やキョンキョンこと小泉今日子さんの「なんてったってアイドル」をCDで聞き直していた矢先のことでそのシンクロニシティに驚いた。だが、これはシンクロニシティなんてご大層なものではなく、それだけ筒美さんの曲が身近にあり、且つ如何に大ヒットを連発していたかの証に他ならない。 『ドラクエ』の作曲家・すぎやまこういちさんに師事 筒美さんは昭和15(1940)年、東京生まれ。青山学院大学在学中、ジャズに親しみ、大手レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、作曲活動を開始。なお、ディレクター時代に『ドラゴンクエスト』シリーズ(’86年~)などで有名な、かのすぎやまこういちさんに師事。それはも
作曲家の筒美京平さんが今月7日、誤嚥(ごえん)性肺炎により死去していたことが分かった。80歳。筒美さんの個人の音楽出版事務所の代行を行っている日音が発表した。 筒美さんは、かねて自宅で病気療養していたという。故人の遺志により、葬儀はすでに近親者により執り行われた。「お別れの会」などは、新型コロナウイルスの感染状況などをかんがみ、現段階で行う予定はないという。 筒美さんはレコード会社勤務を経て、作曲家に。1971年の尾崎紀世彦さん「また逢う日まで」、1975年の太田裕美「木綿のハンカチーフ」、79年のジュディ・オング「魅せられて」、80年の近藤真彦「スニーカーぶる~す」など数々のヒット曲を手掛けた。
どーも、ShinShaです。 今回は昨年亡くなられた筒美京平さんの追悼記事です。 トリビュートアルバムでは、橋本愛「木綿のハンカチーフ」、LISA「人魚」が、とくに素晴らしかった。 彼は素晴らしい作曲家でした。 なつかしい昭和が、どんどん遠くなっていきます(涙) 略歴 筒美京平トリビュート 人魚 木綿のハンカチーフ また会う日まで 「礼も言えなかった...」 伊集院静さんのエッセイより 真夏の出来事 アフィリエイトリンク Apple Music おすすめです! Amazon クリンク あとがき 略歴 今回調べるまで知りませんでしたが、この人は職業作家なんですね。 レコード会社就職後に作曲家に転身し、最初のヒット曲は「ブルーライト ヨコハマ」。 レコード大賞受賞曲「また会う日まで」「魅せられて」を作曲。 「サザエさん」は誰でも知っている曲です。 筒美 京平(つつみ きょうへい) 1940年〈
【作詞家50年】松本隆「僕が出会った天才作曲家たち」 筒美京平、松任谷由実、大瀧詠一 、細野晴臣…… 「僕のまわりには昔から天才が集まってくる」/松本隆(作詞家) <summary> ▶︎僕らは、「日本の音楽を変える」と予告して、そのとおりのホームランを打った。アンチの人がなにを言おうと、「君たち、僕らの風呂敷の上に乗っているよ」と言いたい ▶︎細野さんが生まれついての天才だとしたら、大瀧さんは努力の天才 ▶︎50年前、いまのようになっている自分はまったく想像できなかった。ちょっと出来すぎなんじゃないかなと思います 松本氏日本語でロックを歌う 「はっぴいえんど」がデビューしたのは、1970年、21歳のときでした。気がつけば、僕も70歳を超え、作詞活動も50年を迎えることになりました。振り返れば長い時間ですが、実感としてはすべてが昨日のことのよう。あっという間にここまで来たという感覚です。
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お久しぶりでしゅ! けん坊でしゅよ! 朝のワイドショーを見ていたでしゅよ 偉大な作曲家がお亡くなりなり、その方の特集が組まれていたでしゅ いつもはコメンテーターをやっていて、その日はたまたま司会を任されていた女性芸人が言っていたでしゅ 「楽曲が私の心に刺さる」 「どの年代にも刺さる曲」 それを聞いたコピさんが 「刺さるって、なに?刺さってる自分はカッコイイとでも?純粋に曲を褒めればいいじゃん!あんたのコメントは心に全く刺さらない!」 そんなことを言ってたでしゅ 「刺さるというのは、心に何かが刺さったような強い衝撃を受けることで、感動した・感銘を受けたという意味でしゅよ」 と教えてあげたでしゅ 「知ってるよ!そんなこと!」 と怒られたでしゅ・・・ コピさんは、筒美京平さんの曲が好きなはずだから、ブログでランキングをつけてみたら?と提案したでしゅよ すると、甲乙をつけるなんて出来ない・・・と、
