赤い公園の活動情報。
2023年10月27日、SF、ミステリを中心に活躍された翻訳家の池央耿(いけ・ひろあき)氏が川崎市のご自宅で脳出血のため逝去されました。83歳でした。 池氏は1940年東京都生まれ。国際基督教大学教養学部卒。訳書に、1981年に第12回星雲賞海外長編部門を受賞したベストセラーであるJ・P・ホーガン『星を継ぐもの』のほか、アイザック・アシモフ《黒後家蜘蛛の会》シリーズ、チャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』『二都物語』、ロバート・フルガム『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』、ピーター・メイル『南仏プロヴァンスの12ヶ月』など多数。著書に『翻訳万華鏡』があります。 安らかにお眠りください。 2024年4月 (3) 2024年3月 (9) 2024年2月 (8) 2024年1月 (7) 2023年12月 (8) 2023年11月 (7) 2023年10月 (7) 2023年9
江崎マサルが新型コロナウイルス感染のため2021年8月31日に亡くなった。55歳だった。江崎はヒップホップユニットhy4_4yh(ハイパーヨーヨ)のプロデューサーとして知られるほか、自身もアーティストとして長く活動を続け、今年に入ってからは「エザキマサル卍」名義での連続配信リリース企画をスタートさせたばかりだった。 この記事では16年以上にわたり江崎と活動をともにしてきたhy4_4yhの2人に話を聞きながら、彼の遺した足跡を振り返る。また2人にはhy4_4yhの今後についても語ってもらった。 取材・文 / 大山卓也 撮影(hy4_4yh) / つぼいひろこ 感染判明から8日後、容体が急変し帰らぬ人に今回のhy4_4yhへの取材は江崎が亡くなってから約2カ月後の某日に行われた。yukarinとchanchalaの2人はこの間どんな思いで過ごしていたのだろうか。 「Pちゃん(江崎の愛称)に伝え
400勝投手、金田正一氏が死去 死因は急性胆管炎による敗血症 86歳で 3枚 プロ野球の国鉄、巨人で通算400勝を挙げた金田正一氏が死去したことが6日、分かった。同日午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため、都内の病院で亡くなった。86歳だった。巨人が発表した。 金田氏は愛知県出身。享栄商高を中退し、1950年に国鉄(現ヤクルト)入り。8月入団ながら速球と縦に落ちるカーブを武器に8勝、打者としても17歳2カ月で史上最年少本塁打を記録した。51年から14年連続で20勝以上をマークし、球界を代表する大投手に。対巨人、対長嶋茂雄に闘志を燃やし、58年4月5日の開幕戦(後楽園)では、デビュー戦の長嶋から4打席連続三振を奪った。 巨人移籍5年目、通算400勝を達成した69年に現役を引退した。前人未到の400勝、4490奪三振と298敗はともに史上最多。沢村賞には3度輝いた。背番号34は巨人の永久
宗教法人「幸福の科学」の総裁、大川隆法氏が2日、亡くなりました。66歳でした。 「幸福の科学」のホームページなどによりますと、大川氏は徳島県出身。 東京大学法学部を卒業後、大手商社での勤務を経て、1986年に「幸福の科学」を設立しました。 宗教法人のほか、出版や映画、教育などの各分野で関連する団体や法人を設立していて「幸福の科学」グループの創始者兼総裁とされていました。 関係者によりますと、大川氏は、2月28日の未明、東京都内の自宅で倒れ、病院に搬送されましたが、2日に亡くなったということです。 66歳でした。 「幸福の科学」グループの広報担当者は「現時点でお答えできないが後ほど発表します」と話しています。
高橋和希先生のあまりにも突然の訃報に接し、大変驚くとともに哀惜の念に堪えません。 「遊☆戯☆王」という偉大なコンテンツを生み出してくださった先生に対し、いまはただ深く感謝するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。 「遊☆戯☆王」を、ファンの皆様とともに愛し続け、未来へ繋いでまいりたいと考えております。 以上
