Here used to be @partyhike profile Well, apparently not anymore. Return to main page
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非常勤講師に対する扱いがひどすぎるからです。今年になってから労働時間は増えたのに給与は実質減給、非常勤講師がデータベースに学外アクセスする権利を奪い、私たち非常勤講師は教職員では無いと言い、雇用契約関係が無いのにメディアの取材を受けるなとかいろいろ命令してきます。私は給与じゃなく図書館やデータベースが使いたかったし、やる気ある学生に実験的な授業ができるから東大で非常勤講師を続けてましたが、いくら学生は良くてもこれではもう現界です。最初は非常勤講師組合にアドバイスをもらって戦うつもりでしたが、もう疲れました。あんなとこで働くもんじゃありません。あと東大生のみなさん、非常勤講師で授業を担当してる先生方は東大の見解によれば教職員でもなんでもないということを覚えといてくださいね。あなたたちは教職員ではない人たちに勉強を教わってます。
.お隣の憲法業界とは違うことを言わないと仕方ないというか、戦後憲法学に対するアンチとして存在感を示そうとしてきた部分はあるでしょう。あと、世論が一方的になってきたときにあえて嫌なことを言う知識人の役割を引き受けよう、という意識も強そうです。歴史的な事情としては、法哲学出身で東大法学部の憲法の教授になった小林直樹先生の回顧「人間学志向の小源泉」(国家学会雑誌119巻9-10号、2006年)などが参考になります。 .でもこれも東大系の一部の目立つ人にそういう傾向があるかも?という程度で、一般的なことは言いにくいと思います。たとえば京大系だと憲法もわりと保守的な人が多いので、法哲学者がそこで頑張る必要はそこまでなかったりもする。このあたりは、戦後憲法学といってもまったく一枚岩ではない、というのを知ると印象が変わってくると思います(たとえば参考、菅野喜八郎・小針司『憲法思想研究回想』信山社出版、2
こんな感じでいかがでしょう(5種8冊になってしまいましたが) ①数学を哲学する スチュワート シャピロ http://www.amazon.co.jp/dp/4480860746/ref=cm_sw_r_tw_dp_moE0vb1VN9SAR ②言語はなぜ哲学の問題になるのか イアン・ハッキング http://www.amazon.co.jp/dp/4326152192/ref=cm_sw_r_tw_dp_zpE0vb05JWVNK ③言語哲学大全1論理と言語 飯田 隆 http://www.amazon.co.jp/dp/4326152001/ref=cm_sw_r_tw_dp_eqE0vb1N0H85J(4巻まで) ④ダメットにたどりつくまで (双書エニグマ) 金子 洋之 http://www.amazon.co.jp/dp/432619913X/ref=cm_sw_r_tw_dp_u
かれこれ15年くらいネットワーク環境から遠ざかっていたので、Twitterなんて正しく夢の世界でがすよ(悪夢?)。「ネットは広大だわ」by草薙素子(攻殻機動隊1巻最後のセリフ)要注意:無断転載は一切お断りします。必ず許可を取って下さい。 こういう映像表現が可能になったのは、アニメーションの制作現場にコンピューターが導入されたここ10年くらいですけど、制作会社にコンピューターが導入されたのは1990年代の話です。では、何故、こういう映像表現が最近になって多用される様になったか?というと、アニメーション制作とひと言で言えないほど、各部署の作業内容の足並みを揃える事が困難を極める共通意識で成り立たっていたからです。コンピューターが導入される以前の制作工程は、各部署の責任職の人がそれぞれの作業内容について、キチンと責任を取る(取れる)事がそもそもの大前提で、つまり、監督の采配に合わせて各部署が作業
