若し御自身に、我を以て本尊とせよと遊ばされたらば、何れの人か之を信ずべけんや。此れを以て文底に秘して、文の上を遊ばされたり。されば当家の習う法門は是れなり。 今回のは『法華取要抄私記』から当ブログでいつも書いている「御本尊は日蓮大聖人の色心二法である」という日寛上人の御指南です。創価や身延或いは無宗教に転向した人達は、戒壇大御本尊や大聖人本仏論といった正宗教義を否定するために「御書(遺文)に書いていない」ということを根拠としますが、御書に重要な事が書かれていない理由を日寛上人がここで述べています。大聖人が御自身の事を本尊にせよと言ったならばそれを理解できない僧俗信徒が信用せず不信を起こして退転してしまうという御配慮・慈悲からなのです。そもそも御書は対機説法ですから法門法義の全てが御書に書かれているわけではありません。御書を全て読めば分かりますが法体に関する重要な法義は御書にはほとんど書かれ