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阪神・淡路大震災などの被災者の精神的なケアに尽力し、文筆家としても多くの業績を残した精神科医で神戸大名誉教授、文化功労者の中井久夫(なかい・ひさお)さんが8日午前11時5分、肺炎のため神戸市の介護施設で死去した。88歳。奈良県出身。自宅は神戸市。 葬儀・告別式は近親者で行い、供花、弔電は辞退する。喪主は長男伸一(しんいち)氏。 京都大卒。東京大などを経て1980年、神戸大医学部教授に。統合失調症研究の第一人者で、先駆的な診療法で高く評価された。 95年の阪神・淡路大震災では、被災者の心のケアの必要性を早くから訴え、支援体制の構築や支援者の育成に注力。2004年に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の研究や治療、相談などに当たる全国初の施設「兵庫県こころのケアセンター」が開設され、初代センター長に就任した。 1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の遺族らとも関わり、犯罪や災害の被害者
映画やテレビでかれんでひたむきな日本女性の役などを演じ、幅広い世代に親しまれた女優の八千草薫さんが、今月24日、東京都内の病院で膵臓がんのため亡くなりました。88歳でした。 映画「宮本武蔵」や「蝶々夫人」、舞台の「二十四の瞳」などでかれんでひたむきな日本女性の役を演じて人気を集め、一時代を築きました。 昭和52年には、民放のドラマ「岸辺のアルバム」で秘密を抱える主婦を演じて役の幅を広げたほか、昭和54年から翌年にかけてNHKで放送されたドラマ「阿修羅のごとく」では四人姉妹の次女役を演じて、歯にきぬ着せぬ姉妹のやり取りなどが話題になりました。 また、NHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」では、豊臣秀吉の正室、ねねの役を演じました。 その後も温和な母親や上品なおばあちゃんの役など多くの映画やドラマに出演し、平成9年には紫綬褒章、平成15年には旭日小綬章を受章しています。 80歳をすぎても民放のドラマ
ローマ教皇庁は前の教皇で、2013年に辞任したベネディクト16世が、31日午前に亡くなったと発表しました。95歳でした。 ベネディクト16世、本名、ヨーゼフ・ラッツィンガー氏は1927年、ドイツ南部バイエルン州で生まれました。 ミュンヘンの大司教などを経てローマ教皇庁の要職を務めたあと、ヨハネ・パウロ2世の死去に伴って2005年4月に78歳で第265代のローマ教皇に就任しました。 カトリック教会の中でも避妊や人工妊娠中絶などに強く反対する保守派として知られ教皇としてこうした立場を表明する一方、ツイッターへの投稿など「開かれたバチカン」をアピールしました。 また在任中にはスキャンダルも相次ぎ、聖職者による性的虐待の問題やローマ教皇庁の不透明な財務状況の問題などで対応に追われました。 そして就任からおよそ8年後の2013年に高齢による体力の低下を理由に辞任することを突然表明しました。 教皇が死
「ザ・ドリフターズ」のメンバーとして活躍したタレントの仲本工事さんが、19日午後10時22分、交通事故による急性硬膜下血腫のため神奈川県内の病院で亡くなりました。81歳でした。 仲本さんは東京都出身で、学習院大学に在学中に歌手のジェリー藤尾さんが率いるジャズバンドのメンバーになりました。 1965年にいかりや長介さんをリーダーとする人気コミックバンド「ザ・ドリフターズ」に参加し、翌年にはビートルズの来日公演の前座でリードボーカルとして「ロング・トール・サリー」を歌い注目を集めました。 1969年に民放の公開バラエティー番組「8時だョ!全員集合」が始まるといかりやさん、加藤茶さんや高木ブーさんそれに志村けんさんらとともに数々のコントを披露して国民的な人気を博し、仲本さんも中学生の頃に始めた体操を取り入れたコントなどで人気を集めました。 その後もコメディアンとしてだけでなく、ミュージシャンとし
幼い子どもを残したまま北朝鮮に拉致された田口八重子さんの兄で拉致被害者の家族会代表として14年にわたって救出活動の先頭に立ってきた飯塚繁雄さんが18日未明、入院先の病院で亡くなりました。 83歳でした。 飯塚繁雄さんは、昭和53年に1歳と2歳の幼い子どもを残したまま北朝鮮に拉致された田口八重子さんの兄で、八重子さんの行方が分からなくなって以降、2人の子どものうち当時1歳だった耕一郎さんを引き取って育ててきました。 北朝鮮が、八重子さんを含む日本人の拉致を認めた平成14年の日朝首脳会談の後、拉致被害者の家族会の活動に加わり、当時の代表、横田滋さんを支えながら政府への訴えのほか、被害者の救出を求める署名や講演を続けてきました。 平成21年には、北朝鮮当局の指示で八重子さんが日本語の教育係をさせられた大韓航空機爆破事件の実行犯キム・ヒョンヒ(金賢姫)元工作員との面会が実現し、耕一郎さんとともに韓