.新書や一般向けの本がたくさんありますので、手に入るものからどれでも、という感じです。研究書のなかでも比較的読みやすいものとしては、『近代国民国家の憲法構造』(東京大学出版会、1994年)など。樋口先生の問題設定(「ルソーかトクヴィルか」など)が明快に述べられていて、その後の憲法学者たち、たとえば長谷部先生や石川先生に与えた影響がよくわかってくるのではないかと思います。この系列の本としては、『憲法 近代知の復権へ』(東京大学出版会、2002年)、『憲法という作為』(岩波書店、2009年)など。『国法学』(有斐閣、2004/2007年)は教科書風ではあるものの、中身は実質的には軽く流した論文集っぽいのでこの系列に入れてもよさそうな感じ。 .個人的にいちばん「勉強になった」感があるのは『比較憲法』(青林書院新社、1977年)で、これはちょっと現在でも類書が見つからないレベルの本だと思います。樋
.いろんな企業の再生に関わってきて、日本の高等教育のダメなところをいろいろ痛感したんじゃないでしょうかね。最近の「文系」への風当たりの強さって、特に「役に立たない」と思われがちな人文系が狙い撃ちにされているというイメージがありますが、冨山先輩に特徴的なのは、人文系には意外に温かいところなんですよね。むしろ文系の中でも比較的「つぶしがきく」と思われてきた法学や経済学など社会科学系のほうが「現場」では役に立たず、そしてそのイメージのギャップゆえに罪深いと標的にされてる感じ。こういう教育観が文科省とかの中の人に影響を与えているとしたら、最近の大学改革論議で主に人文系の学問を念頭に置いて教養の長期的効用とか説いているたくさんの人は盛大な空振りをしてしまっているのではないか、というふうに感じます。
ご質問ありがとうございます。最近また文系の学問が役に立つかどうか話が盛り上がっていますね。だいたい話題は出尽くしていると思うのに何度も盛り上がっては同じ意見を言い合って終わるというのは、それだけテーマ自体がいろいろな人の心の琴線に触れる部分があるのでしょうね。今回は文部科学省の通知という呼び水があったのも大きいでしょうが、しかし通知の本文を読んで議論してらっしゃる方はどのくらいいるのでしょうね。 それはともかく、「人文学は必要か」「人文学はなぜ必要か」といった問いは、近似としてもおおざっぱすぎです。 まず、必要性が問われているものが「人文学そのもの」なのか「大学における人文学教育」なのか「大学における人文学研究」なのか「大学における人文学研究者の雇用」なのか、さらにその上に「日本における」がつくのかつかないのか、あとは大学といっても国立大学に限定するのかしないのかも、議論の流れによっては影
上野と申します。 皆様にお楽しみ頂けるよう頑張らせて頂きます 恋愛、ラブホ、その他について呟かせて頂きます なお個人アカウントであり、特定の団体について呟くものでは御座いません 聞いた話とかも多いので 御質問誠に有難う御座います。 アスタリフトという化粧品をご存知でしょうか? もしかしたらご存知ないかも知れませんが、アスタリフトとは元々フィルムメーカーだった「富士フイルム」が発売している化粧品ブランドで御座います。 最近はめっきり聞かなくなりましたが、富士フイルムと言えば「お正月を写そう」などのキャッチコピーで知られた日本最大のフイルムメーカーで御座います。 フィルムというと馴染みのない方もいらっしゃるでしょう。勿論私と同年代以上の方からすれば、馴染みもあるかと思いますが、携帯カメラやデジタルカメラが普及する前には、フィルムをわざわざ現像屋さんに持って行って現像して貰わないと写真を見ること
1) サンデルブーム .あれってなんだったんですかね、というのは法哲学の授業の最初のほうで問いに出して考えてもらってるんですが、もう5年ぐらいたってしまったので、知らない学生も多くて難しくなってきちゃいました。ピケティで代わりのことができるかなあ。 .というのはともかく、表向きの答えとしては、長く続く不景気とかで社会的な価値基準が揺らいできており、またテレビ番組から時期がちょっと後になりますが、東日本大震災とそれに続く原発事故などもあって社会的な「正義」というものをしっかり根本から考えてみたいというニーズに応えるものだったということもあるでしょう。 .あとはサンデルの講義というか場のさばき方はやはり上手なもので、哲学的風味の「対話」をエキサイティングなショーとして見せるワザを開発したわけですね。で、日本でもその後、それを真似した「白熱教室」が大学でも市民集会でもいろんなところで行われていて
