法華講員は創価本尊を「ニセ本尊」と指摘する。私は以前は、御本尊に対して「ニセ」という言葉を使うのに抵抗があったが今では創価の本尊が「偽物(似せもの)」だということがよく理解できる。この偽本尊論議について開眼の有無の話になりがちだがいまの無教学の創価員に開眼の話を教えたところで理解できない。「御本尊には開眼不要」と創価員は主張するが、開眼とは草木成仏の法理に基づている。草木成仏とは非情(心の無い存在)である草木(当然紙も含まれる)に心(魂)を入れることである。紙に文字を書いただけの曼荼羅では御本尊と言わない。「御本尊」には改めて開眼は不要だが創価本尊は御本尊ではなくただの掛軸なのだ。御本尊に書かれている文字を書いただけの紙は本尊ではない。単なる文字の書かれている紙は非情だからで開眼されて初めて御本尊になる。こんな基本的な法理すら理解できない創価員だから御本尊の体など理解できるわけない。よって