「ドラゴンクエスト」シリーズをはじめ、数々の弊社作品に楽曲をご提供いただいた、作曲家 すぎやまこういち氏(本名:椙山 浩一)が2021年9月30日に逝去されました。故人の生前のご功績を偲ぶとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。 ■株式会社スクウェア・エニックス 代表取締役社⻑ 松田洋祐 コメント すぎやまこういち先生の突然のご訃報に接し、謹んで哀悼の意を表します。「ドラゴンクエスト」シリーズの誕生から今日に至るまで、言葉では表せないほどの多大なご尽力を賜りました。ドラゴンクエストコンサートでオーケストラを指揮される先生のお姿が昨日のことのように思い起こされます。 これまでのご功績と、すぎやま先生が作り出された多くの素晴らしい楽曲に敬意と感謝を表しますとともに、心よりお悔やみ申し上げます。
テレビ番組の司会などで関西を中心に活躍した、元タレントの上岡龍太郎さんが、肺がんと間質性肺炎のため、大阪府内の病院で5月19日に亡くなりました。81歳でした。 上岡龍太郎さんは1942年に京都市で生まれ、1960年に故・横山ノックさんらとともにトリオ漫才の「漫画トリオ」を結成すると、ノックさんの明るく強烈な「ボケ」に突っ込みを入れるスタイルで一躍人気を得ました。 1968年に「漫画トリオ」の活動を休止してからは、タレントとして数多くのテレビのバラエティー番組で司会などとして活躍し、辛口のコメントを交えた切れ味のよい流ちょうな話しぶりで親しまれました。 特に、1988年から放送が始まった民放のバラエティー番組「探偵!ナイトスクープ」では、初代局長として鋭いツッコミや時に見せる厳しい意見で、番組の顔として人気を不動のものにしました。 ほかにもトーク番組などで関西を中心に幅広く活躍していましたが
「ありがとう…感謝」などのヒット曲で知られる演歌歌手小金沢昇司(こがねざわ・しょうじ)さん(本名同じ)が11日、神奈川県内の病院で呼吸不全のために死去したことが15日、分かった。65歳。神奈川県大和市出身。所属レコード会社が発表した。92年にのど薬のCMで「歌手の小金沢くん」としてブレークし、お茶の間の人気者に。昨年が歌手生活35周年の節目だった。葬儀はすでに近親者で行った。 「歌手は歌わなければ『歌手』でなくてただの『カス』。だから声が出る限り全力で歌い続けますよ」。いつもそう言って“生涯現役”を誓っていた小金沢さんが旅だった。 関係者によると、22年夏に新型コロナウイルスに感染し、その後に自宅で誤嚥(ごえん)性肺炎を発症。その後は体調不良から入退院を繰り返し、年明けの11日に病院で亡くなった。最後は子どもや姉がみとった。 実家は神奈川県大和市のラーメン店。家業を継ぐために調理師免許を取
「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」などの作品で知られる漫画家の松本零士(まつもと・れいじ)さん(本名・晟=あきら)が2月13日午前11時0分、急性心不全のため、都内の病院で亡くなった。85歳だった。20日、東映が発表した。告別式は近親者のみですでに執り行っており、喪主は妻で漫画家の牧美也子さんが務めた。 所属する零時社の代表取締役で、長女の松本摩紀子氏もコメントを発表。「漫画家松本零士が、星の海に旅立ちました。漫画家として物語を描き続けることに思いを馳(は)せ駆け抜けた、幸せな人生だったと思います。『遠く時の輪の接する処で、また巡り会える』と松本は常々申しておりました。私たちもその言葉を信じ、その日を楽しみにしています。これまで応援くださいましたファンの皆さま、作品を世に送り出してくださいました関係各社の皆さま、お世話になりました各自治体ならびに各団体の皆さま、若かりし頃から共に切磋琢磨
