福澤諭吉 「福翁自伝」の一節で要約すると、 諭吉本人が、 士族のような横風な態度で百姓に道を尋ねると丁寧な対応だった。 小さく丁寧に百姓に道を尋ねると横風な態度であしらわれた。 福翁自伝 - 国立国会図書館デジタルコレクション 福翁自伝 - Wikipedia 自分より上の者には媚び、下の者は尊大に出る。 文明開化、四民平等となっても人民は変わっておらず、落胆したということです。 そして立派な国民に成るには学問、教養が重要であると論じています。 現代でも変わっていないと思います。 私がアパート契約をしたとき、不動産屋の担当者は私が実質無職だと知ると高圧的な態度になりました。 次に貯金額を聞かれたので答えると、調子が下がったように担当者の態度が変わりました。 岡倉天心 1903年(明治36年)、岡倉はアメリカのボストン美術館からの招聘を受け、横山大観、菱田春草らの弟子を伴って渡米した。羽織・
ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)のチャーリー・ワッツ(Charlie Watts)と、クリーム(Cream)のジンジャー・ベイカー(Ginger Baker)のあまり知られていない友情の逸話を、ジンジャーの娘ネッティが語る。チャーリー・ワッツへの追悼文をジンジャーの公式サイトで公開しています。 「私の亡き父(ジンジャー・ベイカー)が、彼の2つの最も永続的な友情の1つに敬意を表してほしいと思っていることはわかっています。ここでは、親密でありながらもあまり知られていない2人の関係について、私が個人的に語ってみたいと思います。 私は、1960年代初頭からチャーリー・ワッツの名前を知っていました。 彼の母親が、チャーリーが育った北ロンドンのキングスベリーに住む私の母親リズの叔母パメラと知り合いだったことに加え、私たちが住んでいたニーズデンに近く、当時は地下鉄ベーカール
ヘミングウェイは、20世紀を代表するアメリカの作家です。「武器よさらば」、「誰がために鐘は鳴る」、「老人と海」など多くの名作を残しました。1954年にはノーベル文学賞も受賞しています。 行動派の作家として知られ、自ら戦場に赴いて、その実体験を作品にしたりしています。また、狩猟や釣り、ボクシングといったアウトドアな趣味を持ち、その豪快なライフスタイルはアメリカ社会に多大な影響を与えました。 彼の小説は、「ハードボイルド小説」と呼ばれています。ハードボイルドとは、感情的・情緒的な表現が少なく、客観的な事実を簡潔な文章で表現する手法のことです。その文章は、シンプルながら広い意味を持ち得るため、読み手を味わい深い世界へいざないます。 簡潔な文章が求められる新聞記者出身のヘミングウェイは、小説においてこの技法を確立し、次々と名作を生み出していったのです。これらの作品は、後世の作家にも大きな影響を与え
その卓越した手法から「投資の神様」とも称される、 アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット氏。 世界中の投資家から尊敬を集めるバフェット氏ですが、 かなりの偏食家としても有名であり、 90代になった現在でも毎日のようにハンバーガーを食べ、 飲み物は、あまりに甘い事から日本では未発売となっている、 チェリーコークが大好物であると伝えられています。 そんなバフェット氏には、1989年に起きた出来事を境に、 日本食は一生口にしないと決めたという逸話も。 バフェット氏はその日、ソニーの創設者の1人である、 盛田昭夫氏に招待されてディナーに参加していたのですが、 「謎のスープ」や「得体の知れない料理」に動揺。 結局15品あったコース料理には一切手をつける事なく、 その日のディナーは終了してしまいました。 後にバフェット氏は、自伝の担当者アリス・シュローダー氏に、 「最悪だった」と日本食に対する率直な
