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日寛上人文段に関するsokadamedasiのブックマーク (6)

  • 日寛上人の御書文段の御指南⑬(妙法曼荼羅供養抄記) - 創価ダメだしブログ

    心に尊を信ずるは意業供養なり。口に妙法を唱うるは口業供養なり。身に曼陀羅を礼するは身業供養なり 今回は『妙法曼荼羅供養抄記』からの御指南を拝します。以前も書きましたが勤行唱題は大聖人仏法の根幹であり全ての修行が勤行唱題行に含まれています。その中で三業供養が勤行唱題であるというのが文の御指南です。功徳を積む、願いを叶えるいう事は2次的なもので三業供養が勤行唱題の根中の根なのです。ですから勤行唱題の際にはまずは御尊に御供養申し上げるという気持ちが大切になります。それもなくただ自分の功徳や願いばかりを要求するような創価学会員達は「乞信心の乞信徒」でそんな信心に当の功徳が積める道理はありません。さて、勤行唱題について『如説修行抄筆記』では日寛上人は「手に珠数を持ちて尊に向わざれば、身が謗法に同ずるなり」とも御指南されています。私たちは「苦しい」といっては勤行ができず、「楽しい」と

    日寛上人の御書文段の御指南⑬(妙法曼荼羅供養抄記) - 創価ダメだしブログ
  • 日寛上人の御書文段の御指南⑪(如説修行抄筆記) - 創価ダメだしブログ

    常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を言わざれば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて尊に向わざれば、身が謗法に同ずるなり。故に法華門の尊を念じ、門寿量の尊に向い、口に法華門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。これ則ち身口意の三業に法華を信ずる人なり云云。 今回は日寛上人の有名な御指南なので知っている人も多いかと思います。「四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり」の御指南は池田創価が謗法であることの明確な文証ですね。池田大作は「ただ…、真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう。」と四箇の格言を侮蔑するスピーチをし現在の学会員もこの池田の考えに賛同しているから「心が謗法」であることは明確です。「ただ心こそ大切なれ」(四条金吾殿御返事)と大聖人が言われているように、「心が謗法」であれ

    日寛上人の御書文段の御指南⑪(如説修行抄筆記) - 創価ダメだしブログ
  • 日寛上人の御書文段の御指南⑩(法華取要抄私記) - 創価ダメだしブログ

    若し御自身に、我を以て尊とせよと遊ばされたらば、何れの人か之を信ずべけんや。此れを以て文底に秘して、文の上を遊ばされたり。されば当家の習う法門は是れなり。 今回のは『法華取要抄私記』から当ブログでいつも書いている「御尊は日蓮大聖人の色心二法である」という日寛上人の御指南です。創価や身延或いは無宗教に転向した人達は、戒壇大御尊や大聖人仏論といった正宗教義を否定するために「御書(遺文)に書いていない」ということを根拠としますが、御書に重要な事が書かれていない理由を日寛上人がここで述べています。大聖人が御自身の事を尊にせよと言ったならばそれを理解できない僧俗信徒が信用せず不信を起こして退転してしまうという御配慮・慈悲からなのです。そもそも御書は対機説法ですから法門法義の全てが御書に書かれているわけではありません。御書を全て読めば分かりますが法体に関する重要な法義は御書にはほとんど書かれ

    日寛上人の御書文段の御指南⑩(法華取要抄私記) - 創価ダメだしブログ
  • 日寛上人の御書文段の御指南⑨(法華取要抄文段) - 創価ダメだしブログ

    「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ち是れ人法体一の門の尊なり。此の尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ち是れ門の題目なり。尊及び行者の所住の処は、即ち是れ門の戒壇なり。 今回は『法華取要抄文段』の御指南を学びます。法華講員ならば南無妙法蓮華経が宇宙の法則でも御尊が幸福製造機などではないことなど百も承知ですが異流義・創価では相変わらず池田大作のインチキ教学の「南無妙法蓮華経宇宙法則論」を語っているのだから笑ってしまいすね。そんな池田インチキ教学を真っ向から否定し破折するのが今回の御文です。池田大作のインチキ教学は何処から出たのかと言えばひとえに池田の圧倒的な教学力不足からです。池田は大聖人仏法の基である【因妙】すら全く理解できていなかったです。多くの学会員は一般の無信仰の人々同様に「妙法蓮華経」に「南無」することが「南無妙法蓮華経」だと思っているフ

    日寛上人の御書文段の御指南⑨(法華取要抄文段) - 創価ダメだしブログ
  • 日寛上人の御書文段の御指南⑧(報恩抄文段上) - 創価ダメだしブログ

    問う、報恩の要術、その意は如何。答う、不惜身命を名づけて要術と為す。謂く、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通すれば、即ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり。 今回は『報恩抄文段』の御指南を拝します。これは文の「かくのごとく存じて、父母・師匠等に随わずして仏法をうかがいしほどに~」の部分の御講義です。ここでは大聖人仏法の僧俗の行うべき報恩とは、父母・師匠に随うことではなく「不惜身命」で破邪・顕正の折伏を行うことであると日寛上人は御指南されています。この御文の直前に、「邪法を退治するは即ちこれ報恩なることを明かし乃至正法を弘通するは即ちこれ謝徳なることを明かすなり」と言われていて「報恩」とは邪教破折をすることであり、「謝徳」とは大聖人の正法を弘教することであると日寛上人は言われています。父母・師匠そして一切衆生に対して折伏弘教をしていくことがそれらの人々に対しての報恩謝徳であり翻って

    日寛上人の御書文段の御指南⑧(報恩抄文段上) - 創価ダメだしブログ
  • 日寛上人の御書文段の御指南⑦(撰時抄下愚記) - 創価ダメだしブログ

    今時、偽書を造らずと雖も、迹一致の修行を作す、豈蓮祖の獅子身中の虫に非ずや。我が日興上人は実にこれ蓮祖付嘱の写瓶なり。深くこれを思うべし云云。 今回は大聖人仏法における「師子身中の虫」に関する御指南です。「問う、蓮祖の獅子身中の虫これありや」との設問に『日興遺誡置文』の「僞書を造つて御書と號し迹一致の修行を致す者は獅子身中の蟲と心得べき事」を引用し上記の御指南をされています。「迹」というと一応は法華経の門と迹門ということですが、総じて言えば「迹」とは法華経に限りません。大聖人の仏法全般にわたって「地」と「垂迹」が存在します。そしてこの「迹」から、総別・能所・事理等の立て分けが生まれ会通されていきます。それが大聖人の法門の基となります。故にこの「迹」とは大聖人仏法にける根の法門なのです。その根の分別に迷い「なんでも同じ」という迹一致の己義を構える者を「師子身中の虫」と

    日寛上人の御書文段の御指南⑦(撰時抄下愚記) - 創価ダメだしブログ
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