貫禄ある演技で映画やテレビドラマで活躍し、バラエティー番組でも人気を集めた俳優の中尾彬さんが、今月16日に心不全のため亡くなりました。81歳でした。 中尾さんは千葉県木更津市の出身で、武蔵野美術大学在学中に日活ニューフェイスに合格し、俳優の道を歩み始めました。 渋い声と貫禄のある演技で、個性派俳優として活躍し、映画では、1993年以降、平成の「ゴジラ」シリーズに出演したほか、「極道の妻たち」や「アウトレイジビヨンド」など話題作に出演しました。 NHKでは大河ドラマの「秀吉」や「龍馬伝」をはじめ、「ハゲタカ」など数々のドラマに出演しました。 こわもてで悪役のイメージがある一方、マフラーをねじって首に巻く個性的なファッションでバラエティー番組に出演しユニークな発言でご意見番として人気を集めました。 また、妻は俳優の池波志乃さんで、おしどり夫婦としてさまざまな番組に2人で出演し親しまれました。
「ドラえもん」や「仮面ライダー」など、昭和のアニメや特撮の音楽を数多く手がけた巨匠として知られる作曲家の菊池俊輔さんが、今月24日、誤えん性肺炎のため、東京都内の療養施設で亡くなりました。89歳でした。 「こんなこといいな」の歌いだしの あの主題歌も 菊池さんは、昭和6年に青森県弘前市で生まれ、日本大学芸術学部で作曲を学んだあと、昭和36年に映画音楽の作曲家としてデビューしました。 その後、テレビに活躍の幅を広げ、アニメ「タイガーマスク」や「ゲッターロボ」、「Dr.スランプ アラレちゃん」、特撮の「仮面ライダー」シリーズ、それに「暴れん坊将軍」などの時代劇まで、さまざまな作品の主題歌やBGMを作曲して昭和のテレビを彩ってきました。 代表作となった「ドラえもん」の音楽では、「こんなこといいな」や「あたまテカテカ」の歌いだしで知られる主題歌のほか、「おれはジャイアンさまだ!」などの挿入歌も手が
言葉をめぐる人気エッセー「お言葉ですが…」シリーズで知られるエッセイストで中国文学者の高島俊男(たかしま・としお)さんが5日、心不全のため死去した。84歳。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妹、森沢敦子(もりさわ・あつこ)さん。 兵庫県相生市出身。東京大大学院で中国文学を専攻、岡山大助教授などを経てフリーの文筆家に。中国文学や、その影響を受けた日本語や日本文学についての深い学識を背景に、大手出版社や新聞、学界の権威の誤りを批判する軽妙なエッセーが好評を博し、「週刊文春」に平成7年から18年まで連載した「お言葉ですが…」は、全18巻におよぶ人気シリーズとなった。 7年、「本が好き、悪口言うのはもっと好き」で講談社エッセイ賞受賞。13年、「漱石の夏やすみ」で読売文学賞随筆・紀行賞。他の主な著作に、「中国の大盗賊・完全版」「漢字と日本人」など。
長年、テレビや舞台などで活躍し、高い演技力で知られた俳優の寺田農(てらだ・みのり)さんが今月14日、肺がんのため亡くなりました。81歳でした。 寺田さんは東京都の出身で、文学座付属の演劇研究所に第一期生として入所し、1961年に舞台でデビューしました。 そして、1968年には、岡本喜八監督の映画「肉弾」で主演し、毎日映画コンクールなどで高い評価を集めました。 高い演技力で活動の場はテレビにも広がり、時代劇をはじめとする数多くのドラマでは悪役としても存在感のある役柄を演じました。 NHKでは、「風と雲と虹と」や「独眼竜政宗」など、数多くの大河ドラマにも出演しています。 また、1986年の宮崎駿監督のアニメ映画「天空の城ラピュタ」では、ムスカ役を演じ、声優としても活躍しました。 所属事務所のホームページによりますと、寺田さんは、今月14日、肺がんのため亡くなったということです。 ホームページで
現在、喪の作業の第二段階にいる。 息子の筒井伸輔が死んだ。享年五十三歳、満年齢だと誕生日が来て 五十二歳になる。死因は食道癌。 昨年の四月、智子さんから電話があり、光子が出た。伸輔、以前か らものが食べにくく、自分で勝手に逆流性食道炎などと決めて医者に も行かなかったのだが、とうとうものが食べられなくなり、近所の医 者に行ったら食道癌が発見された。大きくなっていて、今までよくも のが食べられましたねと医者が驚いていたらしい。すぐに病院へと言 われて、ある人に紹介されたがん研有明病院に行き、検査を受けたの だが、あれから一年足らず、こんなに早く死ぬとは思わなかった。本 人もそう思っていたらしく、映画のビデオを沢山買い込んでいた。 院長や外科部長とも会い、抗癌剤、放射線治療、さまざまな治療を してもらったのだが、何しろ発見時にはステージ4の段階で、癌は食 道だけでなく気管支や淋巴節にまで浸潤し