猛将・智将ひしめく曹操麾下(そうそうきか)にあって、特に目覚ましい功績を挙げた張遼(ちょうりょう)・楽進(がくしん)・于禁(うきん)・張郃(ちょうこう)・と並び、「魏の5大将軍」としてたたえられている徐晃(じょこう)。政治的活動をほとんどしなかった根っからの武人であり、宋時代の兵法家張預から、中国の「名将べスト100」にも選出された、徐晃の輝かしい戦績と残された逸話を紹介します。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大
父が天草出身のふあららいです。 そして父の生家はがっつり仏教です。改宗しちゃったのかな? 2021年6月22日(火) 2日目を迎えました。観光できるのはこの1日だけ。無理は禁物の50代(笑)疲労を溜めないように欲張らずにいきます。 今日は市電の1日乗車券を活用して回ります。 500円で乗り放題です。 まず向かうは大浦天主堂。 まだ8時過ぎということもありますが、お土産屋さんの並ぶ通りは閑散・・・ 坂道を登って息が切れる頃、大浦天主堂に着きました。 正式には「日本二十六聖殉教者聖堂」と言うそうです。 日本二十六聖人とは豊臣秀吉のキリシタン禁教令により、見せしめのため処刑された宣教師と信徒のことで、1862年に聖人とされカトリック全信徒の尊崇を集めています。 堂内は撮影禁止との事で、マリア様を撮り終えたらカメラはバッグにしまいました。 天主堂のほか、博物館となっている旧羅典神学校と司祭館をゆっ
進士 素丸 @shinjisumaru 太宰に安吾に中原中也、漱石、芥川、谷崎潤一郎に永井荷風、紅葉に露伴に泉鏡花… 明治大正昭和時代の作家たちのちょっとおかしな逸話「文豪どうかしてる逸話集」amazon.co.jp/dp/4046044519 KADOKAWAより発売中。 集英社「ブンゴウ泣きたい夜しかない」など 進士 素丸 @shinjisumaru カレーの日と聞いて。 織田作之助が愛した自由軒のカレー と坂口安吾が酒と薬で酩酊して100人前頼もうとした辰巳軒のカレー。 家に遊びに来た田山花袋に国木田独歩が振舞った米にカレー粉かけただけのカレーも載せたいけどもちろん写真はない。 pic.twitter.com/aAExeXwnRc
世界遺産に残る怖い逸話 世界遺産は歴史的価値のある建造物などが登録される事が多い。歴史を積み重ねてきたという事は、それだけ様々な出来事が起きてきたという事でもある。 それは人の正の部分だけでなく、人の負の部分の出来事でもあり…。 今回は、そんな人の負の感情や出来事が怖い逸話として残った世界遺産を6カ所ご紹介。 世界遺産「グレーフライアーズ・カークヤード」に残る怖い逸話 1つめの怖い逸話「ジョージ・マッケンジーの呪い」 2.掘り返された遺体 世界遺産「ロンドン塔」に出る首なし女性の霊 1人目の候補「王妃アン・ブーリンの亡霊」 2人目の候補「ジェーン・グレイの亡霊」 世界遺産「セドレツの聖母マリア大聖堂」には骸で出来たインテリアが 世界遺産「リガ旧市街」にある2つの怖い逸話 やましい事を抱える女性は要注意「聖ヤコブ教会」に残る怖い逸話 女性のすすり泣く声が聞こえる「スウェーデン門」に残る怖い逸
MR.BIGのポール・ギルバート、30周年を迎えたアルバム『Lean Into It』についての逸話を語る MR.BIGのポール・ギルバート(Paul Gilbert)は、発売30周年を迎えたアルバム『Lean Into It』についてUltimate Classic Rockのインタビューの中で語っています。アルバム制作の背景、ドリル、アルバム制作時の一番の思い出、ハービー・ハーバートとのお気に入りのエピソードなど。 Q:『Lean Into It』はMR.BIGにとって、とても大きなアルバムとなりました。2作目となるこのアルバムのレコーディングは、どのような状況で行われたのでしょうか。 「僕たちはツアーに出ていた。とてもいいツアーで、ラッシュと一緒にたくさんのツアーをしたんだけど、僕たちの曲がもっとメロディックであれば、もっと良い反応を得られたのではないかと感じたことを覚えているよ。何
