東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、つねにすでにあった実存的な問題に改めて直面することになったという人も多いのではないだろうか。 だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたの
橋下大阪府知事が精力的にツイッターに投稿を続けています。昨日3月9日、朝鮮学校に対する助成金支給についてツイートした内容が、各方面に反響を呼んでいます。ツイートの概要は、以下の通り。(見出し数字は引用者) 「日本人拉致問題、隣国である北朝鮮の現在の振る舞いを考えると、日本と北朝鮮の歴史的な経緯を踏まえてもなお大阪府民の多くは、朝鮮学校への補助金支出には納得できない。」 「今の大阪府の状況だと、このまま朝鮮学校に補助金を支出する方が学校にとっても不幸。だって大阪府民は腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続けるから。」 「多くの住民が補助金支給に納得していなければ、不満を抱いていれば、日本と朝鮮学校の共生は成り立たない。」 「僕は学校と北朝鮮国家の関係性が遮断されることを目的とした大阪府のルールを作りました。」 「僕が作ったルールに従ってくれれば大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれるはず。これで
朝鮮学校の「高校無償化」については、第三者機関による周到な検討を経て、いったん適用が決まっていたにもかかわらず、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)による韓国砲撃へのリアクションとして、政府が審査手続きを停止している状態が続いています。 朝鮮学校生徒保護者からは、先月、文部科学省に対して行政不服審査法に基づく異議申し立てがなされていましたが、このほど文部科学省から回答の通知が送付されました。内容は以下の通りです(参考:朝鮮学校無償化問題FAQ)。 平成23年1月17日付をもって、あなたから提出のあった公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第一条第一項第2号ハの規定に基づく指定に関する規定第14条の規定に基づく申請については、平成22年11月29日の北朝鮮による砲撃が、我国を含む北東アジア地域全体の平和と安全を損なうものであり、政府を挙げて情報収集に努
朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の局地的紛争を受けて、高木文科相と仙石官房長官が、それぞれ、朝鮮学校を無償化の対象とする方針を見直す考えに言及したという。 なんと愚かなことか。人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家なのかといわざるをえない。もちろん、北朝鮮のことではない。日本のことだ。 歴史を振り返ると、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのだから、それも当然だろう。 そうした世論を受けて、当時の日本政府はどうしたか。まだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとした。 つ
以下は2000年3月ごろに在日メーリングリストに投稿した雑文です。思いつきで 書きなぐったものですが、人によっては参考になる部分があるかもしれません。 何かのヒントになれば幸いです。 *******ここから******** 金明秀です。この宿題をやってて、自分は理論家には向いていないと自覚を深 めつつあります(^^;)。長文ですので、関心の薄い人はすっとばしてください。 1.受益層/無利害層/受苦層 社会的資源が動くとき、それによって利益を受ける「受益層」、不利益をこう むる「受苦層」、どちらでもない「無利害層」の3つのグループが成立します。 たとえば、ゴミ焼却処理施設が建設されるとき、施設の近隣地域の住民は「受 苦層」、その施設にゴミを排出する住民は「受益層」、どちらでもない人々は 「無利害層」です。 新しく国家として独立した多民族社会で、最大民族集団の言語を「国語」にし ようとするとき
差別についての研究には、ずいぶん多様なアプローチがあります。学問分野は心理学、社会学、経済学、政治学、等々と多岐にわたっているし、手法もミクロなものからマクロなものまで様々です。 その中で、直感的にわかりやすいためでしょうか、(一昔前の)心理学分野の研究は一般にもよく知られているように思われます。偏見理論、社会的比較の理論、権威主義的態度、あたりです。とりわけ、偏見理論は差別についての通俗的解釈ともよく合致するため、道徳教育の一環として行われる人権教育においても頻繁に言及されています。 ここでいう偏見理論とは、「偏見」という心理的な準備状態があるから「差別」という行為が発生する、という前提を含む研究群の総称です。一般には、「差別意識が差別を生む」という表現のほうがなじんでいるかもしれません。「差別は心の問題である」というとき、偏見理論が想定されていることが多いように思います。 でも、当の心
これまでにいくつかの大学で差別研究について教える機会を持ったことがあります。その種の講義(以下、「差別論」)では、学生たちに繰り返し繰り返し、3つの留意事項を伝達する必要がありました。 差別問題は「被差別者の問題」ではないこと 家族やメディアといったほかのテーマと同じように差別という題材に向き合うこと 形式的な「正当/不当」(誰が「悪い」のか?)の結論を急ぎすぎないこと 3つは同根の問題ですので、すべてを合わせて「安易に《犯人探し》をするな」と言い換えてもかまいません。でも、少しでも具体的なほうがわかりやすいでしょうから、3つに分けて説明していきましょう。 1はvictim blamingとして知られる問題ですね。「被差別者の問題」という発想がいかに非論理的であるかを毎回のように説明しておかなければ、ミニッツペーパーに「今回の事例は差別される側に問題があると思います」と書いてくる学生が必ず
人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。 「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知った。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教育なんかないほうがいい」 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかってい
なんだか、前回のネタははてなブックマークで賛否両面から大人気でした。でも、いくつか前提となる知識がないとピンとこない応用的な内容でしたので、趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれませんね。今回は、前回のエントリーの統計学的な根拠を少し紹介しましょう。 かつて敬愛する先輩が差別論の授業資料をウェブで公開していて、その中に興味深い調査のアイディアが記載されていました。具体的な場面をあげながら、「次のいろいろなことがらを差別だと思うかどうか、1から3のうちでもっともよくあてはまる番号をそれぞれ選んでください」と尋ねます。それによって、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」を測定しようというわけです。 先輩には無断でしたが、即、非常勤先の「社会学入門」を受講している学生を対象に調査をしてみました。(結果は翌々週の授業のネタに使いました。じつは、前回のエントリーは、その「翌々週の授業
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