民法をやっているかどうかです。……というだけではわかりにくいので、もうちょっと説明します。研究する領域はかなりの程度に重なっていますね。この三者に加えて、理論系の社会学なども似ています。たとえば、最近流行の「グローバル・ジャスティス」論などは、どの分野もだいたい同じような文献を読んだ上で論じていますので、パッと見では著者の分野の違いなんてわかりません。法哲学だったら法制度をつねに念頭に置いている……はずですが、別にそういうの言及していない論文もたくさんあるのでよくわからない。もう、ぶっちゃけ出身や所属など制度上の違いにすぎない、ともいいたくなります。しかし、それで済ますのもどうも気がきかない。この三者は、やっている内容や研究手法というより、バックグラウンドの違いが大きいと思います。法哲学だと憲法・民法・刑法……という法律科目を一通りやっていますし、政治哲学だと実証系の政治学などをやっている
いま流通している翻訳って関泰祐、望月市恵共訳(岩波文庫)と高橋義孝訳(新潮文庫)くらいでしたっけ?両方とも通読したことはあります。そのときの思い出でいえば、よりリーダブルなのは後者でしょうかね。もっとも原文と照合したりしたことはなく、翻訳としてどうかという話はできません。 さて、マンについては思いの丈を語ってボロが出ないほどの見識もないので、自分の関心事であるレオ・ナフタの造形についてだけ少々。彼に関しては、ルカーチをモデルにしたというのが定説化し(白水社版『ルカーチ著作集』所収のカール・ケレーニイ論文など)、日本でももっぱらそのように語られている一方、ほかにクラーゲスの名前を挙げる者(Reinhard Falter, Ludwig Klages. Lebensphilosophie als Zivilisationskritik, München 2003)や、時代が合わないのを承知でエ
.たとえば食堂で野菜を前のほうに置いておくと、みんな無意識に野菜をたくさん食べて健康!とかそんなのです。「おら、肉ばっか食うな、野菜食え」と強制しているわけではなく、あくまで自由な選択に任されているからリバタリアンでありつつ、でも本人にとっていいことが実現されやすくなっているのでパターナリズムでもある(それは両立する)、という主張ですね。食堂の野菜の例は卑近すぎるかもしれませんが、行動経済学とかの知見が積み重なっていくにつれ、日常生活のありとあらゆるところでそういった無意識の誘導が可能になっています。これって「自由」を侵害されてないの?というのはどうしても問題になるところですが、さてどうしたものか。 .より立ち入った検討としては森村先生によるものがよいと思いますが*、先生はこれをリバタリアンとしてわりと好意的に捉えていらっしゃいますね。これはリバタリアン的に保障すべき自由が消極的自由(他者
ずっと以前にこういうツイートをしたのが、いまだにリツイートしていただいたりしています。 https://twitter.com/tiseda/status/42611713010438145 まあこのとおりにすべて読むと話題のかぶりが多くてちょっとつらいと思うので、適当に間を飛ばしながら読んでいただければと思います。 このあとに出た本では 戸田山『科学的思考のレッスン』 がオカーシャより前に読める、本当に第一の入り口となることを意識した入門書になっています。(放射線医学関係の記述にちょっと同意できないところはありますが) それから チャルマーズ『改訂新版 科学論の展開』 は、わたしも科学哲学を勉強しはじめるときに読んだ代表的な入門書の改訂版です。古めの科学哲学の記述が厚く、新しめの展開も今回の改訂版でカバーしたので、読み物的な入門書としては最強かもしれません。 あと、 http://ask
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