ポール・マッカートニーはザ・ビートルズを知らない世界を描いた映画『イエスタデイ』を観に行ったことを認めて、同作について「とても気に入った」と語っている。 映画『イエスタデイ』はヒメーシュ・パテル演じる主人公のジャック・マリック以外、誰もザ・ビートルズを知らない世界を描いたもので、『トレインスポッティング』や『スラムドッグ$ミリオネア』で知られるダニー・ボイルが監督を務め、『ラブ・アクチュアリー』や『ノッティングヒルの恋人』で知られるリチャード・カーティスが脚本を手掛けている。 ポール・マッカートニーは『イエスタデイ』の公式の試写会への招待に丁重に断りを入れたことを明かして、妻であるナンシー・シヴェルにアメリカのハンプトンにある映画館で一緒に同作を観ないかと誘ったと語っている。 「『ラブ・アクチュアリー』を監督したリチャード・カーティスがアイディアを書いた手紙を僕に送ってきたことがきっかけだ
事実上の廃止が決まっていた新潟―福岡 2023年、新潟空港の話題と言えば、トキエア株 式会社が開設する新潟―札幌丘珠の新たな地域間路線誕生。従来の新潟―新千歳間に比べ、運賃が半額程度に抑え られるLCCということで多大な期待を集めている。8月10日に開業予定日を延期したが、新潟発の航空会社だけに「なんとか開業に漕ぎつけてほしい」という地元からの応援の声は止まない。北海道に取引先や出先を置くビジネスマンや北海道旅行を手軽に楽しみたい向きも就航を待ち焦がれている。 実は新潟空港と結ぶ地方間路線には、過去に一度、驚くべき奇跡ともいうべき逸話が残されている。航空会社が廃止を届け出た路線が、その後に廃止撤回となり、現在は潤沢な搭乗率を誇る繁盛路線にまでなったという大逆転劇。当時の泉田裕彦県知事が「(国の担当官に)後にも先にもこんなことはないだろうと言われた」と目を丸くした奇跡のドラマ。 それが起こっ
織田信長の残虐性を表す逸話の一つとして伝えられているのが、比叡山焼き討ち。堂塔坊舎が燃やされ、3000人ほどが虐殺されたといわれていますが、近年の発掘調査などによって、そんなに大規模な焼き討ちではなかったと考えられてきました。 1981年に滋賀県教育委員会が行った調査によると、大規模な火事があったのにも関わらず、焦土の跡や人骨など物的証拠が見つからなかったとされています。さらに焼き討ちされる前年に残された記録によれば、当時の僧侶たちは堕落しており、堂塔も坊舎も信長が焼き討ちにかける頃までにはすでに荒れ果てていたといいます。 1571年、浅井・朝倉両氏を匿っていた比叡山延暦寺に対し、業を煮やした信長は焼き討ちを開始。ところがそのとき、比叡山にはまともな僧侶がおらず、権威だけが残っていました。 そんな有様を見た信長は、比叡山の麓にある坂本という町の襲撃を決断。坂本は比叡山を降りた僧侶たちが仏教
ブッチ・ヴィグがスティーヴ・アルビニを語る ソニック・ユース制作中の逸話/大好きなアルビニ作品/ニルヴァーナが『In Utero』でアルビニを迎えたこと等 スティーヴ・アルビニ(Steve Albini)の訃報を受け、ブッチ・ヴィグ(Butch Vig)が思い出を語る。 ●面白い逸話 「面白い話がある」と話し始めたのは、こんな逸話でした。ソニック・ユースの『Dirty』を制作している間、ヴィグはキム・ゴードンとサーストン・ムーアの家からそれほど遠くないアパートを2ヶ月ほど借りたという。そこはソニック・ユースの友人のものでしたが「初めて中に入ったとき、スティーヴ・アルビニの大きな写真が飾ってあった。口にナイフをくわえ、頬からナイフを出してニヤニヤしていた。彼とアパートの持ち主は友人だったんだ。『Dirty』を制作している間、毎晩アパートに戻ると、それが僕を出迎えてくれた。怖かったよ」。 ●ア
18年前のドバイでのエピソード 現地時間24日の早朝。吉田豊がドバイ入りする。彼がこの地に降り立つのは2004年以来。当時、所属していた大久保洋吉厩舎で主戦を務めていたリージェントブラフがドバイワールドカップに挑戦。メイダン競馬場が出来る前のナドアルシバ競馬場で、このレースに参戦した。 その時、そのレースぶりを見守ったのが、当時は技術調教師だった矢作芳人。調教師試験には合格したが、開業までの猶予期間を利用して、後学のため、海を越えた。そして、ここに現在につながる1つのいきさつが生まれた。 現在ドバイ入りしている矢作芳人調教師 出走馬の関係者は主催者側からの招待となるこのドバイミーティング。吉田豊も当然、招待されていた。そして、当時は招待騎手1人につきもう1人、同行者の招待も認められていた。そこで吉田は矢作を誘ったのだ。吉田が振り返る。 「僕は結婚もしていないし、とくに連れて行く人のアテはあ