NHKや日刊スポーツなどによると、昭和の歌謡曲全盛期を支えた作曲家の筒美京平が10月7日、誤嚥性肺炎のため死去。80歳でした。 筒美京平は1940年(昭和15年)5月28日生まれ。クラシックのピアニストを目指したが大学卒業後は日本グラモフォン=ポリドール(現ユニバーサルミュージック)に就職。4年間洋楽ディレクターとして勤め、その後、青山学院大学時代のモダン・ジャズ・コンボの一年先輩である橋本淳の強い薦めで歌謡曲の作曲をはじめる。 初ヒットは1967年8月1日発売のヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」(作詞・橋本淳 編曲・森岡賢一郎)。69年いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」で日本レコード大賞作曲賞を受賞。その後、2回のレコード大賞と計5回の同作曲賞を受賞した。戦後を代表する歌謡曲の職業作曲家の第一人者 ■代表曲 「ブルー・ライト・ヨコハマ」 いしだあゆみ 「また逢う日まで」 尾崎
どうも。 ・・・寝るところだったのですが、その直前にあまりに突然、この訃報が飛び込んできました。 筒美京平が亡くなってしまいました。もう、僕にとっては「大先生」とつけたいくらい、すごく尊敬していたソングライターの一人ですね。 筒美さんのことは、もう、物心ついた時から、刷り込まれたように、サブリミナル的に頭に染み付いています。というのも 歌番組でのこういうクレジットですよ。もう、何度、「作曲 筒美京平」のテロップを見てきたことか。それこそ、小学校の低学年の時から見てきた名前だったので、もう最初の方は、「そういえば名前よく見る人だよなあ」くらいの意識だったんですけどね。 最初に知った筒美さんの曲はこれでしたね。 1977年、小学校2年生の時に大ヒットした太田裕美の「九月の雨」ですね。これ、僕の人生でジュリーの「勝手にしやがれ」、松崎しげるの「愛のメモリー」の次に好きになった曲なんですけどね。こ
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さる10月7日に作曲家の筒美京平が亡くなった。1966年に作曲家として活動をスタートし、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」、ジュディ・オング「魅せられて」、近藤真彦「スニーカーぶる~す」など数多くのヒット曲を世に送り出してきた筒美。彼からの影響を公言するアーティストやクリエイターは枚挙に暇がなく、今回登場してもらったつんく♂も、そんな“筒美チルドレン”のうちの1人だ。昭和の日本音楽史を代表するヒットメーカーから、平成~令和のヒットメーカーである彼が受け継いだものとは? 本稿では“ロック漫筆家”安田謙一を聞き手に迎え、メールインタビューを通じて、つんく♂に筒美京平への思いを語ってもらった。 取材・文 / 安田謙一(ロック漫筆) 筒美京平とつんく♂の共通点とは?筒美京平の訃報はツイッターで知った。 歌手が亡くなったときには、すぐにその人の歌を聴くことはしないのに、この
