これは、その通りなんだけど、「私がネットに書いていることは人格の一部だけ。それだけで私のことを判断するな!」という人が、ネットの発言だけで相手を「生きる価値がない」「死ねばいいのに」とか人格を否定していることがよくある。それって、あなたがやって欲しくないことでは…?と不思議に思って指摘したくなるのだが、指摘したところで逆ギレされるのがオチなのでだまっておくのが吉。
たいしゅううんどう - 友達は労働。 似非原さんの具体的な金額の話を見て思ったが、実際に会うような人間関係を継続するためには、金銭コストがかかるのは避けられないというのは、当たり前過ぎるからか、意外と意識されてないかもしれない。地方の人が不利なのは交通費のコストの高さがあるからだし、会う場所に飲み屋などを選べば、数千円は確実にかかる。その程度の支出なんて…と思うかも知れないが、複数のコミュニティに所属したいと思ったら、そのコストはばかにならない。 しかし、ネットなら、通信費は必要だが、定額なので、上限に限りがあり、必要なコストは時間が中心だ。ネットはお金はないけど時間がある人間にやさしい場所。
モテ/非モテということが、男子のあいだで話題になっているようだ。これについては、人生の先輩として言いたいことがいろいろあるので、少しだけ書く。 モテは、「ちょいモテおやじ」みたいに、いろんな女にちやほやされて、性的な視線を送られることというふうに理解されることが多いと思うが、そこをコペルニクス的転回しないといけないように思うのである。 そもそも、「いろんな女からちやほやされたい、あわよくば、いろんな女とエッチしたい」という願望は、「権力欲」にほかならない。このような権力欲に裏付けられたモテにこだわっているかぎり、光明はさしてこないだろう。(沼崎一郎はこれを「男力」として批判している)。 そのような観念に絡め取られたうえで発せられる「モテ/非モテ」のパラダイムを、脱出しないといけないのではないのか。 では、コペルニクス的転回後のモテとは、いったい何なのか? 私が思うに、モテる男とは(とりあえ
もしかして既出かしら。 自分はここ数ヶ月の非コミュに関する流れは非モテ議論を踏まえたものだと思ってた。具体的には、まず非モテ=非・非・非モテ=非・恋愛強者という暗黙の共通意識があって、「恋愛強者は常に不細工を振るという前提は美女と野獣型カップルを説明しない」「フツメン以下のヲタは恋愛強者たりえないという認識はヲタップルの存在と矛盾する」等の指摘があり、止揚として非コミュ=非・非・非コミュ=非・コミュニケーション強者が持ち出されたという認識。 例えばこれ VoQn 『(略) 非コミュについて盛り上がっていましたが、非コミュなのではなく属するコミュニティが少ない少コミュなだけなんじゃないかと思います。もしかすると、自称非コミュの幾人かはネットのコミュニティが自分の人格においてウェイトレシオが高くなり、ネットに露出する人格を自分同様その中の人そのものと同一視してしまう傾向にあるのかも。 なんて書
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