将来社長になりたい人必見!? 日本を代表する経営者たちの伝説的エピソードをご紹介! 人生の教訓になる教えばかりで、超勉強になりました。 1. キティちゃんってコラボしすぎだよねと言ったら「サンリオの社長は『大好きなのに売れなくてこの世界から無くなりそうな商品があるならうちに言いなさい。キャラとコラボさせれば売れます。私は世界中皆が仲良くするためにこの会社を作った』って理由でコラボするらしい」と教えてもらい胸がいっぱい。 — 松はるな (@unicohm) June 17, 2023 2. 昔課金ゲーム全盛なのにそこになかなか踏み込まない任天堂の株主総会である人が「他社のように課金ゲームを作らないのですか」って質問したんだけど、故岩田社長は「『子ども』『安全』というイメージを我々は大事にしたい」って答えててホントいい会社だと思ったよ。これからも自主的に課金します。 — 野瀬大樹 (@hiro
「ドカベン」「あぶさん」などの野球漫画で知られる漫画家の水島新司さんが10日、肺炎のため82歳で死去した。「あぶさん」に実名で登場し、南海、阪神などで投手としてプレーした江本孟紀さん(74)=サンケイスポーツ評論家=は「さみしいですね。野球はもちろん、野球選手のことを愛してくれた人でした」と思いをはせた。 大酒飲みの主人公・景浦安武が南海ホークス(現ソフトバンク)で活躍する姿を描いた「あぶさん」は1973年に連載が始まり、当時南海でプレーしていた江本さんも作中にたびたび登場した。連載開始当初は「知らなかった」と江本さん。しかし、本拠地・大阪球場近くの歓楽街「ミナミ」を歩いていると、「漫画に出てますね」などと声をかけられることが増えたという。
事例作成日 2024年04月03日 登録日時 2024/04/16 15:45 更新日時 2024/04/26 22:27 長野県に関する資料で「源氏はまだ栄えているのか」と聞かれたという記述が確認できる資料は確認できなかった。 以下、関連があると思われる資料を紹介した。 1. 「源氏はまだ栄えているのか」と尋ねられたという記述が確認できた資料について 「国立国会図書館デジタルコレクション」で「源氏はまだ栄え」のキーワードで検索したところ、次の資料が確認できた[最終確認日 2024.04.16]。 ・『秘湯の旅 : 野趣とスリルのはだか天国 (サラリーマン・ブックス)』伊能孝著 読売新聞社 1963【国立国会図書館デジタルコレクション/図書館・個人送信限定】[最終確認日 2024.04.16] p.45に平家の落人部落に関する余談があり、この中に 昭和の初期に「源氏はまだ栄えているのか」と
『スター・トレック』シリーズでレナード・ニモイ(Leonard Nimoy)が演じたスポック。ニモイの遺族は2021年末、撮影で実際に使われた“スポックの耳”をスミソニアン国立航空宇宙博物館に寄贈しました。同博物館は、スポックの耳についての逸話と、寄贈時のボックス開封映像を公開しています。 以下、同博物館より 「スポックの耳ほど、SFを象徴する耳はないだろう。レナード・ニモイが『スター・トレック』シリーズとその後の映画で演じた、人間とヴァルカン人のハーフの科学士官は、その鋭い知性とクールな論理、そして尖った耳で知られています。 このたび、『スター・トレック』から、ニモイの個人コレクションであるスポックの耳が新たにコレクションに加わりました。これは、ニモイがオリジナル・シリーズの撮影でミスター・スポックに変身するために作られたもので、俳優が撮影現場から持ち帰り、ディスプレイ・ボックスを手作り