筒美京平さんが2020年10月7日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を捧げます。 筒美さんは、1940年生まれ。青山学院の初等部に入学され、中等部、高等部、そして大学経済学部を卒業後、1963年に日本グラモフォン・レコード(後のポリドール、現ユニバーサルミュージック)に入社されました。作曲家としてデビューされてから、数々のヒット曲を生み出し、歴代1位のシングル曲総売上枚数を誇っていらっしゃいます。 筒美さんには、青山学院の全卒業生(校友)の方々に郵送でお届けしている「あなたと青山学院」の前身にあたる「青学チャイムズ」VOL.9(2009年2月発行)にご登場いただいています。 故人を偲び、哀悼の気持ちを込めまして、当時めったにメディアに登場されなかった筒美さんに特別にインタビューさせていただいた記事をご紹介いたします。 最後に、青山学院理事長 堀田宣彌からの、お別れの言葉を掲載いたします。
18日は「筒美京平の世界 in コンサート」@東京国際フォーラム。 正味、エゲツないコンサートでした。というか初めて観たよこんなコテコテの「歌謡ショー」。 指揮者(船山基紀氏)率いる管弦含めて20名以上のフルバンドがドカンと一発音を出した時の「圧」がまずすごい。 そしてそこから始まるこれもんの曲の数々。曲名の後はこのコンサートでの歌唱者、カッコ内は原曲の歌唱者。 つまりカッコがないのは本人が登場しての歌唱ということです。 <前半> 01.ブルー・ライト・ヨコハマ(いしだあゆみ) / 伊東ゆかり 02.誰も知らない / 伊東ゆかり 03.雨がやんだら(朝丘雪路) / 夏木マリ 04.真夏の出来事 / 平山三紀 05.芽ばえ / 麻丘めぐみ 06.わたしの彼は左きき / 麻丘めぐみ 07.赤い風船 / 浅田美代子 08.にがい涙(The Three Degrees)/ AMAZONS 09.セ
プロローグ 1980年代 ベスト10 10位:ギンギラギンにさりげなく-近藤真彦 9位:ついてるねノってるね-中山美穂 8位:卒業-斉藤由貴 7位:夏のクラクション-稲垣潤一 6位:抱きしめてTONIGHT-田原俊彦 5位:仮面舞踏会-少年隊 4位:センチメンタル・ジャーニー - 松本伊代 3位:夏色のナンシー - 早見優 2位:なんてったってアイドル - 小泉今日子 1位:Oneway Generation - 本田美奈子 まとめ プロローグ 2020年10月7日に作曲家「筒美京平」さんが亡くなったことが報じられました。 ご冥福をお祈りしますとともに残してくれた作品を振り返ります。 前回1970年代について書いたので今回は1980年代編です。 www.sugarless-time.com 1980年代にテレビやラジオから流れていた曲、素直に受け入れられなかった曲も多々ありますのでレコード
80年代のアイドル ──80年代に入っても、京平さんの快進撃は続きます。 近田 この時代になると、ロックの影響かもしれないけど、アイドルやってる人たちにも 「自分は何で歌うのか」っていう自意識が芽生えてくるんだよ。だんだん、職業作家の先 生方から有難く曲をいただくっていうより、コラボレーションを行っているという感覚が先行するようになる。まあ、俺に言わせりゃ、かなり恐れ多いことなんだけどさ(笑)。 ──アイドルにもアーティストとしての自覚が生まれたわけですね。 近田 つまり、曲と歌い手の間に乖離を生じさせないことが求められる。そこに誠実な形で歩み寄ったことは、その後の京平さんにとって本当に重要だったと思う。 ──すでに名を成した大家にとっては、その意識の更新はなかなか難しいですよね。 近田 新しいもの、若い人たちが興味を持つものに対する貪欲な好奇心が、京平さんは際立って強かった。80年代にな
2020年8月21日に無観客配信で行われた小泉今日子にとってひさびさのソロライブ『唄うコイズミさん』。彼女のさりげない歌声とアコースティックなアレンジでよみがえった名曲の数々は大好評を呼んだ。 あれから約半年を経て、3月21日に『唄うコイズミさん 筒美京平リスペクト編』が、再び無観客配信で開催される。今回のテーマは文字通り、ジャパニーズポップスの歴史に膨大なヒット曲を送り出した作曲家、筒美京平。昨年10月7日に亡くなった稀有な音楽家への小泉今日子からのトリビュートとして、彼女に送られた筒美京平楽曲を歌う企画だ。 1983年に5枚目のシングルとしてリリースされた「まっ赤な女の子」を皮切りに、彼女が歌ってきた筒美楽曲はシングルだけでも10曲に及び、カップリングやアルバム曲も含めると30曲を超える。「半分少女」も、「迷宮のアンドローラ」も、「ヤマトナデシコ七変化」も、「魔女」も、「なんてったって