日本のテレビ放送の草創期から活躍してきた俳優の中村メイコさんが、12月31日に肺塞栓症のため亡くなりました。89歳でした。 中村メイコさんは、作家、中村正常さんの長女として1934年に東京で生まれ、2歳で子役として映画デビューしました。 日本のテレビ放送の草創期から活躍し、NHK紅白歌合戦では、紅組の司会を1959年から3年連続で務めたほか、「連想ゲーム」や「お笑いオンステージ」など、NHKのバラエティー番組にも出演してお茶の間の人気を集めました。 俳優としては、連続テレビ小説「さくら」で、主人公の祖母役、「風のハルカ」では語りを務め、大河ドラマ「篤姫」など、多くの作品に出演しました。 放送文化の向上に寄与したとして、昭和57年度のNHK放送文化賞を受賞しています。 所属事務所によりますと、中村さんは、12月25日には番組収録の仕事をしていましたが、その6日後の12月31日に、肺塞栓症のた
「走れコウタロー」などのヒット曲で知られる歌手の山本コウタローさんが今月4日、脳内出血のため亡くなりました。 73歳でした。 山本コウタローさんは東京出身で、一橋大学在学中にフォークグループのメンバーとしてデビューし、1970年に発表した「走れコウタロー」は、軽快なメロディーと競馬をテーマにしたコミカルな歌詞で大ヒットとなります。 グループ解散後、新たにフォークグループ「山本コウタローとウィークエンド」を結成し、1974年に発表した「岬めぐり」がヒットしたほか、1980年以降はテレビやラジオで司会やコメンテーターを務めるなど活動の幅を広げました。 また、環境問題への造詣が深いことでも知られ、栃木県の白鴎大学で30年以上にわたって社会学や環境問題について講師や教授を務めました。 山本さんの公式ウェブサイトなどによりますと、山本さんは体調を崩して療養中でしたが、今月4日、脳内出血のため亡くなっ
二枚目の俳優として人気を集め、多くの映画や舞台に出演したほか、料理番組などテレビの司会者としても活躍した高島忠夫さんが26日、老衰のため亡くなりました。88歳でした。 学生時代からジャズバンドに熱中して「歌うスター」として売り出し、長身に甘い声とマスクの二枚目の俳優として人気を集め、「坊ちゃん」シリーズなど数多くの映画に出演しました。 活動の場を舞台にも広げ、代表作となったミュージカル「マイ・フェア・レディ」などで多くの観客を魅了しました。 テレビでも民放の料理番組に長年夫婦で出演し、人気クイズ番組の司会や映画の解説者も務めました。 平成8年から放送されたNHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」で主人公の姉妹の祖父役を演じるなど、幅広い活躍で親しまれました。 妻は宝塚のスターだった寿美花代さんで、息子の高嶋政宏さんと高嶋政伸さんが共に俳優と、芸能一家としても広く知られています。 高島さんはうつ
数多くの映画やテレビドラマ、それにバラエティー番組などに出演し、温かみのある山形弁の語り口で親しまれた俳優のあき竹城さんが今月15日、大腸がんのため東京都内の病院で亡くなりました。75歳でした。 あきさんは山形県出身で、中学校を卒業したあと上京して映画やテレビに出演するようになり、1983年には今村昌平監督の映画「楢山節考」に出演し、その演技が高い評価を受けました。 テレビドラマへの出演も数多く、NHKでは連続テレビ小説「どんど晴れ」や大河ドラマ「天地人」などで味のある演技をみせていました。 また、テレビのバラエティー番組でも活躍し、温かみのある山形弁の語り口と明るく飾らない人柄がお茶の間でも親しまれました。 所属事務所によりますと、あきさんはおよそ2年前から大腸がんで闘病していましたが、「元気なあき竹城でごあいさつしたい」という本人の希望もあり、公表せずに治療を続けてきたということです。
同社は「作詞家 三浦徳子(本名 高原徳子)儀、かねてより病気療養中のところ、令和5年11月6日午前1時21分に肺炎のため永眠いたしました。享年75歳。ここに生前のご厚誼を深謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます」と記した。 三浦さんは1978年に作詞家としてデビュー。ここ数年は病気のため作品づくりを控えていたといい「本年は作詞家として45周年を迎えた年でした。今までたくさんの作品に携わる機会を与えて下さった皆様に心より感謝申し上げます」と記した。 また「通夜及び告別式は家族葬にて執り行いましたことを併せてご報告いたします。なお、お別れ会などの実施につきましては、現在開催の予定はございません」としている。 三浦さんは、沢田研二「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」、郷ひろみ「お嫁サンバ」、松田聖子「青い珊瑚礁」、八神純子「みずいろの雨」、杏里「CAT'S EYE」、松原みき「真夜中のドア~St