日本ケンタッキー・フライド・チキンは6月17日から、「デラックスチキンフィレサンド」を、全国の「ケンタッキーフライドチキン(KFC)」店舗(一部除く)で発売する。数量限定で、なくなり次第販売終了。 「デラックスチキンフィレサンド」は、日本KFC創業50周年を記念し、利用客へ感謝の気持ちを込めて発売する、こだわりの詰まったボリューム満点のメニュー。単品500円、セット(ポテトS・ドリンクM付き)は800円、ボックス(骨なしケンタッキー・ミニアップルパイ・ポテトS・ドリンクM付き)は1000円(すべて税込価格)。 ジューシーな国内産チキンフィレは、カーネル・サンダース秘伝の11種類のハーブとスパイスで味付けし、店舗で1ピース1ピース手づくり調理。サクサクのハッシュポテト、スライスした濃厚なチェダーチーズ、スパイシーなコブソース、新鮮なレタスと一緒にライ麦パンではさんでいる。50周年ロゴをあしら
デヴィッド・ボウイは1982年に放送されたアニメ『ザ・スノーマン』のイントロダクションを務めた件についてプロデューサーがその時に身に着けていたスカーフをめぐる心温まる逸話を明かしている。 レイモンド・ブリッグズの絵本をアニメ化して1982年にチャンネル4で放送された『ザ・スノーマン』は冒頭でデヴィッド・ボウイがスノーマンが人生に現れる奇想天外な物語を視聴者に語りかけるものとなっている。 デヴィッド・ボウイの息子のダンカン・ジョーンズは倉庫でデヴィッド・ボウイがその時に身に着けていたスカーフを発見して、その写真をツイートしており、それを受けて逸話が明らかになっている。 Went looking for sock monkeys in the storage boxes and FOUND THE SCARF!!! YAY! pic.twitter.com/1pcdPqcD5U — Dunca
ウィキペディアによれば、作家とは芸術や趣味の分野で作品を創作する者のうち作品創作を職業とする者、または職業としていない者でも専門家として認められた者をいう・・・らしい。 <私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪ひ合つて読むやうになつた>。作家・三島由紀夫さんは漫画好きだったそうな。ちばてつやさんの『あしたのジョー』の続きが読みたくて、週刊少年マガジン編集部を夜中に訪ねたこともあったという。 手塚治虫さんといえば漫画の神様だ。<ぼくの描くマンガの人物というのは全部ぼく自身で、ぼくのいろんな面がそれぞれ分身みたいになっている>と自著に記した。 作家・水上勉さんは9歳で京都の寺に預けられた。その寺も飛び出し、42歳で直木賞を受賞して流行作家になるまでは職を転々とした。中国での苦力(クーリー)監督、薬の行商、代用教員、役所勤めなどと職種は30を超えたとのこと。 水上さんにとっては作家も“天職
日本史(神話も含め)で最も暴虐な人物を1人あげるとすれば、筆者は第25代の武烈(ぶれつ)天皇をあげる。『古事記』に拠れば、8年――この暴君は天下を治めたことになっている。 【写真】閉ざされた村で5人の女性を殺害…内臓をえぐり取った男の「本当の狙い」 仁賢天皇の皇子で、継体皇后の同母の弟。この天皇の代で、応神天皇(第14代仲哀天皇と神功皇后の子)以来の王統が断絶するため、その象徴としてことさらに、悪逆無道ぶりが示されたのではないか、とも取り沙汰されている。武烈こそ、日本史上、最悪・残虐の人物といってよい。 『日本書紀』に拠れば、「二年の秋九月に、孕める婦の腹を刳きて、其の胎を観す」とあった。 武烈が即位して2年目=西暦ではちょうど、500年にあたるとされるこの年の9月、彼は妊娠している女性の腹を裂いて、赤ん坊を切り出して見た、という。ちなみに、このとき武烈は12歳。 後世、戦国武将・武田信玄
日本武道館で行われた安倍晋三元首相の国葬=27日古代ギリシャの都市国家アテネにはオストラシズム(陶片追放)という制度があった。独裁者になって国家に害を及ぼす僭主(せんしゅ)の出現を防ぐため、その恐れがある政治家の名前を市民が陶片に書いて投票し、一定数に達すると10年間、追放された。 国民投票で弾劾裁判をするようなものだ。民意が反映されて民主的に思えるが、そうでもない。 ペルシャ戦争の英雄で公明正大な政治家として知られたアリステイデスが街を歩いていると、文字が書けないという男が陶片を差し出して「アリステイデス」と書いてほしいと頼む。「彼はあなたに何かひどいことをしたのか」と聞くと、「いや、そいつのことは何も知らないが、みんなが『正義の人』とほめるのが気に入らなくて」と答えた。アリステイデスは陶片に自分の名前を書いて渡し、国を追われた。