プロローグ 1970年代 ベスト10 10位:さらば恋人 ー 堺正章 9位:時代遅れの恋人たち ー 中村雅俊 8位:たそがれマイ・ラブ ー 大橋純子 7位:私の彼は左利き ー 麻丘めぐみ 6位:ロマンス ー 岩崎宏美 5位:魅せられて ー ジュディ・オング 4位:赤い風船 ー 浅田美代子 3位:17才 ー 南沙織 2位:芽ばえ ー 麻丘めぐみ 1位:木綿のハンカチーフ ー 太田裕美 番外: まとめ プロローグ 2020年10月7日に作曲家「筒美京平」さんが亡くなったことが報じられました。 あらためてわたしの印象深い「筒美京平」さん作品を振り返り、少ないですけど10曲をセレクトしてみました。 1970年代、1980年代にテレビやラジオから流れていた曲、70年代は朧気な記憶とリアルタイムではなくても聴き覚えのあるもの、80年代は素直に受け入れられなかった曲も多々あり好き嫌いはありましたが今でも
どうも。 では、昨日からの「筒美京平 心のベストテン」カウントダウン、いよいよベストテン、行きましょう。 第10位は、誰もが知ってる、この曲から! 10.サザエさん/宇野ゆう子(1969) 10位は「サザエさん」。 おそらく筒美先生の曲の中で、最も知名度があるの、結果的にこの曲なんだと思います。その意味でトップ10、外せないだろうと思って入れました。 この曲、何がすごいって、1969年に作られたヴァージョンが更新されることなく、同じアレンジのものが50年以上も使われていることですね。それをやっても一切古びれることがないのは、やはりこの曲の持つモータウンのビートの普遍性によるものなのではないのかなと僕は思ってます。 また、一概に「モータウン」と呼ばれるこの曲ですけど、モータウンの中でも レーベルの看板だった、ダイアナ・ロスのスプリームスを手がけたソングライティング・チーム、ホランド・ドジャー
24年にわたって日本の音楽シーンにメッセージを発信し続け、業界関係者にも注目され続けてきた「週刊文春」の名物連載、近田春夫さんの「考えるヒット」が新年号(12月31・1月7日合併号)をもって幕を閉じました(近田さんには文春オンラインで執筆を続けていただけることになりました。第1回はこちら)。 その近田春夫さんの自伝が出版され、注目を集めています。IQ169の天才児だった子供時代から、ミュージシャンとなり日本のロック草創期から様々なジャンルのバンドやCM音楽制作などで活躍を続けて現在に至るまで、約40時間にわたるインタビューをライターの下井草秀氏が構成した368ページの大著です。この2月に古希を迎える近田さんのユニークすぎる人生の足跡を記した本書は、そのまま日本の音楽史をトレースする貴重な資料ともなっています。 同書から一部を抜粋して転載します。(全3回の2本目/#1、#3を読む) ◆◆◆
80年代の田原俊彦を形成してくれた京平先生、ポップで明るくてダンサブルな曲をたくさん創って頂きました。 「君に薔薇薔薇・・・という感じ」からはじまって、「原宿キッス」「ラブ・シュプール」「抱きしめてTONIGHT」、ナオコさんとのデュエット「夏ざかりほの字組」、アルバムを1枚トータルプロデュースをして貰ったり、 全部で約50曲位はあるんじゃないかな。。。 レコーディングに来ていただいた時の、品のあるたたずまい、ジャニーさんとの楽しそうなコミュニケーション、真っ黄色なポルシェに乗って颯爽と帰っていく京平先生が、今でも脳裏に焼き付いています。 これからも京平先生に頂いた財産がたくさんあるので、ステージでしっかり歌い続けていきたいと思います。 心より御冥福をお祈り致します。 田原俊彦