「北条政子」など数々の歴史小説を手がけ、NHKの大河ドラマの原作者としても知られる直木賞作家の永井路子さんが先月、老衰のため都内の病院で亡くなりました。 97歳でした。 永井さんは1925年、東京で生まれ、東京女子大学を卒業したあと雑誌の編集者をしながら小説を書き始め、1965年に鎌倉時代を舞台にした歴史小説「炎環」で直木賞を受賞しました。 永井さんは、戦後、日本人の歴史観が大きく変わる中で、これまでの歴史観にとらわれず、資料を綿密に分析して独自の視点で歴史小説を書き続けました。 中でも「北条政子」や「乱紋」、それに「山霧 毛利元就の妻」など歴史の中の女性の役割に光を当てた作品を多く発表し、注目を集めました。 また、NHKの「堂々日本史」など、テレビ番組で歴史上の事件や人物についての新たな見方を分かりやすく解説するなど幅広く活躍しました。 永井さんの小説は、NHKの大河ドラマ「草燃える」や
女性で初めて参議院議長を務め、国土交通大臣などを歴任した扇千景氏が、がんのため、今月9日に東京都内の病院で亡くなりました。89歳でした。 扇氏は神戸市出身で、俳優として宝塚歌劇団で活躍したあと、昭和52年の参議院選挙の旧全国区に自民党から立候補して初当選し、繰り上げ当選も含め5回当選しました。 この間、自民党のほか、新進党や自由党などにも所属し、自民党と連立政権を組んだ保守党では党首を務めました。 そして、平成12年の第2次森内閣で、建設大臣と国土庁長官を兼務して初入閣し、省庁再編に伴い、初代の国土交通大臣を務めました。 小泉内閣でも再任され、道路公団の民営化問題などに取り組み、所属していた保守新党が解党して自民党に合併したことに伴い、自民党に復党しました。 平成16年には女性で初めて参議院議長に就任し、中国の国会にあたる全人代=全国人民代表大会との議員交流などに取り組みました。 平成19
物理学者で、東京大学の学長や文部大臣などを歴任した有馬朗人さんが亡くなりました。90歳でした。 有馬さんは昭和5年、大阪市生まれで、昭和28年に東京大学理学部を卒業し、その後東京大学の教授となり、平成元年から学長を務めたほか、平成5年からは理化学研究所の理事長も務めました。 原子核物理学の研究で優れた業績をあげ、平成5年に「日本学士院賞」を受賞したほか、平成10年にはフランスで最も名誉ある国家勲章「レジオン・ドヌール勲章」を受けています。 また、平成10年に参議院議員選挙で初当選し、文部大臣や科学技術庁長官を務めたほか、日本科学技術振興財団の会長などを歴任し、日本の科学技術の振興や教育改革などに取り組みました。 平成16年に文化功労者に選ばれたほか、平成22年には文化勲章を受章しています。 平成18年からは中高一貫校や大学を運営する武蔵学園の学園長を、平成22年からは静岡文化芸術大学の理事
「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」など、数多くのテレビドラマを手がけ、文化勲章を受章した脚本家の橋田壽賀子さんが、4日急性リンパ腫のため静岡県内の自宅で亡くなりました。95歳でした。 橋田さんは大正14年に現在の韓国・ソウルで生まれ、終戦後の昭和24年に映画会社の「松竹」に入社、その後、フリーの脚本家としてテレビドラマの人気作品を数多く手がけました。 民放のテレビドラマ「愛と死をみつめて」などの作品で知られるようになり、「おんな太閤記」や「春日局」などのNHK大河ドラマも担当しました。 中でも昭和58年から59年にかけてNHKで放送された連続テレビ小説「おしん」は、明治から昭和にかけて力強く生きる女性を描いて国民的な人気ドラマとなりました。 ビデオリサーチによりますと、最高視聴率は「62.9%」で、これは国内のテレビドラマで歴代最高の視聴率だということです。 「おしん」は、アジアや中東、ア
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