男色ディーノのゲイムヒヒョー ゼロ:第565回「『三本の矢』の逸話について」 ライター:男色ディーノ 著者近影 私は広島県出身なの。戦国時代だと毛利家の領土。その毛利家にはある有名な逸話がありまして。その名も「三本の矢」。ご存じのとおり,毛利元就が死の間際に三人の息子を呼んで,「矢は一本では折れやすいが,三本まとめて折ることは難しい。だから一族が結束して折れずに頑張ってね」って言い残したという話ね。 私,これについて昔から疑問に思っていて,何なら今でも不思議なんだけど,矢って放つときは一本ずつよね? 三本まとめて射るわけじゃないのにそんなことを言われても……まとめちゃったら本来の使い方ができない。……から転じてこの逸話は,「モノは壊したりせず,ちゃんと本来の使い方で使おう」という教訓だと私は考えているのです。 さて。先週この連載で「三國志14」(PC / PlayStation 4),「龍
デヴィッド・ボウイの伝説的な写真家・鋤田正義、ボウイとの出会いや様々なフォトセッションの思い出など逸話を語る デヴィッド・ボウイ(David Bowie)の写真の中でも最も印象的なものを数多く撮影した写真家・鋤田正義。ボウイのファンサイトDavid Bowie Newsは、鋤田正義にロング・インタビュー。ボウイとの出会い、さまざまなフォトセッションの思い出、来日時の様子など逸話を語っています。 Q:ボウイと初めて会ったのは1972年のロンドンでしたね。彼のポスターを見て衝撃を受け、それをきっかけに彼を撮影しようと決めたと言われています。初めて会ったときのボウイの印象や、最初のセッションでの進め方などを詳しく教えてください。 「そうですね、1972年にT・レックスの撮影でロンドンを訪れたとき、偶然、路上でボウイのポスターを見かけました。その時、彼に興味を持った私は、彼のマネージメントに連絡を
サム・フェンダーは6年生の時に自分をいじめていた人物から結婚式で演奏してくれないかと頼まれて、極めて短い返答をしたことを明かしている。 サム・フェンダーは3月20日にノッティンガム公演から始まったUKツアーに先立って『サンデー・タイムズ』紙のインタヴューを受けており、ノース・シールズの労働者階級出身であるがゆえに大学時代に異なる扱いを受けたことを振り返っている。 「談話室の一角に『農民』コーナーと呼ばれていた一角があって、僕はそこに座っていたんだ」と彼は語っている。「でも、今じゃ結婚式で演奏してくれないかと訊いてくるんだ。それで、失せろと言ってやるんだ。素晴らしいよね」 サム・フェンダーは今年の夏にロンドンのフィンズベリー・パークで過去最大の公演を行うことが決定している。この日の公演にはサポート・アクトとしてフォンテインズD.C.、デクラン・マッケンナ、ビーバドゥービー、ゴート・ガールらが
1987年。中森明菜の通算17枚目シングル「TANGO NOIR」が発売されたのは2月4日だった。しかも、前作「ノンフィクション・エクスタシー」はカセット企画だったことを考えると、シングルとしては「Fin」以来、実に5カ月ぶりだった。 その間に現場スタッフに変動があった。4作目の「1/2の神話」から16作目の「Fin」まで約3年半にわたって宣伝を担当してきた田中良明(現在は「沢里裕二」名義で作家活動)が制作に異動し、少年隊の担当ディレクターになったことから、後任として田口幸太郎(前日本レコード協会専務理事)が新たな担当プロモーターに就いた。 「まともな引き継ぎもなかったので手探りの毎日でしたね。正直、荷が重かったのは確かですが、明菜そのものがすでにトップアイドルに成長していたので、社内調整の仕事が多かったように思います。とにかく外からの問い合わせが多くて…、その対応で1日が終わってしまう感
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