半田健人オフィシャルブログ「生活の柄」Powered by Ameba 半田健人オフィシャルブログ「生活の柄」Powered by Ameba 2020年10月7日、作曲家・筒美京平先生がお亡くなりになりました。 歌謡曲に育てられたと云っても過言では無い我が半生。直接の接点、交流は無くとも曲は教えてくれました。 ここに『個人的・筒美京平作曲作品Best30』を記しておきたいと思います。 ※アーティスト被りを無くすため、原則として一アーティストにつき一曲で選定を行いました。 ( )内は(作詞者/編曲者)の順で記載します。 第30位 お世話になりました/井上順 (山上路夫/筒美京平)昭和四十六年 【まさに歌謡界全員で今こそ京平先生にお掛けしたい言葉です。提供受けた受けないの話ではなく。】 第29位 愛しつづけるボレロ/五木ひろし (阿久悠/船山基紀)昭和五十七年 【メロディよりも阿久先生のタ
筒美京平さん (c)朝日新聞社この記事の写真をすべて見る 「好きな筒美京平さんの歌」読者投票ランキング (週刊朝日2021年5月7―14日号より) 男の子女の子だったあのころから、あなたの旋律に魅せられて、どれほどWAKUWAKUさせてもらったことだろう。もはや時代遅れの恋人たちとなっても、曲を聴けば思い出がよみがえり、Romantic(ロマンチック)が止まらない。昭和から令和に至るまで、日本歌謡界のトップランナーであり続けた筒美京平さん。希代の名作曲家にして編曲家が亡くなって半年余り。コロナ禍で、そのサウンドが元気を与えてくれる。ありがとう筒美さん、そしてまた逢う日まで。 【ランキング結果】「好きな筒美京平さんの歌」読者投票ランキングはこちら * * * 偉大な作曲家をしのんで4月17、18日、東京国際フォーラムで「~筒美京平 オフィシャル・トリビュート・プロジェクト~ザ・ヒット・ソ
なんで突然、筒美京平ベスト10なのかわかりませんが、10曲選んでみました。結構難しいよ。やってみ。 筒美京平と言えばご存じのとおり日本を代表する作曲家で、総売り上げ枚数7560.2万枚は歴代1位です。1968年から1989年まで、22年連続で作曲家年間売上TOP10にランクイン。最も売上枚数が多かった年は1972年で約650万枚の売上を記録した。昨年10月7日にお亡くなりになりました。弟は音楽プロデューサーの渡辺忠孝。スピッツ、コブクロなどを手掛けた名プロデューサーです。 これから書くのは私の勝手な筒美京平ベスト10なので、反論は認めませんがしてもいいです。 第10位 平山みき「真夏の出来事」(1971) 小学校の頃を思い出す昭和の歌謡曲ランキングになりそうなスタート。 第9位 稲垣潤一「ドラマティック・レイン」(1982) 二十歳の頃を思い出す曲の一つだったのでランクイン。 「夏のクラク
筒美京平楽曲のカバーアルバム。生前から企画されていたということですが、結局本当の意味での「トリビュート・アルバム」的な形でリリースされました。 これがとてもいい。 通常のカバー曲集、トリビュート・アルバムは企画から各ミュージシャンの担当曲を決めたら相当な部分はミュージシャン側に丸投げなところが多いわけですが、このアルバムは、サウンド・プロデュースこそ、武部聡志氏の他に亀田誠治氏、本間昭光氏、西寺郷太氏、松尾潔氏、小西康陽氏が名を連ねていますが、総合プロデュースとして武部氏ががっつり全体を束ねていて、アルバムとしての全体的な一貫性は抜群。 そしてそういう形ですので、「sumikaの片岡健太」「DISH//の北村匠海」「TUBEの前田亘輝」という形での参加者はいるものの、あくまでもヴォーカリストとしての参加ですので、若手バンドが自分たちの解釈によるほぼコピーとか早めのエイトビートにしただけとか
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